第13話 孤島の館と立ち上がらない祖父(前編)
その館は、海に囲まれるために建っているような建物だった。
本土から小型船で三十分。晴れた日には近く見えるのに、波が立つと急に遠くなる。白藤島はそういう島だった。崖の上に建つ《白藤館》は、黒い岩場と冬の海を見下ろしている。白い壁、深い緑の屋根、海風で少しだけ錆びた手すり。いかにも何か起きそうな顔をした館だが、そういう顔の建物に限って、だいたい何か起きる。
館の主、白藤宗一郎は八十三歳。十年前に視力を失い、三年前からは車椅子を使っている。盲目で、足も悪い。だがこの館では、誰も彼を「弱った老人」とは思っていなかった。思えなかった、と言ったほうが正確かもしれない。
宗一郎の前では、誰もが言葉を選ぶ。
目が見えないはずなのに、視線を逸らしたくなる。
そんな老人だった。
その日、館に集められていたのは、宗一郎に呼ばれた家族と関係者たちだった。
長男の白藤正臣。
孫娘の白藤澪。
宗一郎の身の回りを世話する介助人の小田切由利。
顧問弁護士の滝沢修司。
館の執事、桐野誠。
そして、なぜか宗一郎たっての希望で招待されていた名探偵・明智院金四郎。
同行していた田所刑事は、島へ渡る船の上ですでに嫌な予感しかしなかった。
「なぜ私まで」
と田所が言うと、
「休暇だろう?」
と宗一郎は笑った。
「孤島の館に名探偵と刑事がそろう。なかなか景気がいいじゃないか」
景気はよくないだろう、と田所は思ったが口には出さなかった。
午後五時を過ぎる頃には、海が本気を出した。
島へ渡ってきた小型船は、館の下の小さな桟橋に繋がれたままだったが、風が強まるにつれて船体は露骨に跳ね始めた。執事の桐野が双眼鏡を下ろし、静かに告げる。
「今夜の出航は無理です。波が高すぎる」
「明日の朝は?」
と田所。
「風次第ですが、今夜じゅうはまず無理でしょう」
「電話は?」
「外線は不安定です。島の無線も先ほどからつながりません」
「閉じ込められたわけか」
「ええ」
と桐野は静かに答えた。
明智院だけが、どこか満足げだった。
「……なるほど」
「まだ何も起きてませんよ」
と田所刑事が言った。
「今のうちにその“なるほど”はしまっておいてください」
しかし明智院は、海の見えるサロンで、いかにも“始まる前から始まっている男”の顔をしていた。
夕食は妙に静かだった。
波が窓を打つたびに、カトラリーの音が少しだけ揺れる。宗一郎はスープの匙を置くと、盲いた目を伏せたまま言った。
「今夜、遺言の話をする」
全員の手が、ほんの少しだけ止まった。
長男の正臣が先に口を開いた。
「父さん、こんなタイミングで?」
「だからだ」
と宗一郎は言った。
「島は逃げ場がない。人は逃げ場がないほうが、本音に近い」
「縁起でもない」
と澪が小さく言う。
「縁起は昔からいいほうではない」
と宗一郎は笑った。
顧問弁護士の滝沢が、脇に置いた革鞄を軽く叩く。
「草案はお預かりしています。最終確認だけ、今夜のうちに」
「食後に書斎へ来てくれ」
と宗一郎。
「少し、二人で話したい」
「承知しました」
そのやり取りを、明智院は妙に深い顔で聞いていた。
どうせ頭の中では、すでに三つくらい遺言絡みの陰謀が育っているに違いなかった。
食後、宗一郎は由利の介助で一度自室へ戻った。遺言確認の前に少し休みたいと言ったのだ。滝沢は革鞄を持って書斎へ向かい、正臣はその背中をじっと見ていた。澪は窓辺に立ち、桐野は食器の片づけを始め、田所は海を見ながら「ほんとに閉じたな」と思った。
それから十五分もしないうちに、一つ目の死体が見つかった。
書斎へ向かったはずの滝沢修司が、東翼の資料室で倒れていた。胸には、壁の装飾用に飾られていた細身のレターオープナーが深く突き立っている。床に落ちた血は、磨かれた板の上でやけに黒く光って見えた。
澪が短く息をのんだ。
正臣は扉の縁をつかんだまま固まっていた。
由利は青ざめ、桐野はすぐに館内ベルを鳴らした。
田所刑事は膝をつき、滝沢の首元に手をやったあと、静かに言った。
「……だめです。もう死んでる」
資料室の窓は閉まっていた。外には崖、下には海。入口は一つ。床には、血のほかに奇妙な痕が残っていた。
幅の狭い、二本並んだ車輪の跡。
明智院の目が、危険なほど輝いた。
「見たまえ」
「今、絶対うれしかったでしょう」
と田所刑事が言った。
「そんなことはない」
と明智院。
「だが、これは見過ごせない」
彼は床を指した。
「車椅子の痕だ」
談話室へ戻された全員の顔から、食後の温度は消えていた。外は完全な夜。船は出せない。電話も無線もだめ。島には館の人間しかいない。死体は一つ。床には車椅子の跡。
明智院が、そこで静かに立ち上がった。
「犯人は、この中にいる!!」
沈黙。
「ええ、そうでしょうね」
と田所刑事が言った。
「孤島ですし」
「雑だな」
と明智院は言った。
「孤島の館で、顧問弁護士が胸を刺されて死ぬ。さらに床には車椅子の痕。
この状況で、その一言を雑に扱うのはよくない」
「でも、あなた今“車椅子の痕”ってところでかなりテンション上がりましたよね」
と澪が言った。
「上がっていない」
「声が少し弾んでました」
「気のせいだ」
「こっちは気づくんだよ」
と田所。
宗一郎は暖炉の前で、車椅子の肘掛けに手を置いたまま黙っていた。その横顔は、盲目の老人というより、何かの音を待っている人のように見えた。
田所は順に確認した。
「滝沢先生を最後に見たのは?」
「夕食のあとです」
と澪。
「書斎へ向かうのを」
「書斎には?」
「行ってません」
と宗一郎が言った。
「わしは途中で気が変わって、自室へ戻った。由利にそう言った」
「滝沢先生には?」
「伝えていない」
「じゃあ先生は書斎へ行って、いなかったから?」
「館内を探したのでしょう」
と桐野。
「資料室なら、書斎のすぐ先です」
「私は父の部屋の近くにいた」
と正臣が言った。
「何を」
「遺言の話を先に聞きたくて」
「露骨だな」
と田所が言うと、正臣は苦い顔をした。
「そう聞こえるなら、そうでしょうね」
「私は宗一郎様を部屋へお送りしたあと、いったんサロンへ戻りました」
と由利が言った。
「桐野さんとお茶の準備を」
「ええ」
と桐野。
「私はそのとき一緒でした」
「私は……」
と澪が言いかけて、少し迷った。
「私は二階の廊下にいました」
「何をしていた?」
「祖父の部屋へ」
「入ったのか」
「いいえ。途中でやめました」
「なぜ」
「遺言の話が嫌だったからです」
明智院の目が光る。
「なるほど」
「まだ早いですよ」
と田所刑事。
「いいや、十分だ。
遺言。孤島。館。車椅子の痕。
舞台はそろった」
「人が死んでるんだから舞台とか言うな」
と田所。
しかし明智院は、もはや止まらなかった。
「諸君。私は気づいた。
この事件の核心は、宗一郎氏その人にある」
全員の視線が、盲目の老人へ向く。
「ちょっと待て」
と田所刑事。
「もう行くのか。まだ早いでしょう」
「早くない」
と明智院は言った。
「盲目で車椅子の老人。
そして現場に残された車輪の痕。
これはもはや、あまりにも典型的だ」
「典型?」
と正臣。
「そうだ」
明智院は重々しくうなずいた。
「本格推理の歴史が、今ここで私に囁いている。
“立つ”ぞ、と」
談話室が静まり返る。
「……立つ?」
と由利が聞いた。
「やめろ」
と田所刑事が言った。
「なんか嫌な方向へ行こうとしてる」
「考えてみたまえ」
と明智院。
「盲目の老人が、実は見えている。
車椅子の老人が、実は歩ける。
そしてすべてを、自らの無力を装って見ていた――」
「うわ」
と澪が言った。
「もう言っちゃった」
「やはりそうか」
と明智院は一人で深くうなずいた。
「最後のピースが見つかったね」
「今回は何がピースなんです?」
と田所刑事。
「無力に見えるということ、そのものだ」
「最悪だな」
と田所が言った。
「今、“セオリーだから怪しい”だけで決めつけましたね?」
「違う。私は積み上げている」
「何を」
「定番だ」
「積むな、そんなもん」
宗一郎はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「面白いことを言う」
「つまりあなたは否定しないんですね?」
と明智院。
「見えておらんし、歩けもせんよ」
「そう言うだろう」
と明智院。
「だが、本当にそうか?」
宗一郎の見えない目が、静かに明智院へ向く。
「試してみるかね」
「いややめてください」
と田所刑事が即座に言った。
「この人、今ちょっと本気で立たせようとしてる顔してます」
そのとき、宗一郎がぽつりと言った。
「一つだけ、聞いた」
全員の顔が向く。
「何を」
と田所。
「滝沢先生が死ぬ少し前、廊下を急ぐ音がした。
右のほうが少し重い。
古い底だ。
湿った板をこするような音だった」
談話室の空気が変わる。
明智院が、ますます嬉しそうな顔をする。
「盲目の目撃者、というわけか」
「嬉しそうに言うな」
と田所。
「その音、誰かわかるんですか?」
と由利が聞く。
宗一郎は首を振った。
「そこまではわからん。
ただ、館の中の音だ。
外から忍び込んだ者ではない」
「つまり」
と明智院は静かに立ち上がる。
「犯人は、この中にいる!!
しかも宗一郎氏の周囲で動いている!」
「だからそれは知ってるんですよ」
と田所。
「でも今の人、完全に“やっぱり自分じゃないですよ”って言うための証言にも聞こえましたけどね」
由利が不安そうに宗一郎を見た。
「旦那様、少しお疲れでは」
「少し休みたい」
と宗一郎が言った。
「薬を持ってきてくれ、由利」
「はい」
由利が車椅子を押し、宗一郎を二階の私室へ連れていく。みんなは談話室に残されたままだった。田所は資料室をもう一度見に行き、桐野は館内の鍵を確認し、正臣は苛立ったように煙草を探したが、館内禁煙だと澪に冷たく言われた。
明智院だけが、どこか満ち足りた顔で暖炉の火を見ていた。
「何ですその顔」
と田所が戻ってきて言う。
「見えた」
「何が」
「老人が立つ理由だよ」
「本当にやめてください」
と田所。
「今、ちゃんとした事件が起きてるのに、あなたの頭の中だけ“やっぱりそうか”で回ってるでしょう」
「探偵とはそういうものだ」
「違います」
それから十分ほどして、二階から何かが倒れる音がした。
硬いものがぶつかり、車輪がわずかに軋むような、短い音だった。
宗一郎の声が、廊下の奥で響いた。
「由利!」
全員が二階へ駆け上がった。
宗一郎の私室の前で、車椅子が半分だけ廊下へ飛び出している。扉は閉まっていた。中から返事はない。
「由利さん!」
と澪が叩く。
「開けます」
と桐野がマスターキーを差し込み、扉を開いた。
部屋の中で、小田切由利が倒れていた。
ベッド脇のスタンドライトのコードが首に食い込み、顔色はもう悪く変わりはじめている。部屋の奥、窓辺には宗一郎の予備の車椅子が止められたまま。窓は閉まっていた。逃げ道はない。
そして部屋の中央には、盲目の宗一郎自身が、自分の車椅子でただ一人、静かに座っていた。
いや、座っていた、というのは変かもしれない。車椅子だから、もともと座っているのだ。だが、その姿には、まるで自分の部屋の真ん中で世界だけが急に消えた人のような、奇妙な静止があった。
「……さっきまで、そこにいた」
宗一郎は言った。
「由利は、そこにいた。
わしは少し眠っていて――」
明智院だけが、その光景を見て、ゆっくり息を吸った。
「……なるほど」
「いや、今の“なるほど”は本当に嫌だな」
と田所が言った。
明智院は静かに、しかしはっきりと宣言した。
「最後のピースが見つかったね」
「何がです」
と澪が震える声で聞く。
明智院は、盲いた老人のほうを見た。
「“立ち上がる理由”だよ」
宗一郎は何も言わなかった。
ただ、その見えない目が、海よりも静かにこちらを向いていた。
田所刑事はゆっくりと振り返る。
「……前言撤回だ。
犯人はこの中にいる。
でも、たぶん今いちばん厄介なのは、明智院さんがもう完全に“立つ”前提で話を進めてることだ」
窓の外では波が館の崖を打っている。
島は闇と海に閉ざされ、死体は二つになった。
そして二つ目の死体は、盲目で車椅子の老人の部屋にあった。
後編へつづく。




