第12話 白銀の山荘に二つの死体
その山荘は、雪に閉ざされるために建っているような建物だった。
北向きの斜面にへばりつくように建つ《銀鈴山荘》は、冬になると必ず一度は道路が塞がる。だから常連たちはそれを承知で来るし、承知のうえで、少しだけ期待もしている。暖炉、赤ワイン、毛布、読書、そして外界から切り離される感じ。そういうものに、人は案外弱い。
その日、山荘に集まっていたのは、出版社主催の「冬の本格ミステリ合宿」の面々だった。
ベストセラー作家の沢渡礼二。
辛口で知られる文芸評論家の片桐和馬。
若手作家の今井玲奈。
編集者の宮永梓。
宣材撮影担当のカメラマン・相馬卓也。
山荘の女主人・雪村綾乃。
支配人の藤代誠。
そして、なぜか招待枠で来ていた名探偵・明智院金四郎。
さらに、休暇のつもりで同じ山荘に泊まっていた田所刑事。
午後四時過ぎ、雪は急に本気を出した。
窓の外が真っ白に潰れ、支配人の藤代が、申し訳なさそうに告げた。
「下の橋が雪で埋まりました。今夜じゅうの除雪は無理です。電話線も先ほど切れたようで」
暖炉の前に、なんとも言えない沈黙が落ちた。
「なるほど」
と沢渡礼二が言った。
「完璧な舞台だ」
「やめてくださいよ」
と編集の宮永梓が言った。
「そういうこと言うと、ほんとに何か起きそうで」
起きたのは、その一時間後だった。
夕食の直前になっても片桐和馬が姿を見せず、支配人がワインセラーを見に行き、階下から短い悲鳴を上げた。
全員が駆けつけたとき、片桐はワイン棚の前に倒れていた。胸にはアイスピックが一本、深く突き立っている。床に落ちたワインは血と混ざって黒く見えた。
誰も、しばらく声を出せなかった。
最初に口を開いたのは、やはり明智院だった。
「……なるほど」
「なるほどじゃないんですよ」
と田所刑事が言った。
「今、人が死んでるんです」
田所は膝をつき、片桐の脈を確かめ、それから静かに首を振った。
「死後、そう経ってない。凶器はそのアイスピック。外は雪で完全に閉ざされてる。橋は通れない。電話もだめ。
つまり――」
そこで明智院が、暖炉の火でも背負うみたいな角度で立ち上がった。
「犯人は、この中にいる!!」
沈黙。
「ええ、そうでしょうね」
と若手作家の今井玲奈が言った。
「今まさに田所さんが言いかけてたし」
「閉じ込められた山荘で、最初の一人が死んだ」
明智院は重々しく言った。
「本格は、ついに牙をむいたのだ」
「牙をむいてるのは犯人です」
と田所刑事。
その場にいた全員が談話室に集められた。
支配人の藤代によれば、片桐が最後に目撃されたのは午後五時十分ごろ。夕食前にワインを選ぶと言って一人で地下へ向かったという。以後、誰もセラーには行っていない。少なくとも、そう皆は言った。
沢渡礼二は顔色の悪いまま言った。
「片桐さんは敵が多い人だった。僕だって散々書かれた」
「あなたも今朝、だいぶ言い合ってましたよね」
と今井が言う。
「“あなたの新作には死体の体温がない”とか何とか」
「批評家はすぐ失礼なことを言う」
と沢渡は唇をゆがめた。
宮永梓は毛布を握りしめていた。
「とにかく、誰かがあの人をセラーに呼び出したんじゃないですか。でないと、あのタイミングで――」
「そこだ」
と明智院が言った。
全員がうっすら嫌な顔をした。
「最後のピースが見つかったね」
「何も見つかってないでしょう」
と田所刑事。
「呼び出しだよ」
明智院は言った。
「犯人は地下へ片桐を誘い込んだ。
そして閉ざされた雪の山荘において、最初に血を流した。
つまりこれは単なる殺人ではない。
開幕だ」
「開幕って言うな」
と田所刑事。
その夜は、誰も一人で動かないことになった。
だが、雪の山荘におけるそういう取り決めは、たいてい長持ちしない。
午後八時すぎ、今度は二階の図書室から、椅子が倒れるような大きな音がした。
田所と明智院が真っ先に駆けつけたとき、沢渡礼二は暖炉の前に倒れていた。首にはカーテンを束ねる太い紐が食い込み、すでに冷たくなりはじめていた。近くの机には破れた原稿の束が散らばっている。
「……二人目か」
と田所刑事が言った。
明智院は静かに、しかし明らかに嬉しそうな顔で目を閉じた。
「連続殺人だね」
「嬉しそうに言うな」
と田所刑事。
再び談話室に全員が集められたとき、空気は最初の死体のときよりずっと重かった。雪は窓を叩き続け、外は完全に無音の白だ。もう誰も、「舞台だ」などとは言わなかった。
「沢渡さんは七時半ごろ、図書室へ行った」
と支配人の藤代が言った。
「原稿を読むと言って」
「そのあと会った人は?」
「私は会ってません」
と相馬カメラマン。
「俺は機材の電池を替えてた」
「私は厨房に」
と女主人の綾乃。
「玲奈さんは?」
「自室です」
と今井玲奈。
「梓さんは?」
「……談話室にいました」
と宮永梓が言う。
「一人で」
明智院は腕を組み、うなずいた。
「美しい」
「何が」
と田所刑事。
「一人目は地下。二人目は図書室。
静と知。酒と本。
犯人は場所に意味を与えている」
「ただその辺にいた人を殺しただけかもしれないでしょう」
と今井玲奈が言った。
「それを言ってしまうと本格が育たない」
と明智院。
「育てなくていいんだよ」
と田所刑事。
田所は沢渡のそばに落ちていた原稿を拾った。何枚かは雪の山荘を舞台にした新作の冒頭だったが、一枚だけ、明らかに別の紙が混ざっていた。手書きのメモだ。
例の件、もう黙っていられない
今夜中に話をつける
署名はない。
「脅迫文?」
と相馬。
「あるいは呼び出しのメモ」
と田所刑事。
明智院の目がまた光った。
「なるほど。
一人目も二人目も、“話をつける”ために呼び出された」
「じゃあ同じ犯人ですかね」
と綾乃が言う。
明智院はゆっくり首を振った。
「浅い」
「またそれか」
と田所刑事。
「私はむしろ逆だと考える」
明智院は言った。
「二つの死体。異なる場所。異なる凶器。
これは一人の犯人が連続して行った犯行に見せかけた、二人の犯人による交差殺人だ」
「いきなり育てたな」
と田所刑事。
「一人目の犯人はこの中にいる。
そして二人目の犯人も、この中にいる。
だが同一ではない。
犯人はこの中にいる! ……が、二人いる!」
「増やしたなあ」
と相馬カメラマンが呟いた。
「どうしてそうなるんです?」
と綾乃。
「雪の山荘で同一犯の連続殺人は、あまりに王道すぎる」
と明智院。
「王道を疑うのが王道なのだ」
「意味わからないんですよね、毎回」
と田所刑事。
田所は明智院を無視して、部屋の全員を順に見た。
「片桐は批評で敵を作っていた。沢渡もまた、作家として敵を持っていた。
でも、二人とも最後に同じ人物と強く揉めてる」
視線が、宮永梓へ向いた。
彼女はゆっくり顔を上げた。疲れているというより、追いつめられている顔だった。
「……私ですか」
「片桐とは?」
と田所。
「昼間、口論してました」
「沢渡とは?」
「……さっき、図書室の前で少し」
「何を」
「仕事の話です」
明智院が、そこで満足げにうなずいた。
「ほら見たまえ。最後のピースが見つかったね」
「今回のピースは?」
と田所刑事。
「編集者だ」
「職業を丸ごとピース扱いするな」
と田所刑事。
だが、今度ばかりは田所も完全には否定しなかった。彼は散らばった原稿の一枚を宮永の前に置いた。それは沢渡の新作冒頭ではなく、別人の原稿だった。タイトル欄には今井玲奈の名前がある。
「これは?」
と田所。
今井玲奈が息を呑んだ。
「……私の原稿です。去年、宮永さんに送った」
「なぜ沢渡の図書室に?」
と綾乃。
宮永はしばらく黙っていたが、やがて絞り出すように言った。
「……沢渡さんが、読んだんです」
その一言で、談話室の空気が変わった。
今井玲奈の顔から、すっと血の気が引いた。
「まさか」
「片桐さんは気づいていました」
と宮永は言った。
「沢渡さんの次回作に、玲奈さんの原稿の仕掛けが使われているって。
それで私を脅した。黙っていてほしければ、書評欄で便宜を図れって」
「それで片桐を?」
と田所が低く聞いた。
「違う……最初は話すだけのつもりでした」
宮永は両手を握りしめた。
「でもセラーで、あの人、笑って。
“編集者のくせに、才能を見る目だけはあるじゃないか”って。
それで……近くにあったアイスピックを」
誰も、すぐには何も言えなかった。
「じゃあ沢渡さんは」
と綾乃。
「気づいていました」
宮永は言った。
「私が片桐を殺したって。
でも、通報する気なんかなかった。
むしろ、“これでますます黙ってもらわないと困るな”って。
玲奈さんの原稿も燃やそうとして……」
今井玲奈が、ふっと目を閉じた。
「それで、図書室で」
「ええ」
田所刑事は静かにうなずいた。
「二人目は衝動。
でも一人目も、結局は衝動に近い。
あなたは最初から連続殺人犯になるつもりだったわけじゃない」
「ありません」
宮永はかすれた声で言った。
「そんなつもり、あるわけない……」
沈黙のなかで、明智院だけが少し不満そうだった。
「つまり」
と彼は言った。
「一人目も二人目も、同一犯だったわけか」
「そうですね」
と田所刑事。
「王道だな」
「王道でしたね」
明智院は腕を組み、窓の外の白を見た。しばらく考え込み、それからやや無理のある調子で言った。
「だが、私の推理も完全に外れてはいない」
「どういうことです?」
と相馬。
「片桐を殺した犯人と、沢渡を殺した犯人は同じ人物だ。
しかし、片桐を死へ追いやった構造と、沢渡を死へ追いやった構造は別だ」
「また構造か」
と田所刑事。
「前者は批評。
後者は盗用。
つまりこれは一人の犯人による二つの殺人でありながら、同時に二種類の文学的腐敗が生んだ連続殺人でもある」
「最後だけ急にそれっぽい」
と今井玲奈が、小さく笑うみたいに言った。
田所は宮永の向かいに立った。
「雪がやむまで、ここで見張ります。
明朝、下に下りられるようになったら正式に連行です」
宮永は抵抗しなかった。もう、しようもなかったのだろう。
暖炉の火が小さく鳴った。外では相変わらず雪が降っている。白く、静かで、容赦がなかった。
明智院は最後に、ゆっくりと一同を見渡した。
「犯人は、この中にいた」
「今回はまあ、完全にそうでしたね」
と田所刑事。
「しかも本当に殺人犯だった」
と相馬。
「たまには当たるんですね」
と綾乃。
明智院は少しだけ咳払いした。
「私はいつだって、真実の輪郭には触れている」
「今回はだいぶ遠かったですけど」
と田所。
「だが、閉ざされた雪の山荘で最初に言うべき言葉は、やはりあれしかない」
田所刑事は、少しだけ笑った。
「それは否定しません」
その夜、明智院金四郎の事件ノートにはこう記された。
>『白銀の山荘に二つの死体』
>犯人はこの中にいた。
>それは雪に閉ざされた地理の話であると同時に、
>才能と虚栄と沈黙が逃げ場を失った、関係性の話でもあった。
>雪の山荘は、外を閉ざす。
>だが本当に恐ろしいのは、
>人が自分の狭さから出られなくなることなのかもしれない。
それを横から読んだ田所刑事は、静かに言った。
「今回は珍しく、ちょっとだけ名探偵っぽかったな……でも交差殺人は余計だったな」




