第11話 ひとつかふたつの真実
事件が起きたのは、午後二時五十分。
市民文化センターの調理実習室で開催されていた《第十二回 浜霧まちの手づくりクッキー大会》の審査直前、優勝候補と目されていた《月見バタークッキー缶》の封が破られ、中のクッキーが一枚なくなっているのが発見されたのである。
もっとも、大会中止だの営業停止だのという深刻な話ではなかった。
なくなったのは、あくまでクッキー一枚である。
だが、実行委員長の小野寺は、世界大会の不正発覚みたいな顔をしていた。
「大変です! 審査用の現品が一枚減ってます!」
「一枚ですか」
と田所刑事が聞いた。
「一枚でも一枚です!」
と小野寺。
「公平性にかかわります!」
「まあ、それはそうですね」
と田所刑事。
調理実習室の中央には、審査用の作品が番号順に並べられている。
そのうち、金色の小さな缶にきれいに並んでいたはずの《月見バタークッキー》だけが、封のシールをはがされ、明らかに一列ぶん欠けていた。
その場にいたのは五人。
実行委員長の小野寺。
洋菓子教室講師の牧田。
商店街カフェ店主の三科。
昨年優勝者の有馬。
そして、中学生ボランティアの遼。
全員がそれぞれ気まずそうな顔をしていたが、遼だけは「え、そんなに大事?」という顔も少し混ざっていた。
「状況を整理します」
と田所刑事が手帳を開く。
「午後二時半までは封がされていた。
二時四十分ごろ、皆さんは審査台のセッティングで別々に動いていた。
その十分後、缶の封が開いていて、一枚足りないのが発見された。
この部屋にいたのは、ここにいる五人だけ。合ってますね?」
「はい」
と小野寺がうなずく。
「外部の人は入ってません」
「なるほど」
と田所刑事。
「では、かなり絞れますね」
そのとき、調理実習室のドアが静かに開いた。
名探偵・明智院金四郎である。
黒い外套。
鋭い眼差し。
重々しい沈黙。
そして、クッキー缶の封が破られているのを見た瞬間に“これは育つ”と思った顔。
「……なるほど」
「来ましたね」
と田所刑事が言った。
「そしてもう完全に言いたそうですね」
明智院は缶を見つめ、失われた一枚の空白を見つめ、それから一同をゆっくり見渡した。
「諸君」
彼は低く言った。
「安心したまえ」
「何を」
とカフェ店主の三科が聞いた。
「最後のピースが見つかったね」
「まだクッキーが一枚なくなっただけですよ」
と田所刑事。
しかし明智院は、もう止まらない。
彼は審査台の前に進み出て、一同をびしりと指さした。
「犯人は、この中にいる!!」
沈黙。
「まあ今回はそうでしょうね」
と昨年優勝者の有馬が言った。
「部屋にいたの、ほんとに私たちだけだし」
「違う」
と明智院。
「今回は“そうでしょうね”で済ませていい事件ではない」
「クッキー一枚ですけど」
と三科。
「クッキー一枚だからこそだ」
明智院の目が光る。
「奪われた量は小さい。
だが、その行為が象徴するものは大きい。
秩序、信頼、公平、そして――」
「食欲でしょうね」
と中学生ボランティアの遼が言った。
全員が少し黙った。
「食欲」
と田所刑事。
「いや、普通に」
と遼。
「クッキー一枚なくなる理由って、だいたいそうじゃないですか」
「浅い」
と明智院。
「今回はその浅さが正解寄りなんだよなあ」
と田所刑事。
実行委員長の小野寺が言う。
「一応申し上げますが、この《月見バタークッキー》は今回の本命です。
去年の優勝者、有馬さんが“今回いちばん危ないのはこれかもしれない”とおっしゃっていたほどで」
「言いました」
と有馬。
「悔しいけど、焼き色が上手かったので」
明智院の目が細くなる。
「なるほど……」
「嫌な感じに“なるほど”が来たな」
と三科。
明智院は静かに有馬へ向き直った。
「有馬さん。あなたですね」
「早いな」
と有馬。
「昨年の優勝者。
失いたくない栄光。
迫り来る新星。
そして、“危ない”という事前発言。
十分すぎる」
「いや、だからって食べませんよ」
と有馬。
「ライバル作品を一枚減らすって、だいぶ情けないでしょう」
「たしかに」
と牧田講師。
「そんな小物っぽいこと、去年優勝した人はしない気がする」
「ありがとうございます」
「褒めてはいません」
と牧田。
明智院はすぐに標的を変えた。
「では三科さん」
「来ると思った」
とカフェ店主の三科が言った。
「商店街カフェ店主。
新作菓子の開発。
常に競争。
他者の味に興味を持つ職業――」
「だからって審査前のクッキー盗み食いはしません」
と三科。
「私はちゃんと買って研究します」
「言い方がプロだな」
と田所刑事。
「それに僕、さっきずっとコーヒー淹れてましたよ。審査員用の」
「証明は?」
「全員飲んでます」
「たしかに」
と全員が紙コップを見た。
明智院は少しだけ黙った。
だが、今日はまだ始まったばかりである。
「では牧田さん」
「はいはい」
と講師の牧田が言った。
「洋菓子教室講師。
技術への誇り。
そして他者の雑な仕事を許せない厳しさ。
つまりあなたは、“このクッキーが本当に評価に値するか”を自らの舌で確かめたかった」
「確かめるにしても審査前に勝手に食べません」
と牧田。
「私はそういうルール違反が大嫌いです」
「すごく本当っぽい」
と小野寺。
ここで、中学生ボランティアの遼が小さく手を挙げた。
「あのさ」
「何です」
と田所刑事。
「さっきから大人たち、みんな“私はそんなことしない”って言ってるけど」
「うん」
「じゃあ普通に、委員長じゃないですか?」
沈黙。
小野寺が目を見開く。
「私!?」
「だって一番近くにいたし」
と遼。
「封したのも委員長でしょ?」
「そうですが」
「なら一番開けやすかったんじゃないですか」
「……そう言われると」
と三科が言う。
「しかも、さっきからやたら“大変です!”ってテンション高いし」
と有馬。
「自分で騒ぎを大きくしてる人、たまにいるわよね」
と牧田。
明智院の目がまた光る。
「なるほど」
「お」
と田所刑事。
「今度はちゃんと寄ってきたか?」
明智院はゆっくりと立ち上がった。
外套の裾を払い、無駄に西日を背負う。
その横顔には、今まさに大推理を世界へ叩きつけようとする男の、無駄に整った覚悟があった。
「この謎、必ず解いてみせる。
ジッチャンの……えー、ジッチャンの……」
そこで止まる。
沈黙。
「……ジッチャンの?」
と遼が聞いた。
明智院はほんの少しだけ気まずそうに咳払いした。
「まあいいや。
犯人はこの中にいる!」
「雑に戻したな」
と田所刑事が言った。
「今かなり危なかったですね」
と三科。
「危なくない」
と明智院。
「“ジッチャンの”を二回言ってましたよ」
「気の迷いだ」
「ずいぶん具体的な迷いだな」
と有馬。
明智院は何事もなかったように姿勢を正した。
「小野寺委員長。
あなたは大会の公平性を守る立場にある。
だがその立場にある者こそ、ときに自ら秩序を壊し、それを正す側へ回ることで、より強く秩序を支配しようとする」
「長いし怖い」
と小野寺。
「つまり、“一枚食べた犯人”としてではなく、“事件を起こした犯人”としてあなたが怪しい」
「いや、そもそも一枚食べてないです!」
「でも封を触った?」
「……それは」
全員が見る。
「触ったんだ」
と田所刑事。
小野寺が気まずそうに言った。
「実は、エントリーカードを入れ忘れていて……。
缶の中に、材料表と名前を伏せた番号カードを一緒に入れる決まりだったのに、それだけ別の机に残っていて……」
「なるほど」
と田所刑事。
「じゃあ封を開けたのは委員長だ」
「はい……」
「ほら見たまえ!」
と明智院。
「事件の半分は、すでに明らかになった!」
「半分?」
と遼。
「そうだ」
明智院は静かに人差し指を立てた。
「真実はいつも、ひとつ……」
ここで彼は、なぜか少しだけ不安そうな顔になった。
そして、缶の中をもう一度見た。
封を開けた者がいる。
だが、クッキーが一枚ない。
つまり、物理的には二つの行為がある。
「……かふたつ?」
と明智院が言った。
沈黙。
「急に弱気になったな」
と田所刑事。
「なんですか、それ」
と三科。
明智院は深くうなずいた。
「そうか。
真実はひとつではない。
この事件には、二つの真実がある」
「二つ」
と有馬。
「一つ目。缶を開けた者。
二つ目。クッキーを食べた者だ」
全員が、少しだけ感心した。
「まあ、それはそうか」
と牧田。
「封を開けたのは委員長。
でも食べた人は別かもしれない」
「別かもしれないし、同じかもしれないですね」
と田所刑事。
ここで、遼がものすごく普通の声で言った。
「あ、それ俺です」
沈黙。
「……はい?」
と小野寺。
「いや、だって缶もう開いてたし」
と遼。
「試食かなって」
「試食かなって」
と田所刑事。
「しかも一枚だけ減ってたのは、俺が一枚だけ食べたからです」
「ものすごく素直だな」
と三科。
「おいしかったです」
と遼。
「それはよかったけど今じゃない」
と有馬。
小野寺が頭を抱える。
「つまり……私がカードを入れるために封を開けたあと、遼くんがそれを試食だと思って一枚食べた、と」
「はい」
と遼。
「てへ、みたいな感じ?」
と牧田。
「いや、そこまでは」
と遼。
田所刑事は手帳を閉じた。
「なるほど。
つまり、事件は二段階だったわけですね。
委員長がルール上必要な作業で缶を開けた。
そのあと、遼くんが開いてたから試食用だと勘違いして一枚食べた。
悪意なし。
管理ミスと勘違い。
以上」
全員が、だいたい納得した。
「じゃあ大会は?」
と小野寺。
「その缶だけ再提出を待つか、失格か、運営判断でしょうね」
と田所刑事。
「ただ、盗難ではないです」
「よかった……のか?」
と小野寺。
明智院だけが、まだ審査台の前に立っていた。
彼は缶の中の空白を見つめていた。
そこには一枚の欠けた跡がある。
だがその跡は、一人の悪意ではなく、二人の小さな行為の連なりによって生まれていた。
「最後のピースが見つかったね」
彼は静かに言った。
「今回は何がピースなんです?」
と田所刑事。
「“開いていた”という状態だ」
明智院は言った。
「閉じている缶には、一つの真実しか入らない。
だが開かれた缶には、別の真実が入り込む余地が生まれる」
「急に缶で哲学するな」
と三科。
「でも今回は、たしかに“ひとつじゃなかった”わね」
と有馬。
「委員長が開けたのも本当。
遼くんが食べたのも本当」
「つまり」
と牧田。
「真実はいつも、ひとつ……かふたつ?」
「それだ」
と明智院が静かにうなずく。
田所刑事は少しだけ笑った。
「いやまあ、今回は本当に二つでしたね」
小野寺は遼に向き直る。
「遼くん、今後は勝手に食べないでね」
「はい」
「でも開いてる缶を審査台に戻さないでください」
と遼。
「それもそうだな」
と三科。
有馬が缶をのぞきこみ、ぽつりと言った。
「でも、正直ちょっと安心した」
「何が?」
と牧田。
「誰かの悪意でなくてよかった。
ただ、委員長がうっかりして、遼くんがお腹すいてただけだった」
「ものすごく平和な真相ですね」
と田所刑事。
明智院は外套の襟を直し、少しだけ満足げに窓の外を見た。
「犯人は、この中にいた」
「一応そうですね」
と田所刑事。
「しかも二人」
「だが、真に裁かれるべきは――」
「やめてください」
と田所刑事がすぐ止めた。
「そこから先は危ない」
「まだ何も言っていない」
「だいたいわかります」
その夜、明智院金四郎の事件ノートにはこう記された。
>『ひとつかふたつの真実』
>犯人はこの中にいた。
>ただしそれは一人ではなく、
>“開けた者”と“食べた者”という、二つの小さな真実に分かれていた。
>人は真実を一つにまとめたがる。
>だが現実はときに、
>管理ミスと勘違いくらいの気軽さで、平然と二つになる。
それを横から読んだ田所刑事は、静かに言った。
「今回はほんとに“かふたつ”だったんだよな……」




