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第10話 割られた招き猫

 事件が起きたのは、午後三時五分。


 商店街の外れにある老舗和菓子店《福々堂》の店先で、代々店の守り神のように置かれていた巨大な招き猫が、首からぽっきり折れた状態で発見されたのである。


 もっとも、死んではいなかった。

 招き猫だから当然である。

 ただ、店主の福原大吉は、まるで身内を失ったみたいな顔で立ち尽くしていた。


「なんてことだ……! うちの福助さんが……!」


「福助さんっていうんですか」

 と田所刑事が聞いた。


「初代からいるんです!」

 と福原大吉が叫ぶ。

「正確には初代“型”を元に四代目くらいなんですが、気持ちとしては初代なんです!」


「気持ちの継承が強いな」

 と田所刑事が言った。


 店先には、首の取れた招き猫の胴体と、少し離れたところに転がった頭部。

 そして、その場にいた四人が集められていた。


 店主の妻、福原千鶴。

 住み込みの若い職人、瀬川。

 商店街の会長、熊谷。

 そして、和菓子好きの常連客、小春。


 全員がそれぞれ気まずそうな顔をしていたが、その理由は少しずつ違った。


「状況をお願いします」

 と田所刑事が手帳を開く。


 店主の大吉が答える。


「三時前までは、たしかにいつもの場所にあったんです。

 でも、店の奥で新作まんじゅうの試食をしていた間に、外から“ガシャーン!”って音がして……飛び出したらこの状態で」


「店先にいた人は?」

「ここにいる人たちだけです」

「なるほど」


 田所刑事はうなずいた。


「まあ、かなり絞れますね」


 そのとき、暖簾の向こうから黒い影がぬるりと現れた。


 名探偵・明智院金四郎である。


 黒い外套。

 鋭い眼差し。

 重々しい沈黙。

 そして、割れた招き猫を見た瞬間に“来たな”と思った顔。


「……なるほど」


「来ましたね」

 と田所刑事が言った。


 明智院は店先に転がる招き猫の頭部を見つめ、それから一同をゆっくりと見渡した。


「諸君」

 彼は低く言った。

「安心したまえ」


「何を」

 と常連客の小春が聞いた。


「最後のピースが見つかったね」


「まだ割れたばっかりですよ」

 と田所刑事。


 しかし明智院は、もう止まらない。

 彼は店先の中央へ進み出て、一同をびしりと指さした。


「犯人は、この中にいる!!」


 沈黙。


「いやまあ、そうでしょうね」

 と商店街会長の熊谷が言った。

「外から通りすがりに蹴飛ばしたって感じでもないし」


「違う」

 と明智院。

「今回は“そうでしょうね”で済ませていい事件ではない」


「招き猫ですよ?」

 と妻の千鶴。


「招き猫だからこそだ」

 明智院の目が光る。

「店の顔。福の象徴。伝統の化身。

 それが首から折れる――これはもはや、単なる破損ではない」


「言い方が完全に呪いなんだよな」

 と田所刑事。


 若い職人の瀬川が、おずおずと口を開く。


「あの、一応言っときますけど、僕やってません」

「そう言う者ほど怪しい」

 と明智院。

「やってないと言う者の目には、たいてい何かが宿っている」

「偏見がすごい」


 店主の大吉が招き猫の頭を抱え上げながら言う。


「福助さんは、うちの店の象徴なんです……。

 この猫が来てから、きんつばが当たったんだ……」

「四代目なんですよね?」

 と田所刑事。

「そこはいいんだ! 気持ちの問題だ!」


 明智院は静かにしゃがみこみ、折れた首の断面を見た。

 白い陶器の割れ目は比較的新しく、地面には細かな破片が散らばっている。


「ふむ」

 と明智院。


「どうです?」

 と田所刑事。

「誰かが故意に?」

「それはまだわからない」

「じゃあ何がわかったんです?」

「劇的だということだ」


「感想なんだよな」

 と田所刑事。


 商店街会長の熊谷が腕を組む。


「正直、店の前のスペース狭いからなあ。

 誰かがうっかり当たっただけじゃないのか」

「うっかりで済ませてたまるか!」

 と大吉が叫ぶ。

「福助さんだぞ!」

「福助さんへの思い入れが強いなあ」

 と小春。


 明智院はふいに立ち上がった。

 そして、無駄にまっすぐ前を向き、大きく息を吸い込んだ。


「この謎、必ず解いてみせる。

 ジッチャンの……えー、ジッチャンの……」


 そこで止まる。


 沈黙。


「……ジッチャンの?」

 と小春が聞く。


 明智院はほんの少しだけ気まずそうに咳払いをした。


「まあいいや。

 犯人はこの中にいる!」


「雑に戻したな」

 と田所刑事が言った。


「今かなり危なかったですね」

 と瀬川。

「危なくない」

 と明智院。

「“ジッチャンの”を二回言ってましたよ」

「気の迷いだ」

「ずいぶん具体的な迷いだな」

 と熊谷。


 明智院は何事もなかったように招き猫の周囲を歩き始めた。

 店先には、店から外へ出る短い段差があり、その脇に小さなのぼり旗、さらに横には配送用の台車が立てかけられている。


「見たまえ、この台車」

 と明智院。


「配送用ですね」

 と千鶴。


「台車というものは、常に凶器になりうる」

「日常生活を怖くするな」

 と田所刑事。


「誰が最後にこれを使った?」

「僕です」

 と瀬川が言った。

「さっき餡の袋を運びました」


 明智院の目が光る。


「なるほど。

 若い職人。

 新しい感性。

 古い象徴との衝突。

 ありがちだ」


「ありがちで犯人認定しないでください」

 と瀬川。


「あなたは、古い店のやり方に不満を持っていたのでは?」

「ちょっとはありますよ」

「ほら見たまえ!」

「でも、だからって招き猫の首は折らないです」

「そこはそうだろうな」

 と田所刑事。


 千鶴がため息をつく。


「この子、この前も“看板が少し古くさい”って言っただけで、うちの人に三十分説教されてたし」

「説教した」

 と大吉。

「店の顔だからな」

「店の顔に執着しすぎなんだよ」

 と熊谷。


 明智院は今度は妻の千鶴を見た。


「あなたは?」

「私?」

「店主の価値観に、長年うんざりしていた」

「してるわよ」

 と千鶴が即答した。


 全員が黙る。


「でもそれは毎日のことだし」

 と千鶴。

「今さら招き猫には当たらないわよ」


「いや、そこが盲点だ」

 と明智院。


「もう盲点って言いたいだけだろ」

 と田所刑事。


「人は長年の鬱積の果てに、直接相手を責めるのではなく、その象徴を壊すことがある」

「心理学っぽく言うな」

 と熊谷。


「まあでも、象徴ではあるわね」

 と小春が言う。

「この猫、すごい目立つし」


「ほら見たまえ!」

 と明智院。


「一個それっぽい発言が出るたびに元気になるな」

 と田所刑事。


 そのとき、田所刑事はふと、招き猫のすぐそばに落ちている丸い和菓子を見つけた。


「何ですかこれ」

「あっ」

 と小春が言った。

「それ、試食でもらった栗まんじゅう」


「なんでここに?」

「さっき、外で食べようと思って……」

「なるほど」

 と田所刑事。

「で、何かに驚いて落とした?」


 小春は少し気まずそうに目を逸らした。


「……猫が急に動いた気がして」

「動いた?」

 と全員。


「いや、たぶん気のせいなんだけど。

 風でのぼりがばさって揺れて、その影がかかったから」

「猫は動いてないだろ」

 と熊谷。


「待ちたまえ」

 と明智院が言った。

「動いた気がした、だと?」


 明智院は、のぼり旗を見上げた。

 今日は風が少し強く、たしかに大きなのぼりはばたついている。


「……見えてきたよ」


「何が」

 と田所刑事。


 明智院は静かに目を閉じる。


「最後のピースが見つかったね」


「今回は何がピースなんです?」

 と田所刑事。


「風だ」


「風」

「そうだ。

 風は見えない。

 だが確実に存在し、時に物を揺らし、人の認識を狂わせる」


「またちょっとかっこつけ始めた」

 と千鶴。


 明智院は、のぼり旗、招き猫、そして立てかけられた台車の位置を順に見た。


「諸君。

 この事件の真相はこうだ。

 瀬川君が使った台車が、わずかに招き猫の台座へ触れていた。

 そこへ風でのぼりが揺れ、人の注意が一瞬そちらへ向いた。

 その隙に、台車がじわじわとずれ――」

「じわじわ?」

 と田所刑事。


「いや、たぶん誰かが軽く当たった」

 と熊谷が言った。

「そのほうが早いだろ」


 明智院は少し止まった。

 しかし軌道修正は早い。


「……そうとも言う。

 とにかく、その連続した小さな力の果てに、福助さんの首は折れたのだ」


「じゃあ犯人誰なんです?」

 と小春。


 明智院は静かに一同を見渡した。

 そして、胸を張る。


「犯人は、この中にいる!」


「だから誰」

 と全員。


 明智院はゆっくりと指を差した。


「商店街会長、熊谷さん。あなたですね」


「なんで俺なんだ」

 と熊谷。


「あなたはさっき“店の前のスペースが狭い”と言った。

 つまり普段からこの招き猫を邪魔だと思っていた」


「思ってたけど」

 と熊谷。

「でもそれは配送の邪魔って意味で」

「十分な動機だ」

「雑だなあ!」


 熊谷はあきれたように頭をかいた。


「たしかにさっき、店の前通るときに少し肩は当たったかもしれん。

 でも、俺が当たったのはのぼりだぞ」

「のぼり?」

 と田所刑事。


「うん。

 この店、のぼりがやたら張り出してるから。

 それでのぼりが揺れて、その下の台車も少し動いて……猫にコツン、だ」

「……それ、ほぼ真相ですね」

 と田所刑事。


 瀬川が小さく手を挙げる。


「しかも台車、ちゃんと片づけてなかったの僕なんで」

「じゃあお前も悪い」

 と大吉。


 小春も言う。


「私、栗まんじゅう落としたときに、台車の取っ手ちょっと押したかも」

「お前もか」

 と千鶴。


 しばらくの沈黙のあと、田所刑事がまとめる。


「つまり、台車を片づけなかった瀬川さん、

 のぼりに当たった熊谷さん、

 そして少し取っ手を押した小春さん、

 このへんの複合事故で、招き猫が倒れた可能性が高いですね」


「事故か……」

 と大吉がうなだれる。


 明智院はすっと顔を上げた。


「いや」


「まだ何か」

 と田所刑事。


「事故ではない。

 これは“共同犯”だ」


「急に物騒に言い換えるな」

 と千鶴。


「三人の無意識。

 置きっぱなしの台車。

 張り出しすぎたのぼり。

 店先での気の緩み。

 それらが一つになったとき、福助さんは倒れた」


「言いたいことはわかるけど、犯人っていう感じではないな」

 と熊谷。


 大吉は割れた招き猫の頭を抱えたまま、少し考えてから言った。


「……でもまあ、俺も悪かったな」

「え?」

 と全員。


「福助さん、前からちょっとぐらついてたんだ」

「先に言え」

 と田所刑事。


「いや、なんとか持ってたから……」

「持ってたじゃないんだよな」

 と千鶴。


 明智院の目がまた光る。


「そうか。

 最後の最後に、最後のピースが見つかったね」


「今度は何です?」

 と田所刑事。


「“前からぐらついていた”だ」


「それ最初に言ってほしい情報だったな」

 と熊谷。


 明智院は静かに大吉を見た。


「福原大吉。

 あなたは福助さんを愛していた。

 だが愛していたがゆえに、ひびやぐらつきを見て見ぬふりをした。

 壊れそうなものを、壊れそうなまま置き続けた」


 大吉は少しだけ目を伏せた。


「……そうかもな」


「つまり」

 と明智院は胸を張る。

「真の犯人は、この中にいる!」


「またか」

 と田所刑事。


 明智院は、びしっと大吉を指さした。


「あなたです」


「俺かよ」

 と大吉。


「あなたは福助さんを壊したのではない。

 だが壊れる可能性を放置した。

 その意味で、この事件の中心にいた」


 大吉はしばらく黙っていたが、やがて苦笑いした。


「……それは、まあ、否定できんな」


「店主が認めちゃった」

 と小春。


 千鶴が肩をすくめる。


「だから言ったのよ。

 “そろそろ新しい台座に直しなさい”って」

「言われていた」

 と大吉。


「じゃあ完全に家の中の話じゃないですか」

 と田所刑事。


「犯人はこの中にいたな」

 と熊谷。

「結果的には」

 と瀬川。


 明智院は、割れた招き猫を見つめながら静かに言った。


「この事件で盗まれたものがある」


「なんですか?」

 と小春が聞く。


 明智院は、満を持して宣言した。


「店主の危機管理能力です!!」


 沈黙。


「心じゃないんだ」

 と小春。


「今回はそっちか」

 と熊谷。


「かなり前からなかった気もするけど」

 と千鶴。


 大吉は招き猫の頭を抱えたまま、しぶしぶうなずいた。


「……反省する」


「あと、福助さんは修理でいいでしょう」

 と田所刑事。

「四代目なんですよね?」

「気持ちとしては初代だ」

「そこはもういいです」


 瀬川が小さく言う。


「じゃあ、台車もちゃんと片づけます」

「のぼりも少し引っ込めよう」

 と熊谷。

「栗まんじゅう落とした分、買って帰ります」

 と小春。


 千鶴はため息をつきつつ、少しだけ笑った。


「結局みんな少しずつ悪かったのね」

「そうだな」

 と大吉。

「でも一番悪いのは、ぐらついてるの知ってた俺か……」


 明智院は満足そうに外套の襟を直した。

 誰も死んでおらず、誰も殺しておらず、ただ招き猫が割れただけなのに、彼の中ではもう一つの本格事件が華麗に解決していた。


 その夜、明智院金四郎の事件ノートにはこう記された。


>『割られた招き猫』

>犯人はこの中にいた。

>ただしそれは、明確な悪意を持つ誰かではなく、

>小さな不注意と、見て見ぬふりの積み重ねそのものだった。

>壊れるものは、たいてい突然壊れるのではない。

>壊れそうなまま置かれていた時間の上に、静かに倒れる。


 それを横から読んだ田所刑事は、静かに言った。


「今回はもう、だいぶ“犯人”の意味が溶けてるんだよな……」

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