第一章 弔い写真 第三話
「一ヶ月前に、愛犬が天国へ行ってしまって……」
若葉のような柔らかな色をした瞳に悲しみを浮かべながら話す女性は、宇都美翠恋と名乗った。
この月光茶店、というよりも、自分の知っている噂話と交換で今の自分に必要な怪異の名前を教えてくれるという異界喫茶の噂を聞いて、この暑い最中にわざわざ市外からやって来たという。
啓嗣は大学時代の、地元を離れて一人暮らしをしていた経験からここは比較的住みやすい場所だと思っている。夏は暑いし冬は寒いが、ニュースで見るような暑すぎる寒すぎるといったことはない。地震の心配こそあるものの台風などでの被害も少なかったように記憶している。
だからだろうか。大学卒業後は、あのアスファルトの照り返しで蜃気楼のようになっている都会の街を離れて地元へ戻ることを決めた。翠恋は、その都会の街から電車に一時間ほど揺られてここに来たらしい。
最初の店を三年で閉め、新たにこの場所に店を構えてから早四年。随分と遠くまで噂が広がっていったものだなと感慨深い気持ちになりながら啓嗣は翠恋の話に耳を傾けた。
「仕方がないことなのは理解してるんです。もうそれなりの歳でしたから……でも、小学生の頃から十年以上もずっと一緒だったんです」
翠恋は一人っ子だった。母方の従姉妹が近所にいたが親同士の仲が悪く、いつからか遊ぶことも会うこともなくなった。父の方は分からない。家族との折り合いが悪く家を飛び出して来たらしく、翠恋が生まれてからも実家に帰ったり親戚付き合いをしたりすることがなかったからだ。
けれどそんなことを気にする子どもではなかった。そもそもが大人数で外で遊ぶよりも絵を描くことの方が好きだったので、学校から帰って来たら友達と外へ遊びに行くということもなく一人で家にいることが多かった。
両親は忙しい人だった。二人が揃って家にいることなんて週に一日でもあればいい方。夜、寝る前の数時間に顔を合わせて少し会話をするのが日常だった。
仕事が休みの日、父は基本寝ているかテレビを見ていて、母も寝ているか友人と遊びに行っていた。母の方が家にいる時間は短かったかもしれない。
そんなわけなので、翠恋には両親との思い出というものがあまりない。本当に小さい頃、動物園などに連れて行ったと聞かされたこともあるが、生憎そんな幼い頃のことはよく覚えていなかった。覚えていることと言えば、どこかの動植物園で散歩をしていたらしいペンギンに嚙まれたことくらいだ。大泣きして両親に笑われたことはよく覚えている。
いつも一人だった。でも仕方がないことも分かっていた。忙しい人たちだから。だから本当は少し寂しかったのも我慢して、元々好きだった絵に集中した。
そんなある日、両親が一匹の犬を連れて帰ってきた。まだ小さな、真っ白な毛並みの美しいチワワだった。
翠恋は、特別犬が好きだったわけではない。犬が欲しいと両親に話したこともない。けれど彼らは翠恋のためにこの子を迎えたと語った。きっと、いつも一人で机に向かっている翠恋のことを心配してのことだろう。
犬のお世話をしたことなんてなかった。ご飯をあげて、散歩に行く。その程度の知識しかない。
両親は、忙しい人だ。自分がちゃんとやらないといけない。そう思って、我が家に迎えられてしまった小さな命を生かすことにプレッシャーを感じていた。
だからこの時の心境としては、両親の気持ちが嬉しいとか犬との生活が楽しみとかそういったものではなくて、大変だ、というただそれだけだった。
名前はスミレと名付けた。そうして実際、スミレとの生活は大変だった。相手は言葉の通じない、まだ遊びたい盛りの元気な子犬。しばらくはこちらの言うことなんかお構いなしにやりたい放題で、何度も一緒に両親から叱られた。「ちゃんと世話をしなさい」と怒られた時には、そもそも連れて帰って来たのは私じゃない、と不満にも思った。
けれど何にしたってスミレに罪はない。本人の気持ちなんて関係なく我が家に連れられてきて、そこで一生懸命に生きているだけだ。うちに来たことで可哀想な子にしてしまってはいけない。他所で飼われていればもっと幸せだっただろうなんて、そんなことになってはいけない。
だから必死に面倒を見た。散歩に行ってご飯をあげて、たまにお風呂に入れる。悪戯をした時には叱るときもあったけれど、そうじゃなければ思いっきり可愛がった。
ペットを飼う人たちからすれば普通の、当たり前のこと。けれどもその当たり前が、何もかも初めての翠恋には本当に大変なことだった。




