第二章 記憶の本 第十四話
今日もまた、そういう新しい日常の一コマだろうと。そう思っていたけれど、それにしては愛瑛佳の様子がいつもとは違っているような、なんだか少し緊張でもしているような気がした。
それはまるで、“必要なお客さん”のように。
「ねぇ。啓嗣君は、要らない記憶を忘れさせてくれる怪異とかって知ってるの?」
だから啓嗣は黙って、愛瑛佳が話し出すのを待っていた。
ズルをしようと思う人は、最後のあと一歩を踏み出すための勇気を振り絞るための時間が必要だ。勇気を出したなら、あとは自然と話してくれる。それは愛瑛佳も同じだった。
「残念だけど、忘れさせるタイプは知らないな。忘れないようにする怪異ならいるんだけど」
この理由はたぶん、人は忘れていく生き物だからだ。
時間の経過と共に人の記憶というのは薄れていく。忘れたくないものも、どうでもいいものも同じように、自然に。忘れたくない、忘れてはいけないと思っても記憶の風化には抗えないからこそ、ズルをしてでも覚えていたいと願って怪異が生まれてくる。
啓嗣が知っている中では“私の日記帳”という怪異がまさしくそれだ。絶対に忘れたくない記憶を日記に書いて、ずっと覚えていられるように。
逆に、忘れるための怪異は聞いたことがない。ズルをするまでもなく、自然と忘れていくからだろうけれど。
「そっか。細がね、ズルをしたくなったら啓嗣君のところで怪異について教えてもらえって言ってたんだよね」
「なるほど。だから東條くんじゃなくて俺なんだ」
東條達望。愛瑛佳が生徒会副会長だった時に会長をやっており、仲がいいのか悪いのかよく分からない二人だった。
といっても達望のほうは何を言われても穏やかに笑っているだけで、愛瑛佳のほうが「あんたのそういうところが嫌い」だの何だのと食って掛かっていた覚えがある。
啓嗣は連絡を取り合うほど親しかったわけではないが、愛瑛佳の話にちょくちょく出てくるので相変わらずな様子だけは知っている。話の大半は達望の教会に来る信者たちへの文句で、これもまた高校時代から変わらない。
――みんな自分のことばっかりで、救ってほしい救ってほしいって……誰も達望のことなんか見てもいないのよ。
達望だって人間だ。感情があるし、体調が優れない時もある。けれど達望と話している人は誰一人そんなことに気付かず、達望自身も笑顔で話を聞くばかり。それが気に入らないのだと、愛瑛佳は今も昔も怒っていた。
「怪異関係じゃなくたって達望には言わないわよ。あいつは私と一緒になって悲しんで泣いて、救ってくれようとするだろうからダメなの」
相手に寄り添って共に悲しむことも、泣くことも、悪いことではないのだろう。けれど達望は寄り添いすぎるきらいがあって、自分も他人も同じになってしまう。だから愛瑛佳は、細に言われたということもあったけれど、この話をする相手に啓嗣を選んだ。
ただ残念ながら、愛瑛佳の想いに添う怪異を今回は紹介できそうにない。けれど一つだけ、絶対に上手くいく保証はないけれど提案できる方法ならある。
「ピエロの話をしてる時、発生源が最初の行方不明者だとしたら他を探っても分からないって言ってたけど、そんなことはないんだよ」
「え、そうなの?」
「うん。新しい怪異は一人が言っているだけじゃなくて、たくさんの人に繰り返し語られ続けることで生まれてくるんだ。だからピエロも最初の一人以外に、噂を広めた人たちが必ずいる。そして芥生さんも、同じようにすれば“忘れさせてくれる”怪異を生み出すことができる」
これは愛瑛佳に言っているようで、同時に自分に対して提案する言葉でもあった。
新しい怪異を生み出すことは、実は誰にでもできる。ピエロと同じようにベースとなる有名な噂話がないことが難易度を跳ね上げているが、それでも、一から自分の想いに添ってもらうための怪異を生み出すことは、決して不可能ではないはずだ。
「つまり、私が噂の発生源になればいい、ってことね」
「そういうこと。だけど俺もやったことはないから、絶対にできるとは言えないけど……」
「ううん、ありがとう。参考になったわ。お会計頼める?」
それは啓嗣も同じだった。自分で一から怪異を生み出す。少し考えればそれが可能であることには思い至りそうなものなのに、今日までそれを考えたことはなかった。
愛瑛佳が訪れる前、考えていたことを思い出す。
怪異は、永遠だ。けれどこの場所は、異界喫茶は永遠ではない。啓嗣が店を閉めれば、いなくなれば、人がズルをする場所がなくなってしまう。
人は、弱い生き物だ。ズルをしなければ、生きることさえ難しい。
渉夢は、強い人だ。ズルをしなくても、生きていけるのかもしれない。家族や友人たちを亡くしても、今日まで走り続けているのだから。
けれどいつかはズルをしたくなるかもしれない。その日が来た時、啓嗣がいて、まだこの異界喫茶をやっているかは分からない。渉夢がズルをしたくなった時にはもう、ズルができる場所はなくなってしまっているかもしれない。
なら異界喫茶を永遠にする方法を考えよう。きっとこれから、自分の想いに添ってくれる怪異を考え出す愛瑛佳と同じように。
「そういえば、ここのことはまだ渉夢君には内緒なの?」
「うん。ついでに、俺が怪異を生み出せるって話したことも秘密にしておいて」
「それはいいけど……喧嘩でもした?」
会計の合間に愛瑛佳が聞いたのは、細たちも気にしていたこと。一店舗目は開店祝いにみんなで行ったけれど、ここに移ってからは場所を渉夢に言わないように頼まれていた。勿論三人はそれを守って来たけれど、理由は知らなかった。
「違うよ。喧嘩はしてないけど……でも、渉夢は強いから。ズルをしなくても生きられる渉夢には、きっと俺のやってることはまだ反対されると思うんだ」
それに、この店が渉夢たち特殊事案捜査班の仕事を増やしている自覚もあった。となれば彼らにとってここは潰すべき場所になるわけで、人がズルをする場所を作りたい啓嗣にとっては知られるわけにはいかなかった。
「いつか、渉夢がズルをしたくなった時に来てもらえるようにするよ」
「そっか。詳しいことは分からないけど、とにかく私からは秘密にしておくわね」
改めてそう約束をして、愛瑛佳は一人で仕事へと戻っていった。
聞いた話では、今回もまた失踪者の行方を追っているらしい。行方を晦ます前にこの店に立ち寄ったことがあるらしいとのことで啓嗣にも事情聴取のようなものが行われたが、残念ながら啓嗣から伝えられることは何もなかった。
だが確かに言えるのは、その件にピエロは登場しないだろうということ。それでもこれも、啓嗣から捜査関係者に伝えるようなことではないだろうと、ずっと黙ったままでいる。




