第二章 記憶の本 第十二話
「たぶん胡蝶はあの時、あそこで歌を聞いたんだと思う。事前の計算ではあの距離まで響かないはずだけど、当日は風が強かったから多少変化があったのかもしれない」
倒れていた胡蝶を見つけたのは、見張りを終えて帰宅途中の渉夢だった。すぐに事態を察して救急車を要請したが、既に心肺停止の状態。必死の救命も虚しく、胡蝶は二度と目覚めなかった。
死因は心臓麻痺。だが現場にいた特殊事案捜査班のメンバーはこれがコンサート会場から漏れた歌声による不審死だと察していた。とはいえ大々的に発表することはできないため、突然すぎる胡蝶の死は捜査中の不幸な事故ということで警察内部にも通達がされた。
けれど胡蝶の葬儀の後。渉夢は細と愛瑛佳を呼び出して、あの日あったことをこっそりと教えてくれた。
「それで、その人は捕まえたの?」
こうして集まって話していることを、誰にも悟られてはいけない。だから自然と三人の声は小さく潜められていた。
「逮捕はできないんだ。これは殺人事件ではなく、あくまで不審死だから」
「でも実際に胡蝶は殺されてるのよ?」
「……あっちに人を殺そうって意思が確認できないってことだろ」
「そう。歌声を聞いた人が不審死を遂げることは確定でいいだろうけど、なら全員ではないのは何故か?亡くなった人の共通点は?そもそもどうして彼は、そんな歌声を欲しいと願ったのか。それ以前に、彼自身はその歌声が齎すものを知っているのか……」
歌声の持ち主が分かったところで、まだまだ分からないことだらけのこの事件を“殺人”扱いして逮捕状を取ることはできない。厄介なのは普通の殺人事件と違い、本人が直接手を下していないこと。恐らく怪異の力を借りているのだろうが証拠はなく、立件のしようがなかった。
だからこそ渉夢たちは今、警察だと悟られぬよう接触を図って相手から話を聞こうと試みているのだ。
「この中で、今回解決した疑問もいくつかある」
一つ。彼はかつて声を失い、それを奇跡的に取り戻している。恐らくこの時に怪異の力を借りたものと思われるが本人は「先生が手伝ってくれた」としか言わないので、今はこの“先生”も並行して探しているところだ。渉夢が会場の外で張り込みをしていたのも“先生”らしき人物の出入りがないかを監視するためだったが、今のところ成果はない。
二つ目。どうやら彼自身は、自分の歌声が何を齎しているかを知らない可能性が高い。コンサートの裏方に潜入していた捜査官の一人が、もしもの話、として歌声で人を殺す殺人鬼の作り話をしたところ「優しい歌を届けるための声でそんなことをするなんて」と本気で憤っていたと報告があった。演技と疑いだしたらキリがないが、この反応から“知らない”可能性が高いと見ている。
「ねぇ。その“先生”を探すのとかって私たちも手伝えないの?」
「駄目だよ。気付いてるだろうけど、これは本当に危険なんだ。これ以上巻き込むわけにはいかない」
「でも……」
「やめろ愛瑛佳。俺たちじゃ、そいつの事情も怪異の名前だって聞き出せないだろ。殺人事件の捜査とはやり方が違うんだから」
「この件は、俺たちで必ず解決するから」
その解決が犯人の逮捕で終わらない場合があることは、愛瑛佳も細も察していた。特に今回は、当の本人に殺人の意思も自覚もない。ならば事件の解決は声の持ち主の逮捕ではなく、怪異の影響を終わらせること。
それでもこのまま不審死が続くことを防げるのなら、と二人は頷いて、密かな集まりは解散となった。
「本当に、細は変わったよね」
先に資料室を出た渉夢の背中を見送って、もう少し間を開けてから出ていくための待機時間に、愛瑛佳はいつかと同じような言葉を口にした。
「そうか?」
「だって今までだったら、止めるのは寧ろ私の役目だったじゃない?なのに最近は私が細に止められてばっかり」
言われてみれば確かに、今までとは立場が逆転している時が何度もあったような気がする。昔は細のほうが突っ走って、胡蝶はいつも止めずについてくるから、愛瑛佳が一人で二人を止めていた。
それが今回はどういうわけか、胡蝶が一人で渉夢の元へ行って帰ってこず、愛瑛佳がどうしてもというのを細が止めている。昔の細が見たら驚くか、怒るかもしれない。
「まずは事実で事情は後、って言うかと思った。昔みたいに」
それは確かに一瞬、細の心に過ったことだった。
歌声を聞いた人間が不審死を遂げるという今回の事件。物的証拠は一つもないが、状況証拠は揃っている。
渉夢が挙げていたような、何故そういう怪異の力に頼ったのかなどの疑問があってもそういうことを聞き出すことが細は得意ではなかった。だからいつも事情は後回し。“やった”という純然たる事実があるのなら、それが全てだ。それで犯人は逮捕できて、事件は解決する。これ以上の犠牲者が出ることはない。
けれどそれでは終わらない事件もあることを、細は知ってしまった。
「いつの間にか警察らしくなったよね」
愛瑛佳にとってそれはただの、純粋な感想だった。変わったことを悪いと言いたかったわけではなく、自分も今回我を出しすぎたようにお互い少しずつ変わっていくものだよね、と。
そうしてこの時我を出した自分が余計なことまで言い過ぎていたかもしれない、と。愛瑛佳はずっと後悔している。




