第二章 記憶の本 第十一話
嫌な予感というものは、何故かよく当たるものだ。自分でも、他人でも。
実際のところ、胡蝶本人は今の状況に何も感じていなかった。いつも通りの、ただ雪が降っていて少し寒い普通の夜、という感覚だ。
けれど渉夢が勘で「マズい」と感じたのなら、きっと何かがマズいのだろう。ならば胡蝶は、言われた通りに動くだけ。
ポツポツと点在する街灯と、雲に隠れてあまり届かない月明かりを頼りになるべく遠くを目指して走りながら、渉夢の言葉を思い返す。
――だってお前、死にたいわけではないだろうけど、生きたいとも思ってないだろう?
否定は、出来なかった。本当にその通りだったから。
死にたいわけではないだろう。でも死んでも仕方がないとは思う。
生きたいかどうかは、よく分からない。死にたくないのなら生きたいということではないのだろうか。
難しいことは分からない。仮にここに細や愛瑛佳がいて、死ぬなと言ってくれたのならば生きようと思っただろう。だが果たしてそれは、生きたいという意思だと言えるだろうか。
自分がどうしたいかなんて考えたこともなかった。警察官になったのだって、幼馴染の二人が警察官になりたいと言ったからだ。細は、憧れた人が警察官を目指していたから。愛瑛佳は高校で生徒会の副会長をやっていた当時の会長がきっかけだと思う。その会長はいつも笑顔を絶やさず優しく穏やかで、自分が限界でも人の頼みを聞いてばかりだった。愛瑛佳はそんな彼のことを嫌いだと言いながら、「そんなに救ってほしいなら私がみんな救ってやるわよ」と言い放ったのをよく覚えている。
細も愛瑛佳も、本人たちが人に語れる夢と理由がある。けれど胡蝶は違う。将来の夢、やりたいこと、なりたいもの。そういった希望を聞かれると胡蝶はどう答えていいか分からなくなって、いつも幼馴染たちの夢を真似していた。幸いなことに二人は一途で、警察官になるという夢を一度も変えたことがなかったため、胡蝶が人の夢を真似していることは誰にも気付かれることはなかった。
けれど今ここに、意思を真似する相手はいない。そんな胡蝶の薄さが、渉夢を不安にさせたのかもしれなかった。
とにかく走れという指示に従って、具体的にどのくらいの距離まで離れればいいのかはよく分かっていないままに走ってきた。ホールからはもうそれなりに離れたはずだから大丈夫だろうと足を止めたその時、風に交じって微かに音が聞こえてくる。
風の音。楽器の音。人の声。知らない音楽。
優しい、歌声。
それは、優しい歌声だった。初めて聞く歌。誰が歌っているのかも知らなかったけれど、不思議と耳を傾けてしまう。
耳を塞げ、聞くな、と。渉夢の指示を思い出した時にはもう遅かった。体から急激に力が抜けていく。何故か猛烈に眠かった。
ドサッと、地面に倒れた衝撃を感じたのを最後に、胡蝶の意識は途切れた。




