第二章 記憶の本 第九話
だからそんなことも早々に忘れて、また新たな事件を解決するために三人で日々奔走しているうちに季節も秋を過ぎて冬になった。定期的に特殊事案捜査班がこちらから持って行った事件に関する報告も届くが、どうやらピエロの件は苦戦しているらしい。
というのも、相手は数年くらい前に出現したと推測される新しい怪異のようで、なかなか名前が分からないとのことだ。昔からいる怪異ならば知識と経験、地道な情報収集ですぐに名前を取れるのだが、新しいものとなると頼りになるのは地道な情報収集のみ。愛瑛佳が聞きかじった話だと発生源を特定して名前を知る必要があるそうで、これがなかなか時間がかかる。
そんなわけで、全く進展がない報告書を読んだ愛瑛佳の口から以前と同じような愚痴が零れた。
「やっぱり今から協力して捜査すればいいのよ。発生源を突き止めるなら人海戦術が手っ取り早いでしょう」
「犯人を逮捕するのと怪異の名前を捜査するんじゃ勝手が違って、足引っ張りそうだけどな」
「新たな行方不明者が出ていないことは、幸いですね」
昨日、追っていた殺人事件の犯人を無事に逮捕した薄羽班の三人はその事件の報告書を書いていたのだが、揃って少し休憩をしに給湯室へ出てきていた。警察学校を卒業するときに色違いで買ったマグカップにコーヒーを注いで一息を吐く。そこで話題になったのはやはり、今朝読んだ特殊事案捜査班からの報告書。
ピエロの件は引き続き捜査中。現状確かなことは、そのピエロは怪異譚を聞いた全員の前ではなく、その中で「遠くへ行きたい」という思いを持つ人の前にだけ現れる、という出現条件のみ。
怪異譚を聞くことや「遠くへ行きたい」という思い、そのどちらかが欠けていたらピエロとは出会えない。だからこそ、既に怪異譚を聞いている細たちの前にもピエロが姿を見せることがなかったのだ。
このピエロ以外にも、特殊事案捜査班の担当になる事件は多い。人間が自分の力で事件を起こすのと同じくらい、怪異の力を借りた事件も後を絶たないからだ。
例えば今朝の報告書によると、怪異の力を借りた人間が起こした密室殺人は解決済み。コンサート会場や歌番組、それらを配信やテレビで見た人々の内で起きている連続不審死事件についても犯人の目星はついたとあった。どうやら火焔葛扇のロゴマークを使用している歌手のファンに被害者が多いということから、その人物を疑っているらしい。
不可解な事件が舞い込み続ける特殊事案捜査班。愛瑛佳の言う通り協力して人海戦術を試みる手もありだとは思うが、普段の彼らの捜査方法が自分たちのそれと違いすぎて上手くいかないだろう。
「もし、このピエロの発生源が最初の行方不明者だとしたら周辺をどれだけ当たっても分からないんじゃないの?」
「確かに。そもそも、怪異ってどうやって発生してるんだろうな」
「李川くんなら、知っていると思いますよ」
「聞きに行ってみる?こっちから早めに声掛けたら手伝えることもあるかもしれないし」
「駄目だって。手出し無用ってあったんだから」
この“手出し無用”の通達は、何も捜査一課を足手纏い扱いして出されているわけではない。これは怪異絡みの事件という可能性があり、まだ怪異の性質などがはっきりしていない時に出されるもので、言い方を変えれば“危険があるため総員退避”という意味だ。
今回のピエロはたまたま出現条件が限定的だったために先に捜査していた薄羽班三人に被害はなかったが、場合によってはその日のうちにピエロが現れて行方不明になっていた可能性だってある。
だからこそ、せめて出現条件がはっきりして危険がないと判断されるまでは“手出し無用”とされる。それこそ新米刑事は怪異のことなどいざ知らず、ただただ追っていた事件を取られたと反発して自ら危険に飛び込むことも考えられるからだ。
それが解除されたからと言って捜査権が戻るわけではないが、必要ならば捜査協力が正式に要請される場合もある。特に今回は危険はなさそうなので、人手が必要と判断されれば遠隔での指示ありきだが地道に聞き込みをする要因として声が掛かることもあるだろう。事件解決のために必要ならば少しでも早く手を貸したい気持ちも理解できるが、今は指示を待つべきだ。
「分かってるわよ。細ってば、いつの間にか警察らしくなったよね」
「何だよそれ」
この時もまた、気心知れた仲間内だけの小さな愚痴のつもりだった。以前自分たちが担当していた案件がなかなか解決しないことへの焦りと、自分たちに変わって不可解な事件と日夜向き合っている友人への心配を混ぜた、本当に小さな文句。
だからそれ以上何かを言うこともなく、話題はいつも通りの雑談に移っていった。
「ピエロのことが解決したら、久しぶりに渉夢も誘って啓嗣の店にでも行くか?」
「蝶花楼くんは、二店舗目の場所を李川くんに秘密にしてほしいと言っていませんでしたか」
「そうそう。だから誘うなら別のお店じゃないと」
「そういえばそうだったな。あいつら喧嘩でもしたのか?」
「さぁ?」
「桜の盆栽は今も大事にしてましたし、不思議ですね」
他愛のない話をしながら、仕事に戻るためにそれぞれ使用したマグカップを洗ういつもの光景。まず細が花葱の丸が描かれたマグカップを戻し、愛瑛佳が陰蟹葉仙人掌が描かれたマグカップを洗う。それに続いて胡蝶が枝梔子が描かれたマグカップを洗っていたのだがぼんやりしていたようで、色の白いその手からマグカップが滑り落ちていく。
「わ!大丈夫?」
「すみません。手が滑りました」
「割れなくてよかったな」
落としたシンクから拾い上げて、念の為全体を確認するが欠けも罅もない。このマグカップは三人の誕生日に合わせた花紋を描いて作っているので、すぐに買い替えることはできない。割れなくてよかった、と細の言葉に頷いてマグカップを元の場所に戻し、揃ってデスクへ向かった。




