第二章 記憶の本 第一話
翠恋が月光茶店、もとい異界喫茶を訪れてから数週間が過ぎた。
主要駅の地下に位置するとはいえ、地下道を進んだ先にある店まで足を延ばす人は少ない。しかも今日は一段と暑いため、外を出歩いている人の方が少ないのだろう。
啓嗣だって仕事がなければわざわざここまで出歩こうなんて思わない。いくら日差しの届かない地下道とはいえ、あくまでここは道であって地下街ではない。むしろ風さえ吹けば地上の方が多少はマシなくらいではないだろうか。まだ真夏というには早いこの時期からこの暑さでは、夏本番が憂鬱になってくる。
それでも、暑いからと言ってお店を閉めることはできない。苦痛なのは出勤する道中だけで、仕事中は涼しい室内にいるのだからありがたいと思わないといけないだろう。この時期に外で仕事をしていたら、啓嗣には倒れる自信がある。
そしてお店を開けていれば、少ないとはいえ来客を知らせるベルは鳴る。午前からお昼時にかけて数回客の出入りを見送って、今はパタリと人影が途絶えていた。ちょうど一番暑い時間帯。多くの人が外出を控えているのだろう。
“必要なお客さん”も、翠恋以降は一人も訪れていない。あの日も暑かったが、日に日に暑さが増している状況ではそれも仕方ないだろう。そもそも、“必要なお客さん”は毎日訪れるものではないのだから。
あまりにも暇なので、この隙に休憩を取ることにする。月光茶店は啓嗣一人で切り盛りしている店なので、こうしてタイミングを見て休憩するしかない。ベルが鳴るので来客に気付かないということはないが、それでも一応奥には行かずにカウンター内で済ませている。
調理場がすぐ傍にあるのだからそこで昼食を作ってもいいのだが、基本面倒臭いのでコンビニで買ったサンドイッチやおにぎりを食べている。飲み物だけは好んで飲んでいる甜茶を入れて、椅子に腰かけた。
目がいつもの癖で桜の盆栽と、その後ろに置かれた“弔い写真”に向く。写真はいつも、カウンター内にいる啓嗣の方を向くように置いている。
今その“弔い写真”の中に写っているのは家族ではなく、高校時代の友人二人。彼らは写真の中のテーブルで食事をしていた。まるで高校時代に戻って一緒に昼食を食べている気分だった。
自分の手元にある“弔い写真”を見つめながら、翠恋の元にも“弔い写真”が現れているだろうか、と考える。あれから数週間。どれだけ遅くてももう出会っているはずだ。
ここでも実物を見せていたが、実際に自分の手元に動く写真が現れた彼女はその後、どうしただろうか。
もしかしたら、気味が悪くなって早々に“もういい”と手放したかもしれない。あるいは写真の出現を喜んで、手元に置き続けるのかもしれない。自分が“もういい”と思えるようになるまで、永遠に。
そう。怪異は永遠だ。
どうか想いに添ってくれ、と人が願い続ける限り、怪異は想いに添うために現れる。そうやって現れた怪異が語られ続ける限り、彼らは永遠に存在し続ける。
では、この異界喫茶はどうだ?
ズルをしないと、生きることさえ難しい。そんな人たちがズルをしやすい場所を作るために啓嗣が始めた喫茶店。この場所は、怪異ではない。だからこそ、啓嗣が店を閉めればそれで終わってしまう。
けれど、それは仕方のないことだ。異界喫茶はただの場所であって、怪異ではないのだから。
「こんにちは~。啓嗣君いる?」
「いらっしゃい、芥生さん」
そんなことをつらつらと考えていると、来客を知らせるベルの音と共に明るい声が聞こえてきた。
ちょうど昼食を食べ終わった啓嗣は立ち上がり、片付けをする。普段なら自分の片付けは後回しで来客の対応をするのだが、今回は知り合いなのでやることをやってからでいいかとの判断だ。
そんな啓嗣の行動を気に留めた様子もなく、夜に近い夕焼けのような色の髪を高い位置で纏めたスーツ姿の女性――芥生愛瑛佳は迷いなくカウンター席へと歩いていく。彼女は定位置になっているカウンターの端っこの席に座ると、その少し赤みがかった薄い茶色の瞳が桜の盆栽を捉えた。
「これ、渉夢君が一店舗目の開店祝いに持ってきたやつでしょ?長持ちね」
「大事に世話してるからね。お気に入りなんだ」
愛瑛佳と啓嗣は高校時代の同級生で、他数名の同級生と共に一店舗目の時からお店に通ってくれていた。諸々の事情があって今では同級生の常連客は愛瑛佳のみになってしまったが、忙しい仕事の合間によく通ってくれている。
「いつもので良かった?」
「うん。お願い」
いつもの、というのはカフェオレのこと。愛瑛佳はカフェオレ、そしてよく一緒に来ていた夢野胡蝶はブラックコーヒーで薄羽細は甜茶を注文するのがお決まりのパターンで、いつしか啓嗣も覚えてしまった。
すっかり慣れた手順でカフェオレを用意しつつ、“弔い写真”を確認する。写真の中の友人二人は食事を終え、ブラックコーヒーと甜茶を飲んでいた。




