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第1章 第9話 その五秒は、ひかりを守るために使われた

 小宮ひかりの疲れを、周囲はうまく見落としていた。黒崎湊人だけが、それに早く気づいた。

 本人が平気な顔をしているからだ。笑えばごまかせる程度の青さ。いつもより少し遅い返事。ノートの端へ残る、書き直しの跡。どれも決定的ではない。だが細部は積み重なる。支配者は全体を見る。全体を見るとは、崩れそうな一点を見つけることでもある。


 昼の時点で、ひかりは二度、言い間違えた。本人はすぐ言い直し、周囲も大して気にしていない。だが湊人は気づく。思考の端が少し鈍っている時、人は先に言葉でつまずく。さらに昼休み、ペンを拾おうとして机の角へ指先を軽くぶつけた時も、ひかりは一拍遅れてから笑ってみせた。痛みそのものより、反応の遅れの方が気になった。


「小宮」放課後、ひかりが脚立へ手をかけた時、湊人は声をかけた。「上は俺がやる」「え、珍しい」「珍しくない。効率の話だ」「脚立の上、怖い?」「貴様の足元の方が信用できん」

 ひかりは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。「それ、心配してる言い方に聞こえるよ」「聞き間違いだ」

 だが実際、心配していた。認めたくはないが。


 その日の準備は想定より押していた。掲示物の貼り替え、受付練習、校内ヒントの最終確認。ひかりは自分の担当分を終えたあとも、空いているところへ自然に手を貸していた。善意だ。だが善意は、しばしば自分の残量を忘れる。

 修司が「小宮、少し休め」と一度声をかけた時も、ひかりは「あと十分で終わるから」と笑って受け流した。礼司も「じゃあこれ片づいたら交代な」と軽く言ったが、その十分は結局二十分へ伸び、さらに別の頼まれごとが重なった。誰もひかりを使い潰すつもりではない。だからこそ止まりにくい。そういう崩れ方は、湊人にとって嫌いな類いだった。


 ルカだけが、途中で一度こちらを見た。「気づいてます?」「何がだ」「小宮さん、たぶんもう限界のちょっと手前」「知っている」「なら止めたらいいのに」「止めようとしている」「そのわりに言い方が全部命令形なんですよね」「支配者だからな」「それで伝わらないから見てる方が面白いんですけど」

 腹立たしい女だ、と湊人は思う。だが同時に、ルカがわざと自分へ言わせようとしているのも分かる。もっと違う言い方があるのだと。認めたくないが、今の自分はそこが下手だ。


 問題が起きたのは、夕方だった。階段脇の掲示スペースで、ひかりが最後の飾りを留めようとした時だ。脚立の一段目へ乗った足がわずかにぶれる。大きな揺れではない。本人も踏みとどまれると思っただろう。 だが、その先の壁際には画鋲の箱が開いたまま置かれていた。転べば手をつく。ついた先が悪い。

 湊人は考えるより先に五秒を掴んでいた。対象は脚立では重い。床も無理だ。なら、ひかりの右手が掴もうとしていた飾り紐、その垂れ方だけを変える。

 次の瞬間、ひかりの手は壁ではなく紐へ伸び、体勢が半歩だけ戻る。脚立はきしんだが倒れず、ひかりはそのまま座り込んだ。

「……っ」「ひかり!」修司の声が飛ぶ。礼司がすぐ脚立を押さえ、湊人は迷いなくひかりの前へしゃがみこんだ。

「立つな」「だ、大丈夫」「大丈夫ではない」「黒崎くん、顔こわい」「黙れ」

 自分でも驚くほど低い声だった。ひかりは目を丸くしたあと、そっと息を吐く。やせ我慢の笑顔がそこでようやく崩れた。

「……ちょっと、ふらっとした」「ちょっとで済ませるな」「ごめん」

 修司が保健室へ行こうと言い、礼司が周囲の作業を止める。ルカは少し離れた所で、黙って湊人を見ていた。 礼司の「今日はもう小宮は上に乗せるな」という短い指示に、周囲もすぐ従う。修司は保健室まで付き添うつもりだったが、別班からすぐ呼ばれ、ひどく迷った顔で立ち止まる。

「俺、すぐ追う」「先に向こう見て」とひかりが言う。代わりに、彼女は湊人の方を見る。「黒崎くん、来て」

 その一言で、湊人は断れなかった。湊人だけが、さっきの五秒の使い方に引っかかっていた 場のためではない。流れのためでもない。ひかり一人を守るためだけに、反射で使った。


 保健室までの短い廊下を歩く間、ひかりはほとんど喋らなかった。普段なら「大げさだよ」とか「ちょっと恥ずかしい」とか、場を軽くする言葉を挟むはずなのに、それが出ない。その無言の方が、湊人にはよほど危うく見えた。

「座れ」保健室の椅子を引きながら言うと、ひかりは素直に従った。養護教諭が席を外している短い時間、二人きりになる。沈黙が少しだけ続いたあと、ひかりがぽつりと言った。

「怒ってる?」「誰に対してだ」「わたしに」「……呆れている」「それ、ほぼ怒ってるじゃん」「違う」「じゃあ何」「自分にだ」

 言い切った瞬間、湊人はわずかに眉を寄せた。口が勝手に動いた感覚だった ひかりも少しだけ目を見開く。

「黒崎くんでも、そういう言い方するんだ」「今のは忘れろ」「たぶん無理」


 養護教諭が戻ってきて、軽い貧血と疲労だろうと言う。少し休めば今日は帰っていい。水分を取って無理をさせないこと。ごく普通の診断だ。大事には至らなかった。だが、だからこそ余計に効いた。大きく壊れないからこそ、周囲は見落とす。


 保健室の帰り、夕暮れの廊下でひかりは壁へ寄りながら言った。

「ありがとう」「支配対象を傷つけるわけにはいかん」「まだそれ言うんだ」「当然だ」「でも、今日は違ったよ」

 ひかりはゆっくりこちらを見る。

「黒崎くん、今はわたしだけ見てた」「……気のせいだ」「ううん」

 否定の速さだけで押し切れる相手ではない。ひかりは責めない。ただ見たことをそのまま言う。それが厄介だった。

「秘密を知りたいとは思う」ひかりが言う。「でも、今日のはそれより先に分かった。黒崎くんは、今、わたしを守った」「支配の維持だ」「じゃあそれでいい」

 あっさりとそう返され、湊人は言葉を失う。暴くのでも追い詰めるのでもなく、受け取るだけ。そんなやり方は知らない。

「知りたい気持ちはあるよ」ひかりが続ける。「でも、知ったあとにどうするかの方が大事だと思う」「……人間らしい発想だな」「そうかも」 ひかりは少しだけ笑った。「でも、黒崎くんは今、人間の中にいるんだから」

 その言葉が妙に重く残る。前世では不要だった定義を、また一つ突きつけられた気がした。

「黒崎くん、ほんとは優しいとか、そういう言い方はしない」ひかりが言う。「似合わないし」「黙れ」「でも、放っておけない人なんだとは思う」「……勝手な解釈だ」「うん。勝手にそう思うことにする」

 そこに押しつけがない。確定もしない。ただ、自分の側で受け取ると言う。そのやり方は、礼司とも修司とも違う。 だから余計に、湊人には刺さる。


 教室へ戻ると、作業の配分が少し変わっていた。 司がひかりの分の細かい確認を引き受け、修司が残り時間を切り直し、ルカが「倒れる前に止める方が賢いですよ」と余計な一言を添えている。自分がひかりを連れて外れた数十分の間に、場の重心まで少し変わっていた。

「小宮は?」修司がすぐ訊く。「今日はもう軽作業だけにする」湊人が答える。「……黒崎、お前がそれ言うんだな」「悪いか」「悪くない。むしろ助かる」

 礼司も肩をすくめる。「じゃあ、今日はその方針で」ルカだけがにやにやしていた。

「一人を守るために動いた五秒が、まわりの配分まで変えましたね」「貴様は本当に黙れ」「図星ですか」「うるさい」

 だが反論は弱い。事実だからだ。今日、自分が選んだ一点は、ひかり一人のためだった。なのに、その結果として周囲の役割まで少しずつ組み替わった。五秒は、局所しか変えられない。だが局所が変われば、流れ全体が変わる。その原理を、湊人は今さら別の意味で理解し始めていた。


 帰り際、ひかりは教室の戸口でこちらを振り返る。

「黒崎くん」「何だ」「今日は、ありがと」「二度も言うな」「じゃあ、また明日」

 それだけ言って笑う。その笑顔が、倒れかけた時よりもずっと普通に見えて、湊人はようやく少しだけ息を吐けた。 守るために使った五秒の重さは残っている。だが同時に、その五秒が教室全体の配分まで変えてしまったことも、もう否定できなかった。


 教室へ戻ったあとも、ひかりの扱いは目に見えて変わった。修司は残り作業の表へ赤線を引き、「小宮の分はここまで」と明示した。礼司は「じゃあ軽い確認だけお願い」と役目を切り替え、周囲も自然とそれに従う。さっきまで「手伝えるならお願い」と思っていた流れが、今は「これ以上は任せない」に変わっている。その切り替わりのきっかけを作ったのが、自分の五秒だった。

「黒崎、これ」修司が新しい担当表を寄越す。「小宮の分、少し散らした。文句あるか?」「ない」湊人は短く答える。「最初からそうしておけ」「そうしたかったけど、小宮が平気な顔するからな」「なら見抜け」「そこはお前の方が先だった」

 素直にそう言われると、奇妙な気分になる。賞賛ではない。事実確認だ。だが、その事実の中に、自分が見たものがクラス全体の判断へ採用された感触があった。人を守るために使った五秒が、その人一人の無事だけで終わらず、周囲の行動基準までずらした。それは支配とも統治とも違う別の手応えに近かった。


 準備の終盤、ひかりは椅子に座ったまま受付の台本だけを見直している。修司がたまに様子を確認し、礼司が来場者役をして読み合わせに付き合う。その横でルカが「倒れる前提で手厚くなるの、人間っぽいですね」と呟き、修司に「そういう言い方やめろ」と怒られていた。さっきまでと同じ教室なのに、流れが変わっている。壊れかけた一点を守った結果、全体の配分が変わる。女神が言った「小さなきっかけで流れは変わる」という言葉を、湊人は今さら別の角度から思い出した。

 帰り支度の前、ひかりは一度だけこちらへ顔を向けた。「黒崎くん」「何だ」「今日は、守られたって分かったから、明日はその分ちゃんと休みながらやる」「当然だ」「うん。だから、黒崎くんも自分の方ちゃんと見て」

 そこで初めて、湊人は言葉に詰まった。守る側の自分へ、見返りのようにそんなことを言う人間はいなかったからだ。

「……余計な世話だ」「そうだね」ひかりは笑った。「でも、そういうの言える関係には、もうなってると思う」

 その一言が、この日のどの出来事より遅く胸へ沈んだ。


 その日の残り時間、教室の空気は妙に静かだった。重い沈黙ではない。誰もが一度だけ、さっき起きかけたことの輪郭を測り直している静けさだ。ひかりが無理をしていたこと。黒崎がそれを先に見抜いたこと。五秒の秘密までは知らなくても、少なくとも“黒崎が一番最初に止めた”という事実だけは、全員の中へ残っていた。

「黒崎」礼司が受付表を持ってきて、珍しく軽口なしで言う。「小宮の分、ここは俺が持つ」「勝手にしろ」「勝手にする。こういうのは早い方がいい」修司もすぐに別の欄へ赤を入れ、「この時間帯は二人体制にする」と短く決める。誰か一人が善意で抱え込む前に、先回りして配分を変える。それは今まで湊人だけがやっていた五秒の発想に、少しだけ似ていた。

 局所を変えれば全体が変わる。今日の教室は、その原理を能力なしでなぞり始めている。ひかり一人を守るために使った五秒が、クラス全体の判断基準までずらしたのだと、湊人は遅れて実感した。それは支配とは少し違う。だが、流れを変えたという意味では、間違いなく自分の手が届いた結果でもあった。


 その夜、机へ向かったあとも、ひかりの「自分の方ちゃんと見て」という言葉だけが妙に残った。守る側へ向けて、守れと言い返すのではなく、自分も無理をするなと返してくる。そんな言葉を受けたことは、前世でも今世でもほとんどない。だからこそ、その一言は五秒の反動とは別の重さで、長く胸に沈んだ。

 しかも、その変化は誰かが大仰に宣言したわけではない。礼司が受付表を持ち、修司が時間帯を引き直し、他の生徒まで自然に「じゃあここは自分がやる」と動く。判断の基準だけが、静かに変わっていた。

 無理をしている者を見つけたら、その一点を先にずらす。今日、湊人が五秒でやったことを、能力のない人間どもが別の形で真似し始めている。

 局所を変えれば全体が変わる。五秒の原理が、教室の中ではもう能力だけのものではなくなりつつあった。その事実は少しだけ誇らしく、同時に少しだけ恐ろしい。自分のやり方が、支配ではなく共有される流れになった時、それを成功と呼ぶべきかどうか、湊人にはまだ決められなかったからだ。

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