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第1章 第8話 笑顔の支配は、どこで息苦しくなるか

 九条礼司のやり方は、よくできている。 だからこそ、黒崎湊人には気に入らなかった。


 文化祭一週間前。準備の進行は表向き順調だった。礼司が対外的な調整を受け持ち、修司が締切を管理し、ひかりが細部を整え、湊人が全体設計を見る。役割だけ見れば理想的だ。だが理想的すぎる時ほど、見えないところへ歪みが溜まる。


 最初に気づいたのは、湊人だった。大道具班の二人が明らかに疲れている。問題制作班の一人は、休み時間になるたび資料から目を逸らす。受付班の女子は「大丈夫」と言いながら、同じ失敗を三回繰り返した。 表面上は回っている。だが、削られる側が出ている。

「礼司」 放課後、教室後方で湊人は低く呼びかけた。「何」「役割の偏りがある」「多少は仕方ないだろ。向いてるやつが多めに持った方が全体は回る」「その理屈で削られる者が出るなら下策だ」「でも、全員を同じだけにするのは現実的じゃない」

 礼司の声は穏やかだった。怒っていない。むしろ、本当に合理の話として言っている。それが厄介だった。


 発端は、受付担当の女子が何度目かの「大丈夫」を口にした時だった。笑っている。声も明るい。だが、チェック表の記入欄だけが三回連続でずれている。礼司はその様子を見て、代わりに自分が少し多めに持てば回ると判断したのだろう。実際、短期的には回る。問題は、その判断が積み重なった先で、疲れている本人だけが「迷惑をかけたくないから何も言わない」位置へ押し込まれることだ。

 礼司のやり方は合理的だ。だからなおさら厄介だった。善意の顔をした合理は、拒否されにくい。拒否されにくいまま回り続けると、疲れた者ほど自分の声を後ろへ下げる。湊人が礼司へ苛立ったのは、たぶんそこだ。悪意なら切ればいい。善意のまま削っていくやり方は、切るべき瞬間そのものが見えにくい。


「礼司くん」ひかりが横から口を挟む。「向いてる人に寄せるのは分かるけど、寄せられた人が『断りにくい』空気になってるかも」「そんなつもりはないよ」「つもりじゃなくて、結果の話」

 礼司の笑みがほんのわずかに薄くなる。 修司も手を止めた。

「一回、全部の担当を見直そう」修司が言う。「ここで不満が溜まったまま当日入る方が危ない」

「それすると、逆に今まで頑張ってた人の作業が止まる」礼司が返す。「止め方次第だろ」「神谷は責任で考えるからそう言うけど、現場ってそんなに綺麗に切れないんだよ」

 空気が少し硬くなる。

 湊人はその硬さを見逃さなかった。議論が長引けば、礼司の合理も修司の責任も、どちらも正しさの武器になる。そして正しさ同士の衝突は、感情の弱い者から沈黙させる。


 その時、教室の隅で、受付担当の女子が小さく俯いた。自分の作業量が偏りの中心だと気づいたのだろう。礼司も修司もそこまでは見えていない。湊人は五秒を掴む。対象は軽い。礼司の前に置かれたペン、その転がる方向だけを変える。


 次の瞬間、ペンは机を離れてひかりのノートへ当たり、ぺらりと一枚めくれた。そこには、各担当の作業時間がびっしり記録されている。

「……これ」修司が先に気づく。「時間、完全に偏ってるじゃん」「ひかり、これ集計したの?」「してた。言い出すタイミング迷ってたけど」

 数字が出た瞬間、議論の土台が変わる。感覚や空気ではなく、事実の話になる。礼司も黙って表を見た。そこには、自分の采配が生んだ偏りがはっきり示されていた。


 反論しようと思えばできただろう。数字の取り方の問題だと言うことも、短期的にはこの方が効率的だったと説明することも。だが礼司はそうしなかった。数字の前で言い訳を重ねれば、たぶん場の信頼ごと削れると分かっていたからだ。


「……悪い」礼司が先に言った。「回ってると思い込んでた」「思い込ませる回し方をしてたんだろ」 湊人は冷たく言う。「みんなが笑っていても、削られる側が出るなら支配として下だ」「お前に支配って単語で説教される日が来るとは思わなかった」「説教ではない。事実だ」

 礼司が初めて、正面から湊人を見た。笑顔は消えていない。だが、その奥にわずかな熱がある。

「黒崎、お前も結局は支配したいだけだろ」「当然だ」「なら、俺と何が違う」「削られる者を見落とさない」「言い切るの、ずるいな」「事実だからな」

 そこで修司が間へ入る。「どっちが上とか今はいい。直すぞ。時間の再配分、今日中にやる」ひかりもすぐ頷いた。「感情的にやるとまた偏るから、表見て決めよう」その言葉で、さっきまで俯いていた受付担当の女子がようやく息をついた。責められる場ではなく、直す場へ変わったのだと分かったのだろう。

 その反応だけで十分だった。礼司の采配が悪意ではなかったとしても、結果として誰かが黙る位置へ押し込まれていたのは事実だ。数字が出て、場が直る。その順番が今日はたまたま間に合っただけで、遅れればもっと小さな沈黙が増えていたはずだった。湊人は、自分が本当に嫌っているのは礼司本人ではなく、「善意の顔をしたまま誰かを黙らせる構図」そのものなのだと、そこでようやく言葉に近い形で理解する。


 ルカは少し離れた机でそのやり取りを見ていた。頬杖をついたまま、面白そうに目を細める。

「柔らかい支配と硬い支配、ですか」「貴様は黙っていろ」「でも今日の元魔王さま、ちょっとだけ礼司くん寄りでしたよ」「何だと」「全体を見る癖が同じって話」

 不快だ。だが、完全には否定できない。礼司を嫌いながら、相手が場を壊さず握る力を認めている。認めてしまうからこそ苛立つ。


 再配分が終わった頃には、教室の空気は少し軽くなっていた。

 最終的に担当表は均し直された。ほんの少し、一人あたりの負担が減るだけだ。だがその「ほんの少し」を礼司が最初に見誤ったことも、湊人は忘れない。数字に出る前の疲れ。笑顔で隠される無理。そういうものを拾えなければ、どれだけ綺麗に回しても遅れて歪む。たぶん礼司も、それを今日ようやく理解したのだろう 誰かが露骨に謝るわけでも、誰かが英雄になるわけでもない。ただ偏りが可視化され、修正された。それだけで十分だった。

 だが、あの受付担当の女子が最後にほっとした顔で席へ戻ったのを見て、湊人は自分の判断が正しかったと確信する。場は数字で整えられる。だが整えた結果が誰の呼吸を楽にしたかまで見なければ、支配としては半端だ。


 帰り際、礼司が湊人の隣へ来る。

「今日は助かった」「礼を言う相手を間違えるな。数字を出したのはひかりだ」「分かってる。でも、お前があそこで止めなかったら、もう少し厄介になってた」「当然だ」

 礼司は小さく笑う。その笑みに以前ほどの余裕はない。代わりに、こちらを認める色が少し混じっていた。礼司もまた、今日の一件で自分のやり方の輪郭を見直さざるを得なかったのだろう。笑顔で握ることはできる。だが、その笑顔の外側で黙る者がいるなら、それは未完成だ。そして湊人は、その未完成さを責めた自分もまた、別の形で同じ穴へ落ちる可能性があると分かっていた。

「でもさ、黒崎」「何だ」「お前、ほんとは俺のやり方が嫌いなだけじゃないだろ」「……」「分かるから腹が立つんだろ」

 返せなかった。礼司は追い打ちをかけず、ただ「また明日」と言って先に廊下を曲がっていく。その背中には、以前よりわずかに迷いがあった。自分のやり方で回せると信じていた者が、一度だけ手応えを失った時の背中だ。だからこそ、今日の対立はただの衝突では終わらない。礼司も次からは修正してくる。そういう相手だ。その予感に、湊人は少し気分が良くなった。敵対というほど単純ではないが、盤面の相手としてはむしろ望ましい。


 帰り際、ひかりがふっと息を吐いた。

「今日の二人、ちょっと怖かった」「どっちがだ」「どっちも」

 その答えに、礼司が苦笑し、湊人は鼻を鳴らす。怖いと言われても、不思議と否定する気にはならなかった。支配の話をしていたのだから、当然だ。ただ、その場にひかりがいて、修司がいて、ルカがいて、それでも場が壊れなかったことだけは覚えておく価値があった。


 帰宅前、ルカが階段の踊り場で追いついてくる。

「今日の結論、出ました?」「何の」「笑顔で握る支配が、どこで息苦しくなるか」「簡単だ。削られる者が黙る地点だ」「正解に近いですね」 ルカは笑う。「じゃあ次は、自分のやり方がどこで同じことを始めるか考えましょうか」

 言い返そうとして、湊人は一瞬だけ止まった。礼司を批判しながら、自分もまた同じ穴へ落ちる可能性がある。その自覚が、言葉の先を鈍らせる。 その沈黙を、ルカだけが面白そうに見ていた。


 階段を下りる途中、ひかりが少し遅れて追いついてくる。「今日の黒崎くん、いつもより怒ってたね」「当然だ」「礼司くんに?」「違う。見えない疲れを放置するやり方にだ」そこまで言ってから、湊人は少しだけ眉を寄せた。言葉にすると、自分が何へ怒ったのかが妙に明確になる。ひかりはその顔を見て、小さく頷く。「じゃあ、やっぱりちゃんと見てるんだ」その一言が、不思議と軽くは聞こえなかった。 礼司のやり方を嫌悪しながら、自分もまた結果として似たものを目指しているのではないか。その問いは、ひかりの前だとごまかしにくい。笑顔の支配が息苦しくなる地点を見た日だった。だが同時に、自分の支配がどこで同じ形へ変わり得るかを知った日でもあった。


 その夜、湊人は礼司の言葉を思い返しながら、担当表の数字を見ていた。分かるから腹が立つ。あの一言は不快だった。だが不快である以上に、正確だった。礼司のやり方は、自分が別の角度から目指しているものへ近い。だからこそ、どこでそれが息苦しさへ変わるのかを見誤りたくなかった。次に同じ綻びが出た時、自分はもっと上手く止められるだろうか。その問いだけが、珍しく夜遅くまで意識へ残り続けた。

 息苦しさは、怒鳴り声より先に、こういう「言い出さない沈黙」の方から始まるのだと湊人は思う。

 だから礼司への苛立ちは、単なる嫌悪では終わらない。止めなければならない相手であり、同時に見誤ってはならない相手でもある。似ているからこそ、どこで線を引くかを先に言葉にしなければ、自分もまた笑顔のまま人を削る側へ寄る。湊人はその危うさを、今日の沈黙の中で初めて具体的に想像した。

 笑顔のまま回る盤面ほど、止める理由を口にしにくい。だからこそ、その止め時を見失えば、善意の顔をしたまま簡単に人を削ってしまう。

 礼司を見ながら湊人が本当に恐れたのは、むしろその似姿が自分の側にもあることだった。

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