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第1章 第7話 はじめて「湊人」と呼ばれる日

 名前で呼ばれる、という感覚に、黒崎湊人はまだ慣れていなかった。


 朝、食卓では母が「湊人、味噌汁よそって」と言い、父が新聞をたたみながら「文化祭、忙しいのか」と訊く。どこにでもある家庭の音だ。皿の触れ合う音、炊きたての米の匂い、テレビの天気予報。 前世の玉座の間とは何一つ似ていない。なのに最近、湊人はこの光景を以前ほど煩わしいと思わなくなっていた。

「湊人、聞いてる?」「聞いている」「なら返事は?」

「……聞いている」「返事になってないのよ、それ」

 母は呆れたように笑い、父は新聞の陰で吹き出した。

「文化祭、友だちと残る日増えたな」父が何気なく言う。「友だちではない」「じゃあ何だ」「支配対象だ」「やっぱり友だちじゃないか」


 あまりにも雑な結論に、湊人は反論し損ねた。母まで笑っている。人間の親というものは、本当に細部を雑にまとめる。だがその雑さが、妙に居心地を悪くしない。

「湊人、帰り遅い日が増えるなら、連絡だけはしてね」母が味噌汁をよそいながら言う。「別に監視じゃないけど、何時ごろか分かる方が楽だから」「監視ではないのか」「家族だからよ」「違いが曖昧だな」「黒崎家ではだいたいそういうものなの」

 その言い方に、湊人は少し黙る。家族だから。前世にはなかった単語だ。配下とも臣下とも違う、上下のない関係を当然のように前提にしている。

 たかが朝食のやり取りだ。だが、そこには確かに自分の名がある。与えられたもの。前世では持たなかったもの。それを当然のように呼ばれる度、胸の奥に小さな違和感が残る。


 学校へ着くと、その違和感は別の形で重なった。

「黒崎、おはよう」修司が言う。「黒崎、今日の放課後ちょっと時間ある?」礼司が言う。「黒崎くん、昨日の配置図持ってきた?」ひかりが言う。

 同じ自分を指しているのに、呼び方が違う。しかも誰も、その違いを不自然とは思っていない。人間はこうやって相手との距離で呼び名を変えるのか、と湊人は改めて理解する。前世では不要だったものだ。最上位に立つ者は、呼び分けられない。呼ばれるならただ一つ、魔王で足りた。

 昼休み、ひかりが資料を渡しながら言った。

「そういえばさ」「何だ」「黒崎くんの名前、けっこう似合ってるよね」「……何の話だ」「黒崎湊人。ちゃんと人の中にいる感じがする」

 予想していなかった方向から刺された。湊人は言葉を失い、数拍遅れてから鼻で笑う。

「愚かだな。名で本質は決まらん」「決まらないよ」ひかりはあっさり頷いた。「でも、呼ばれる名前って、その人が今どこにいるかは分かる気がする」「哲学でも始めるのか」「黒崎くんが珍しく黙ったから、ちょっとだけ本音を言ってみた」

 その言い方がずるい。軽く聞こえるのに、逃げ道を作らない。授業の合間、修司はさらりと「黒崎」と呼び、礼司は少し離れた所から「おい黒崎」と軽く声をかける。そのどちらも、役割を前提にした呼び方だった。一方でひかりが「黒崎くん」と呼ぶ時だけ、そこには役割以外のものが少し混ざる気がする。 何かは分からない。分からないが、その違いを意識してしまう時点で、すでに以前の自分ではない。


 放課後、ルカが窓辺に座って菓子パンを食べていた。

「浮かない顔ですね、元魔王さま」「その呼び方をやめろ」「では黒崎湊人くん?」「やめろ」「どっちもだめなの、めんどくさ」

 ルカは楽しそうに笑いながらも、次の一言だけは静かだった。

「でも、名前って厄介ですよね。最初から誰かとの関係の中へ置かれるから」「知ったような口を利くな」「知ってますよ。名を持たない方が自由な時もある。でも、名がある方が逃げにくい時もある」

 逃げにくい。 その表現が、妙に正確だった。


 前世の自分は自由だった。最上位だったからだ。名を賜る必要も、誰かの期待へ応える必要もなかった。だが同時に、誰かの呼び声で引き戻されることもなかった。玉座の間で倒れた時、膝をついた魔族たちはいた。だが「生きろ」と名を呼ぶ者はいなかった。あの場で自分は、最上位である代わりに、誰の関係の内側にもいなかったのだと気づく。

「名があると、雑に責任も付いてくるんですよ」ルカがパンの包みを丸めながら言う。「返事して、遅れるなら連絡して、いなくなったら探されて」「不自由だな」「でも、その不自由で繋がってる人もいます」「人間の理屈だ」「元魔王さま、今はその人間の理屈の中にいますよ」

 軽い声だった。だが、ひかりの「人の中にいる感じがする」と奇妙に重なる。


 夕方、教室に残っていたのはひかりだけだった。掲示用の紙を切りながら、彼女は何でもない声で言う。

「ねえ、黒崎くん」「何だ」「今日はどっちで呼んだ方がいい?」「何がだ」「黒崎くんか、湊人か」

 からかっているのではない。本当に聞いている顔だった。湊人はわずかに視線を落とす。

「好きにしろ」「投げた」「支配者は細部にこだわらん」「さっきまで名前の話で固まってた人が言う?」

 見透かされている。ひかりは小さく笑って、はさみを置いた。

「じゃあ、今日は湊人」「……勝手にしろ」「うん。湊人、その紙取って」

 ただそれだけだった。

 呼ばれた瞬間、胸の奥で何かがずれた。嫌ではない。だが落ち着かない。前世なら持ち得なかった感覚だ。誰かが自分へ名を使う。その呼びかけに応じて手を伸ばす。たったそれだけのことが、妙に重い。

 しかもひかりは、その反応を面白がりすぎなかった。からかうでも、踏み込むでもなく、「そう呼ぶこと」が自然であるかのように振る舞う。それが余計に効く。

「変な顔」「変ではない」「でも、ちょっとだけ止まった」「気のせいだ」「気のせいにしてあげてもいいけど」

 ひかりは切った紙を重ねながら続ける。

「呼ばれ慣れてないみたいだった」「呼ばれてはいる」「そうじゃなくて」

 彼女は言葉を選ぶように一拍置いた。

「自分の名前として受け取るのに、まだ時間がかかる感じ」「……分かったようなことを言うな」「分からないよ。でも、そう見えた」

 責めているわけでも、暴いているわけでもない。ただ見えたものをそのまま置く。ひかりはそういう言い方をする。それが湊人には厄介だった。否定しても押し返し切れないからだ。

 そのまま二人で作業を続けていると、外から修司の声がした。「黒崎、まだ残ってるか」 ひかりが小さく笑う。「ほら、また黒崎」「当然だ」「じゃあ、わたしはここだけ湊人でいく」「勝手だな」「うん」

 その「うん」がやけにあっさりしていて、だから逃げ道がなかった。


 帰り道、礼司が階段の踊り場で待っていた。「黒崎」そちらはいつも通りの呼び方だった。「お前、最近ちょっと変わった?」「何の話だ」「いや。前より、人の顔を見る時間が増えた」

 礼司はそれ以上追わなかった。ただ意味ありげに笑い、先に階段を下りていく。湊人はその背中を見送りながら、静かに息を吐いた。

 名前は、格を下げるものではないのかもしれない。むしろ、自分をどこかへ結びつけるものだ。まだ肯定する気はない。だが、完全に否定もできなくなっていた。

 家へ帰ると、母が台所から振り向く。「おかえり、湊人」その呼び声へ、今日は少しだけ早く返事が出た。

「……ただいま」

 自分でも驚くほど、自然な声だった。前世では不要だった名前が、少しずつ現在の自分へ馴染み始めている。それを認めるのは、まだ少しだけ悔しかった。


 翌日、教室で修司が何気なく「黒崎、これ配って」と言い、礼司が「黒崎、放課後ちょっと先に来て」と重ねる。そのどちらにも素直に反応できるのに、昼休みにひかりが「黒崎くん」と呼んだあと、少し声を落として「……湊人」と試すように言った時だけ、湊人の返事はわずかに遅れた。ひかりはすぐそれを見て取る。

「やっぱり、そっちはまだちょっと重いんだ」「重くはない」「じゃあ、慣れてない」「それも違う」「じゃあ何」「……近い」

 自分で言ってから、湊人は小さく眉を寄せた。近い。誰かが自分へ向ける呼び方として、距離が近い。だから反応が遅れる。そんな当たり前の理屈を、前世の自分は知らなかった。

 ひかりは少しだけ驚いたあと、いたずらっぽくではなく、むしろ大事な物を扱うように小さく笑った。「そっか。じゃあ、たまに使う」「勝手だな」「うん。でも、勝手に近づける呼び方って、ちょっと特別でしょ」「……人間は面倒だ」「そうだよ」

 あっさり肯定されると、かえって反論しづらい。放課後の教室で、そのやり取りのあとに修司が「黒崎」と呼びかけ、礼司が「おい黒崎」と手を振る。同じ人物への声なのに、ひかりの「湊人」だけが別の場所へ触れてくる。それを意識してしまうこと自体、湊人には少し悔しかった。


 夜、自室の机へ向かったあとも、その呼び方だけが残った。湊人、と呼ばれるたび、前世の「魔王」とは別の場所へ自分が置かれる。命令でも称号でもない。ただこの家やこの教室で、自分を指すために使われる音だ。それは格を上げる名ではない。だが、誰かの生活の中へ自分を結びつける名ではある。前世では不要だったものが、今は少しずつ自分の輪郭になっていく。その変化を受け入れるのは、やはりまだ少しだけ悔しい。


 夜、家の風呂上がりに母が廊下の向こうから「湊人、洗濯物出して」と言った時、その呼び名へ今までより早く身体が向いた。学校だけではない。家でも、外でも、同じ名で呼ばれている。名はただのラベルではなく、現在の自分を各場所へ結びつける杭のようなものなのかもしれない、と湊人は初めて少しだけ思う。


 夕食のあと、父が何気なく言った。「湊人って名前、わりとお前に合ってきたな」母も流し台の前から「小さい頃はもっと尖ってたのにね」と笑う。何気ない会話だ。そこに深い意味はない。だが“合ってきた”という言い方だけが、妙に引っかかった。名はただ与えられたものではなく、呼ばれるうちに現在の自分へ馴染んでいくのかもしれない。そう考えた瞬間、前世にはなかった種類の落ち着かなさが胸へ広がる。


 翌朝、教室へ入ると、ひかりはいつも通り「黒崎くん」と呼んでから、作業の確認だけごく自然に「湊人」と言い直した。試すような声音ではない。昨日より、少しだけ当たり前に近い呼び方だった。修司の「黒崎」や礼司の「黒崎」が役割や位置を指す声だとすれば、ひかりの「湊人」はもっと今の自分そのものへ触れてくる。だから反応が遅れる。遅れたことにひかりは気づいていても、もう面白がらない。ただ、距離を詰める呼び方として大事に置く。それが余計に厄介だった。

 名を持つことは、格を失うことではないのかもしれない。呼ばれるたびに、自分がどこへ属しているのかを確認させられること。前世では不要だったその不自由さが、今は不思議と嫌いになりきれない。


 帰り道、信号待ちのあいだも、その呼び方だけが頭の中へ残った。黒崎でもなく、魔王でもない。ただ湊人と呼ばれるだけで、自分が今ここで生きている人間として固定される。前世の自分にはなかった不自由さだ。だが同時に、それはどこへ戻るべきかを示す印でもある。名を与えられるとは、たぶんそういうことなのだと、湊人はようやく少しずつ理解し始めていた。


 前世での自分は、呼ばれれば終わりまで同じ存在でいられた。魔王と呼ばれるかぎり、それだけでよかった。だが今は違う。家で呼ばれる湊人と、教室でひかりが呼ぶ湊人と、自分の中で独り言のように転がる湊人では、微妙に響きが違う。その違いを区別してしまうこと自体、人間としての現在へ深く入っている証拠なのだろう。そう思うと少し悔しい。だが、完全に拒みたいわけでもないのがさらに厄介だった。


 名を持たなかった前世では、どこへ戻るべきかなど考える必要がなかった。玉座があり、城があり、そこへ自分がいるだけで世界は成立した。

 だが今は違う。帰宅すれば家があり、学校へ行けば教室があり、そのどちらでも別の声で自分が呼ばれる。その複数の呼びかけのどれもを、もう完全には切り捨てられない。そう気づいた時、湊人という名は鎖ではなく、現在の自分を留める杭のようにも思えた。

 名前は称号ではなく、関係の中で使われるものだ。だから呼ばれるたびに、どの位置から見られているかが分かる。修司の「黒崎」は役割へ向く。礼司の「黒崎」は盤面の相手へ向く。ひかりの「湊人」は、もっと今の自分そのものへ向く。

 そこまで整理してしまってから、湊人はようやく自分がその違いを嬉しいとも不快とも決めきれずにいることへ気づいた。


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