第2章 第7話 エースの価値、補欠の居場所
リレーの仮メンバー表が貼り出された昼休み、一年三組の教室は妙に静かだった。
ざわついていないわけではない。むしろ声はある。誰かが紙の前で名前を読み上げ、別の誰かが「え、入ってる」と笑い、後ろでは椅子が引かれる音もする。
だが、その全部が少しだけ薄い。
体育祭の種目ごとの候補者をまとめた一覧の中でも、いちばん視線を集めていたのはクラス対抗リレーの欄だった。
速い者の名前。体力のある者の名前。去年の中学体育祭で活躍したらしい者の名前。
そして、そのどこにも入っていない者たちの名前。
「まだ仮だから」
修司が、張り紙の前に集まった数人へ言った。
「今日の放課後に一回走ってみて、その上で決める。ここで確定じゃないから」
その言い方は正しい。
正しいが、張り出された時点で一度線は引かれている。入っている側と、入っていない側。速いと見なされた側と、そうではない側。
人間は、決まってから傷つくのではない。決まりそうだと見えた時点で、もう少し傷つき始める。
「そんな顔しないでよ」
白世勇人が、張り紙を見上げたまま固くなっていた女子へ穏やかに言った。
「まだ候補だし、無理に入る方がしんどい場合もあるから。走ることだけが役割じゃないよ」
声は柔らかい。
責める気配は一切ない。
だからこそ、言われた女子は困ったように笑って、「うん」と小さく頷いた。
湊人は少し離れた席からその様子を見ていた。
あの頷きが安心から出たものではないことくらい、見れば分かる。
だが白世の言葉は、反論の形を持ちにくい。無理をしなくていい。役割は他にもある。誰も傷つけていないようでいて、走りたい側がまだ口へ出していない熱を、先回りして静かに畳んでいく。
「黒崎くん」
隣の席でひかりが小さく呼んだ。
「今の、助けたように見えた?」
「見せ方としてはそうだ」
「でも、ちょっと違った」
「当然だ」
ひかりは張り紙の前を見たまま、少し眉を寄せる。
「ほっとした顔じゃなかった」
「助かったのではなく、助かったことにされた顔だ」
自分で言ってから、湊人は舌打ちしたくなった。
言語化が過ぎる。こういう整理は本来、もっと後でよかったはずだ。
だが最近は、ひかりが隣にいると、違和感が妙に言葉へ変わりやすい。
礼司は教室の後ろから張り紙を眺めていた。
笑っていない。けれど不機嫌を露骨に出してもいない。
あの男は、自分の熱が削られる場面でこそ静かになる。静かな方が本気だと、もう湊人も知っていた。
「礼司くん」
ひかりが振り返る。
「何か言わないの?」
「言うよ」
礼司は壁にもたれたまま答えた。
「ただ、今ここで言うと角が立つから、もうちょい後で」
白世がその声を拾った。
「角って?」
「候補表の作り方」
礼司は笑わないまま前へ出る。
「速い人を候補に入れるのは普通だと思う。でも、その時点で外れた側が『じゃあ自分は別の役割で』って先に納得する空気を作るのは、ちょっと早い」
教室の温度がわずかに変わった。
修司が間へ入るように口を開く。
「礼司、まだ決め切ってるわけじゃないって」
「分かってる。だから今は候補なんだろ」
「じゃあ」
「でもさ」
礼司の視線が白世へ向く。
「候補って言いながら、降りる側にだけ先に優しい言葉が行くの、変じゃない?」
白世は表情を崩さなかった。
「変かな」
「変だよ。上に行きたい側はまだ何も言ってないのに、降りる側だけ先に居場所を作られたら、走りたいって言いにくくなる」
湊人はその言葉を、内心で高く評価した。
礼司は感情だけで噛みついているのではない。白世の優しさがどこへ先に配られているのか、その順番を見ている。
「俺は、無理して崩れる方が嫌だと思ってるだけだよ」
白世は静かに言う。
「速い人が引っ張るのは大事だし、勝ちたい気持ちも分かる。でも、そのせいで遅い人が最初から申し訳なさそうに立つ空気になるのは違う」
「申し訳なさそうにさせてるの、今どっちだと思う?」
礼司の声は低かった。
修司がさすがに止める。
「そこまでにしとけ。今日は試走してから決めるんだろ」
「うん」
白世は先に引いた。
「だから、走って決めよう」
その収まり方はきれいだった。
表面上は。
昼休みの終わり、ひかりは席へ戻りながら言った。
「礼司くん、怒ってたね」
「当然だ」
「黒崎くんは?」
「気に入らん」
「やっぱり」
「白世は補欠を救いたいのではない」
湊人は窓の外を見た。
「悔しさが形になる前に、丸くしたいだけだ」
「……それって、もっと厄介じゃない?」
「だから厄介なんだ」
放課後、校庭には各クラスの声が広がっていた。
リレー候補者の試走。応援団の基礎練習。用具の位置確認。体育祭が近づくにつれ、学校全体が少しずつ外へ向いていく。
なのに一年三組だけは、その外向きの勢いがどこか足りない。
修司が候補者を集め、出席を取る。
白世はその横で、無理そうな者へ先に声をかけていた。
礼司は少し離れた位置でアップをしながら、何も言わずに周囲を見ている。
ひかりは記録用の紙を持って、トラック脇に立っていた。
湊人はその全部が見える場所へ、最初から立った。
「じゃあ、まず一本」
修司が言う。
「今の候補で走って、そのあと入れ替えも見る。タイムだけじゃなく、バトンの受け渡しも確認するから」
最初の組が並ぶ。
礼司。陸上部の男子。体力のある女子。中学までバスケをしていたらしい男子。
名前を見れば妥当だ。速い者たちを前へ置いた、普通の並びだ。
白世がその横で、候補から外れた数人へ言った。
「見てるだけでも大丈夫だからね。あとで入りたいって思ったら入ればいいし、最初から入らないのも全然ありだから」
その言い方は、また先に降り道を用意していた。
笛が鳴る。
最初の一本は速かった。礼司はやはり目立つ。走り方が派手なわけではないのに、前へ出るべき時の出方を知っている。腕の振り、コーナーの抜け方、バトンをもらう瞬間の目線。勝ちに行く人間の走りだった。
それを見て、候補から外れていた男子が小さく「すげ」と漏らした。
その声には憧れもあったし、最初から自分は別の側だと知る諦めも混じっていた。
「速いね」
白世がその男子へ笑いかける。
「でも、あれ見て無理だって思う必要はないよ。走る以外にも大事なとこあるし」
男子は曖昧に笑って頷く。
礼司がゴールから戻ってくる途中、そのやり取りを見た。
何も言わない。
だが視線だけで、十分に不満が伝わる。
二本目は、候補外も混ぜて走る形になった。
ここで白世が自分から提案する。
「速い人だけで固めるより、一回いろんな組み合わせ見た方がいいよ。遅いって思ってた人でも、場所が変わると合うかもしれないし」
「それはそうだな」
修司は頷いた。
「極端に速い遅いだけじゃ決まらないし」
理屈としては間違っていない。
だが混ぜ方に、白世の意図は出る。速い者を分散させ、遅い者が極端に置いていかれない組み方に寄せる。試すというより、最初から尖りを均す形だった。
「黒崎くん」
ひかりが紙を押さえながら小さく言う。
「今の組み方、記録見るためって感じしないね」
「記録ではなく、落差を見えにくくするための並べ方だ」
「やっぱりそう見える?」
「見えない方がどうかしている」
二本目の第三走者には、最初の候補表から外れていた女子が入った。
昼に白世から「無理しなくていい」と言われていた女子だ。
本人は断りきれなかったのか、あるいは一度は走りたかったのか、緊張した顔でバトンを待っていた。
前の走者が迫る。
女子は肩を上げる。
受け取る瞬間、右足のつま先がわずかに内へ入った。あのまま踏み出せば、着地が流れる。転びはしない。だが大きくよろける。そうなれば周囲は一斉に「ああ、やっぱり無理だったね」という顔をする。
視界に入る。近い。軽い。
湊人は五秒を掴んだ。
変えたのは足ではない。
女子の手首へ触れる直前、前の走者のバトンの先端、その角度だけをわずかに変える。
受け渡しの位置が半歩外へずれ、女子の足は内へ入る前に踏み直した。
次の瞬間、女子はぎりぎりで体勢を保ったまま走り出す。
速くはない。
だが、さっきのまま大きく乱れるよりはずっといい。
少なくとも「やっぱり無理」の決定打にはならない走りだった。
「今の」
ひかりが息を呑む気配がした。
「見たか」
「……ううん。見えてない。でも、変だった」
女子は最後まで走りきった。
息は上がっている。肩も揺れている。だが転ばなかったし、極端に遅れもしなかった。
トラック脇へ戻ってきた時、白世がすぐに近づく。
「大丈夫? 無理してない?」
「う、うん」
女子は息を整えながら頷いた。
「でも、やっぱり私、出ない方がいいかも」
その一言は、自分で決めたようでいて、どこか早すぎた。
「そう思うなら、それでいいと思う」
白世は優しく答える。
「出ることだけが偉いわけじゃないし、無理して苦しい思いする必要ないよ」
女子はまた頷く。
今度は少しだけ楽そうな顔だった。
だがその楽さは、走りたかった気持ちが消えたからではない。もう頑張らなくていいと言ってもらえた安堵だ。
悔しさより先に安堵が来る形は、白世の得意な盤面だった。
「待てよ」
礼司が口を挟んだ。
「今の一本で、なんでそこまで決まるの」
白世が振り向く。
「本人がそう言ってるから」
「そう言いやすい空気にしたの、誰だと思ってる?」
「礼司」
修司が止めに入る。
「責める言い方はやめろ」
「責めてるんじゃない」
礼司は視線を外さなかった。
「今の、走れなかったんじゃないだろ。苦しかっただけだ。苦しいからってすぐ降ろしてたら、出たい側は何を根拠に残ればいいんだよ」
白世は少しだけ黙った。
その沈黙は動揺ではなく、言葉を選んでいる顔だった。
「頑張りたい気持ちは否定してない」
白世が言う。
「でも、頑張りたい側がいるなら、その逆もいる。速い人を立てれば、遅い人は自分が足を引っ張る側だって知ることになる」
「知るだろ」
礼司は即答した。
「そりゃ知るよ。でも、知った上で出たいって人まで、先に守るみたいに降ろすなって言ってる」
修司が困ったように息を吐く。
「どっちの言ってることも分かる」
「分かるで止めるな」
礼司が言う。
「修司、お前はどうしたいんだよ」
「俺は」
修司は一度、走ったばかりの女子を見る。
女子は友達に囲まれ、「無理しなくていいよ」と声をかけられていた。
泣いてはいない。責められてもいない。だから余計に答えづらい。
「無理させて崩れるのは嫌だ」
修司は絞るように言った。
「でも、最初から無理するなって空気になるのも、たぶん違う」
「だったら」
「だから、もう少し見るしかないだろ」
その返答に、礼司は舌打ちこそしなかったが、納得もしていない顔だった。
白世はそれ以上押さなかった。押さなくても、女子の側はもう半歩下がっている。
あの男はそこが上手い。結論を奪ったように見せないまま、結論へ寄せる。
短い休憩の間、ひかりが湊人のところへ来た。
「さっきの子、やっぱりほっとした顔じゃなかった」
「だろうな」
「苦しかったのは本当だと思う。でも、それだけじゃなかった」
「走れたかもしれない、も残っていた」
「うん」
ひかりは頷く。
「なのに、残していいのか分からなくなった顔だった」
礼司が近くのフェンスへ寄りかかる。
「黒崎、お前どう見た」
「白世は遅い者の居場所を作っているようで、速い者の役割まで薄くしている」
「速い者だけじゃない」
礼司は前を見たまま言った。
「補欠の方もだよ」
湊人は少しだけ目を細めた。
礼司は続ける。
「補欠って、走れないやつの席じゃない」
夕方の光の中で、その声だけが妙にまっすぐ通った。
「走りたいのに届かなかったやつの席だ。だから悔しいし、だから次を目指せる。そこまで『無理しなくていい』で丸くされたら、残る場所じゃなくて、降りる場所になる」
ひかりが息を止める。
修司も、その言葉は聞こえていたはずだった。だが何も返さない。
返せないのだろう。正しいからだ。少なくとも、簡単には流せない程度には。
白世は少し離れたところで、さっきの女子と話していた。
笑わせようとしているのか、女子も小さく笑っている。
それだけ見れば、救われた風景に見える。
だが湊人には分かる。あの笑いの下で消えかけているものが、ただの負担や不安だけではないことくらい。
最後の試走は、礼司の提案で速い者を前へ固める形になった。
「一回くらい、勝ちに行く並びも見る」
その言い方に、白世は反対しなかった。
露骨に止めれば、自分の意図も露骨になるからだろう。
笛が鳴る。
今度の走りは明らかに違った。
速い。声も出る。見ている側の体まで少し前へ出る。誰が前にいるのか、誰が追っているのか、それだけで空気が動く。
「これだよ」
礼司が走り終えたあと、肩で息をしながら笑った。
「こういうのでいいんだろ」
白世は少し遅れて頷く。
「盛り上がるのは分かるよ」
「分かるだけ?」
「でも」
白世は記録用紙を見た。
「この並びだと、さっきの子たちは最初から入れないって分かる」
礼司の表情から、笑いが消えた。
「入れないって分かることと、入ろうとした気持ちまで先に消されることは別だ」
「消してない」
「消えるようにしてる」
また空気が張る。
今度は修司より先に、ひかりが間へ入った。
「ねえ」
大きくはない声だったが、四人ともそちらを見た。
「たぶん今、出る側と出ない側で分けて話してるから、変なんだと思う」
ひかりは紙を胸の前で持ったまま続ける。
「走るのが得意な人にも不安はあるし、苦手な人にも出たい気持ちはあるよね。どっちかだけ守るみたいになると、たぶん変になる」
礼司が少しだけ目を細める。
「で、どうする」
「……まだ分かんない」
ひかりは正直に言った。
「でも、さっきの子が笑ってたの、全部よかったからじゃないと思う」
白世は何も言わない。
否定しない代わりに、肯定もしなかった。
解散の時間が来て、今日のところは持ち越しになった。
リレーの本決定は明日以降。応援の配置も、補助役も、もう少し見てから決める。
決まらなかった、と言えばそれまでだ。
だが湊人には、その決まらなさの向きが見えていた。
帰り支度のあと、教室へ戻る廊下で、修司がぽつりと言った。
「礼司の言ってること、正しいと思う」
「なら採れ」
湊人が言う。
「簡単に言うなよ」
修司は苦笑もせず返した。
「正しい方だけ採るなら、もう少し楽だ。でも白世の方で助かるやつがいるのも本当だろ」
「本当だ」
「だから厄介なんだよ」
「知っている」
修司は少し驚いたようにこちらを見た。
湊人は前を向いたまま続ける。
「白世はエースを憎んでいるわけではない。補欠を侮っているわけでもない。どちらも傷つけたくないだけだ」
「……うん」
「だからこそ、両方からいちばん熱い部分だけを先に薄くする」
修司はしばらく黙っていた。
やがて小さく言う。
「黒崎、お前最近、嫌なことを分かりやすく言うようになったな」
「貴様らが鈍いからだ」
「そういうとこは変わらないな」
教室の窓の向こう、まだ校庭では別のクラスが練習を続けていた。
うまく揃っていない。叫び声も混じる。教師に止められている班もある。
それでも、一年三組より熱がある。
ひかりが窓辺で立ち止まる。
「居場所って、先に作ってもらうだけじゃ足りないのかもね」
誰に向けたともなく、そんなことを言った。
礼司は鞄を肩にかけながら鼻を鳴らす。
「足りないだろ」
「でも、なかったら苦しい」
「苦しいよ」
礼司は即答した。
「でも、悔しい場所があるから前に行けるんだろ」
その言葉を、白世は少し離れた席で聞いていたはずだった。
けれど振り返らない。
振り返らなくても、あの男はきっと分かっている。ここで争っているのがリレーの走順だけではないことを。
黒崎湊人は、窓ガラスへ映る自分の顔を一瞬だけ見た。
白世は、速い者の価値を薄くする。
だがそれ以上に厄介なのは、届かなかった者が抱くはずの悔しさまで、居心地のいい言葉で先に包むことだ。
エースの誇りも、補欠の悔しさも、どちらも次へ向かう熱になる。
それを消せば、争いは減るだろう。崩れる者も減るだろう。
その代わり、前へ出る理由まで薄くなる。
夕方の光は、教室の床へ長く伸びていた。
明日もきっと、白世は善意の顔で場を整える。
礼司はそれに噛みつき、修司はまだ迷い、ひかりは違和感を拾い続ける。
そして自分は、そのどこで五秒を使うべきかを測ることになる。
黒崎湊人は静かに目を細めた。
補欠の居場所まで平均へ寄せられるなら、次に消えるのは悔しさだけでは済まない。
このクラスが、自分で前へ出ようとするための熱そのものだ。




