第2章 第6話 練習は誰のためにある
体育祭の全体練習が始まった朝、校庭にはまだ春の冷たさが少しだけ残っていた。
整列の列は長く、朝日を正面から受けた生徒たちは、やる気のある顔と眠そうな顔を混ぜたまま立っている。行事の本番前独特の、少し浮ついた空気だ。
だが一年三組だけは、その浮つき方が薄かった。
騒いでいない。荒れてもいない。むしろ整っている。
整っていること自体が、今日は妙に不気味だった。
「静かだね」
ひかりが小さく言った。
「悪いことではない」
湊人は前を見たまま返す。
「でも、良いこととも限らん」
白線の前には修司がいて、その少し横に白世が立っている。整列の位置がずれた者へ声をかけ、苦しそうな者がいれば木陰へ寄せる。教師より先に動いているのに、それを出しゃばりとは感じさせない。あの男の厄介さは、相変わらずそこにあった。
最初のメニューはクラス対抗リレーの走順確認だった。
本番で走るかどうかはまだ最終決定していないが、目安として一度並ばせる。そこで速い者、遅い者、走ること自体を嫌がっている者が、一列に並べられる。
「無理そうなら、早めに言っていいからね」
白世が穏やかに言う。
「途中で崩れる方が危ないし、ちゃんと替えられるうちに言った方が全体も回るから」
その言葉に、何人かがすぐ肩の力を抜いた。
「助かる」
「最初に言える方が気が楽」
「本番直前で無理って言うよりはいいよな」
修司も頷いている。教師まで「そうだな、申告は早めにな」と続けた。
まただ、と湊人は思う。
白世の言葉は、いつも先に逃げ道を整える。逃げ道があること自体は悪くない。だが、その逃げ道が広すぎると、前へ出る意志まで同じ幅で薄くなる。
礼司は列の後ろでそれを聞いていた。何も言わないまま、ただ視線だけが少し硬い。
実際に走らせてみると、差ははっきり出た。
礼司は速い。湊人も身体能力だけなら悪くない。修司は派手ではないが安定している。逆に、運動が苦手な者は最初のカーブで明らかに遅れる。
遅れたこと自体より、その直後の空気の動きが問題だった。
「やっぱ私、やめた方がいいかな」
女子の一人が息を切らしながら言う。
「迷惑かけそう」
そこへ白世がすぐ寄る。
「迷惑っていうより、無理して嫌いになる方がもったいないよ」
「でも……」
「今ならまだ組み直せるし、大丈夫」
その会話を聞いた別の女子まで、「私も正直、リレーはきついかも」と言い始める。
連鎖だ、と湊人は見た。
一人が助けられると、その救済は周囲へ広がる。広がること自体は優しい。だが優しい連鎖は、ときどき熱の方から先に消していく。
礼司がバトンを回しながら口を開いた。
「きつい人が言うのはいいよ。でも、まだ一回目だろ」
強くない声だった。責めてもいない。
「走順変えるにしても、もうちょい試してからでよくない?」
数人が顔を上げる。
しかし白世は、そこでも静かなままだった。
「試して、しんどい思いしてからじゃ遅い人もいるよ」
「それ、全部先に止めるの?」
「止めるっていうより、潰れないようにしてる」
またその言葉だ。
潰れない。嫌いにならない。無理しない。
正しい。だが、正しいまま熱を削る。
練習はその後も続いた。
大縄では、跳べない者に合わせて速度が落ちる。台風の目では、回転で酔いそうな者がいるからと、最初からゆっくり目で回す。綱引きでは「本気で引いて転ぶ方が危ない」と白世が一度声をかけ、途端に全体の力の入り方が鈍る。
事故は減る。失敗も減る。
その代わり、上手くいった時の歓声まで小さくなる。
「なあ」
休憩の合間、礼司がペットボトルを片手に湊人へ寄ってきた。
「今日、全部ちょっと薄くない?」
「正確だな」
「白世が悪いことしてるってわけじゃないの、分かるんだけど」
礼司は校庭の向こうを見た。
「勝ちたい側が先に声量落とす感じ、ある」
それは以前より、はっきりした言葉だった。
湊人は頷きもしない代わりに、否定もしなかった。
ひかりがその横へ来る。
「さっき大縄、成功したのに、みんな拍手ちょっと弱かった」
「うん」
礼司が即答する。
「成功しても、“よかった”で終わる。うれしい、じゃなくて」
ひかりはそこで少し驚いた顔をした。自分が感じた違和感を、礼司が先に同じ形で言ったからだろう。
修司だけが、まだ別の場所にいる。
彼は水筒の蓋を閉めながら、白世へ言っていた。
「でも今日のやり方、事故はかなり減ってるな」
「うん。最初に無理を減らした方が、最後まで残れる人は増えるから」
「たしかに、それはそうか」
修司のその一言が、湊人には重かった。
あの男は結果を見ている。助かった者が増え、崩れる者が減るなら、まずそこを評価する。間違いではない。むしろ正しい。
だからこそ、白世のやり方は修司を強く縛る。
午後の練習は応援合戦の動き確認だった。
そこでは白世の影響が、もっと露骨に出た。
本来、応援は少し無理をしてでも声を上げるものだ。恥ずかしさを越えて、誰かが先に出るから、後ろもついてくる。だが白世は始まる前に言った。
「声出し、きつい人は無理しなくていいから」
「合わせるだけでも十分だよ」
その瞬間、前へ出ようとしていた何人かの勢いが、目に見えて鈍った。
無理しなくていい。合わせるだけで十分。
救いの言葉としては正しい。だが応援という行為の核は、たいていそこではない。
礼司が前へ出る。
「いや、応援なんだから、ある程度は声出した方がよくない?」
教師の前で、あくまで軽く言う。
「恥ずかしいのは分かるけど、誰も出さないと何も始まんないし」
白世は礼司を見る。
「恥ずかしいって思ってる人を、最初から置いていく形でも?」
「置いていくっていうか」
礼司は一瞬だけ言葉を探した。
「最初はうまくできなくても、乗ってくれば楽しくなることもあるだろ」
「乗ってこられない人もいる」
その応酬を、湊人は見ていた。
白世の言葉は、可能性の下限に寄り添う。礼司の言葉は、可能性の上限を信じる。
どちらも嘘ではない。だが両立しない場面がある。
そして今、その両立しない場所が増えている。
応援の隊形を組む最中、列の端にいた男子が小さくよろめいた。
朝からずっと顔色が悪かった。立ちくらみだろう。すぐ隣には、応援旗の支柱を立てるための金属杭が置かれている。
距離は足りる。重い対象を動かす必要はない。
湊人はその瞬間、五秒を掴んだ。
変えるのは男子本人ではない。足元へ落ちていた紙コップ、その潰れ方だけを少し。
次の瞬間、男子の靴先は杭ではなく、へこんだ紙コップへ当たり、その一拍の違和感で体勢を横へ逃がした。白世と修司がすぐ駆け寄る。
「座った方がいい」
「保健室、行けるか」
事故は消えた。
だが湊人は、その成功を手放しでは受け取れなかった。
今、自分が切ったのは事故だけだ。白世の作る空気ではない。あの男の言葉で下がった熱は、そのまま校庭へ残っている。
練習終了後、湊人はあえて白世の近くへ行った。
「貴様は」
珍しく、先に声をかける。
「ずいぶん早く、練習の熱を落とす」
白世は驚いた顔をしなかった。
「落としてるつもりはないよ」
「なら何だ」
「無理して潰れる方を減らしてる」
また同じ答え。だが今日は、その先があった。
「頑張れる人は、放っておいても頑張れるから」
白世は静かに言う。
「でも頑張れない人は、先に空気を整えないと、そこに立つこと自体がしんどくなる」
湊人は目を細める。
その理屈は完成している。しかも善意だ。自分が正しいと信じるだけの材料が、もう十分に揃っている顔だった。
「頑張る側が、先に声を落とす」
「それで救われる人がいるなら、必要な調整だよ」
必要な調整。
その言葉が、妙に耳へ残る。
白世は支配しているつもりがない。空気を整えているだけだと思っている。だが、その“整える”の基準が、常に下限へ寄る。
だから高い方から先に削れる。
校舎へ戻る途中、湊人はひかりに呼び止められた。
「黒崎くん、今日わざと近づいたでしょ」
「少しな」
「何か分かった?」
湊人はすぐには答えない。
昇降口のガラスに、夕方の空が薄く映っていた。
「白世は、人を従わせてはいない」
「うん」
「だが、人の中に最初からある“無理したくない”を押している」
ひかりはその言葉を、すぐには飲み込めないようだった。
「えっと……逃げたい気持ち、みたいな?」
「それだけではない。恥をかきたくない。浮きたくない。失敗したくない。そういう下の方へ寄る感情だ」
「……だから、怒られてないのに、勝ちたい側が言いづらくなるんだ」
そこまで言ってから、ひかりは自分で驚いた顔をした。
「そういうこと?」
「おそらくな」
ルカが階段の手前に立っていた。聞いていたらしい。
「だいぶ見えてきたじゃん」
軽く手を振る。
「白世くんはね、命令してないから強いんだよ。みんなの中に元からある安全側を、ちょっと押してるだけ」
「知っていたなら、最初から言え」
「言葉にされる前の方が、本人には効くから」
相変わらず腹立たしい答えだった。
だが、今はそれどころではない。
礼司もそこへ合流した。
「じゃあ、あいつのせいで熱が消えるんじゃなくて」
「元からあった“消えたい側”が前に来る?」
ひかりが礼司の言葉を継いだ。
礼司は苦く笑う。
「それ、余計に厄介じゃん」
「だから厄介なんだ」
湊人は言う。
誰かを命令で押さえつけるなら、まだ切る場所は見つけやすい。だが白世のやり方は違う。人の中にある弱さや不安へ、善意の形で触れてくる。
それを一刀で消す一点は、まだ見えない。
だが今日、ようやく輪郭だけは掴んだ。
白世勇人の正しさは、事故を減らし、潰れる者を減らし、確かに人を救っている。
その代わりに、少し無理してでも前へ出ようとする側の熱を、本人たちの内側から先に細くする。
校庭の向こうでは、別のクラスが最後まで大きな声を上げていた。揃ってはいない。少し乱れている。教師に注意もされている。
それでも、そこには今の一年三組には薄くなり始めたものがあった。
勝ちたい。上手くやりたい。恥をかいても前へ出たい。
その種類の熱だ。
黒崎湊人は、靴紐を結び直しながら静かに息を吐く。
切るべき一点はまだ見えない。
だが少なくとも、敵の形だけはもう誤らない。
白世勇人は、善意の顔で人を平均へ寄せる。
そして次の盤面では、その平均がもっと当たり前のものとして根を張るだろう。
それを止めるなら、自分ひとりの五秒だけでは足りない。
礼司の熱も、ひかりの観測も、修司の責任も、いずれ必要になる。
そんな結論を出している自分へ、湊人は少しだけ不快を覚えた。
支配者が他人の手を前提に盤面を読むなど、本来なら甘い。
だがこの学校へ来てから、甘さと呼んで切り捨てられないものが、少しずつ増えている。
夕方の風は、朝よりやわらかかった。
その中で黒崎湊人は、初めてはっきりと思う。
この練習は、ただ体育祭のためにあるのではない。
誰のために熱を残し、誰のために熱を消すのか。
その境目を試す盤面になり始めている。




