第2章 第5話 みんなで持てば楽になる
翌々日、体育祭の役割分担表が黒板へ貼り出された時、一年三組の空気は、前回より静かで、前回より厄介だった。
表面だけ見れば落ち着いている。リレーの枠で露骨な言い合いになった反省があるのか、誰も最初から強くは出ない。だが、強く出ないということは、誰も先に重いものを持ちたがらないということでもある。
大道具、放送、招集、得点板、応援旗、用具係。
目立つ仕事もあれば、ただ忙しいだけの仕事もある。人間はだいたい、その差に敏感だ。
「うまくばらけるといいんだけどな」
修司が前の席で名簿を見ながら言った。
「体育祭って、やること自体は多いのに、誰が何を持ってるか分からなくなると一気に崩れるし」
「最初から崩れている」
湊人が言うと、ひかりが振り返った。
「まだ始まってないよ」
「始まる前から、楽な方へ目線が寄っている」
「それはちょっとある」
ひかりは否定しきらず、黒板の役割表へ視線を戻した。
実際、教室のあちこちで飛んでいるのは、やりたい仕事の話ではなく、避けたい仕事の話だった。
「得点板、ずっと立ってなきゃだよね」
「用具係って地味に走らされるやつだろ」
「応援旗は目立つし嫌かも」
誰も間違っていない。好き嫌いも得意不得意もある。だからこそ、まとめ役が曖昧な善意だけで回そうとすると、最後に押しつけられる者が出る。
その盤面で、白世勇人は前へ出た。
「じゃあ、最初に“絶対無理”なものだけ外そうか」
静かな声だった。教室はすぐ、そちらへ耳を向ける。
「苦手なのに入ると、その人もしんどいし、周りも結局フォローが増える。だったら、先に避けた方が全体も楽だよね」
何人かがすぐ頷いた。
「それはそう」
「無理なのやらされるの、一番きついし」
「最初から言えるなら、その方が助かる」
助かる。楽になる。
またその言葉だ、と湊人は思う。
白世の言葉は、いつも少し先の疲弊を潰す。だから今この場で反論しにくい。しかも反論した者の方が、他人のしんどさに鈍いような顔になる。
「じゃあ、絶対無理な人から外していこう」
修司も前へ立ち、名簿へ印をつけ始めた。
反対する理由がないからだろう。実際、黙って押しつけられるよりは、この方がずっとましだ。
だが、礼司だけは椅子にもたれたまま腕を組んでいた。
「それで最後に残ったやつ、誰がやるの」
軽い口調だった。問い方も乱暴ではない。なのに、その一言で教室はわずかに止まる。
白世はすぐ答えた。
「残ったものは、みんなで少しずつ持てばいいでしょ」
「少しずつ?」
「一人に重いのが集中するのがよくないなら、分散した方が楽だよ」
正しい。たしかに正しい。修司まで「その方がいいかもな」と頷いた。
湊人は眉を寄せる。
一人が抱え込むのが悪い、という理屈は分かる。だが、仕事というのは分ければ軽くなるものばかりではない。責任の輪郭が薄くなると、結局は最後に誰かが拾う。しかも今の白世の言い方は、その最後の誰かを見えにくくする。
役割分担は、そのまま進んだ。
大道具は三人。用具係は四人。得点板は交代制。応援旗も、描く者と持つ者を分けて「なるべく負担が偏らないように」整えられていく。
教室の空気は穏やかだった。
穏やかで、引っかかる。
たとえば本来なら、得点板のような仕事は数字に強くて几帳面な者が持った方がいい。用具係なら足の速さと持久力がある者。応援旗なら人前へ出るのをそこまで苦にしない者。
だが今は、適性よりも「誰がどれだけ嫌がるか」が基準へ入り込んでいる。
その結果、誰も強く文句を言わない代わりに、誰も強く前へも出ない。
「黒崎くん、何か言わないの」
ひかりが小声で聞いた。
「言ったところで、今の盤面では“負担を偏らせたい側”に見える」
「それは、まあ……ちょっと分かる」
ひかりが困ったように笑う。
彼女も白世の正しさが効いているのを理解している。理解しているからこそ、違和感をうまく切り分けられない。
問題が形になったのは、放課後の準備だった。
役割表だけはきれいに埋まったのに、実際に動き始めると、誰が最終判断をするのかが曖昧になる。応援旗の布をどのサイズで切るか、大道具の段ボールをどこまで使うか、用具の借用書を誰が出しに行くか。細かい判断がいくつも発生し、そのたびに「みんなで持つ」は少しずつ散っていった。
「これ、誰が決める?」
「え、そっちじゃない?」
「いや、こっちは持つだけって聞いてたけど」
声が荒くなる手前で止まっている。だから余計にたちが悪い。
修司がすぐ間へ入る。
「ちょっと待って。一回整理しよう」
その横へ白世も立った。
「今のは、誰かが悪いっていうより、分け方が細かすぎたんじゃないかな」
責めない。責めないまま、また空気を丸くする。
「応援旗は、描く側と持つ側で責任を分けた方がいいかも。用具係も、借用書は修司くんが見て、運ぶ方は別にするとか」
「それなら助かる」
「分かれてた方が気が楽」
その言葉でまた場が収まる。
収まるが、礼司は笑わなかった。
「気が楽なのは分かるけど」
窓際で布を押さえながら、礼司が言う。
「それって結局、最後に判断するやつが要るんじゃない?」
応援旗へ絵の具を乗せていた女子が手を止める。
修司が一瞬だけ黙った。要る。実際に今も、要る。だが、その役目を誰に置くかで、また教室は重くなる。
白世はゆっくり視線を上げた。
「必要なら、その場で一番分かる人が決めればいいと思う」
「その場で分かる人が、毎回同じ人になるから偏るんじゃん」
礼司の声はまだ柔らかい。けれど、今日は引かない。
「一人が抱えるのが悪いなら、判断も共有した方がいい。でも共有しすぎると、結局どこかで責任が消える。今、ちょうどその感じしてる」
湊人は内心で舌を巻く。
礼司はやはり場を見ている。しかも、白世の言葉がどこで便利に響き、どこで輪郭を削るかまで、直感で掴んでいる。
その時、脚立の上で布を留めようとしていた男子の足元が滑った。
体育館倉庫から借りてきた金具箱が、すぐ下にある。落ちれば派手な音がするだけでは済まない。近くにはしゃがんで段ボールへ文字を書いていた一年の女子もいた。
湊人は考えるより先に息を止めた。
五秒前。
変えるのは脚立ではない。脚立の脇へ無造作に立てかけられたモップ、その柄の傾きだけを少し。
世界が、埃の粒ほどにきしむ。
次の瞬間、男子の体は真下ではなく横へ流れ、肩がモップへぶつかった勢いで姿勢を立て直した。金具箱は揺れただけで倒れず、しゃがんでいた女子も何が起きたのか分からないまま顔を上げる。
「危なっ……」
修司が駆け寄る。
「怪我ない?」
「だ、大丈夫」
男子の返事を聞いて、白世はすぐ「今日はここで区切ろうか」と言った。
「疲れてる時に詰めても危ないし、楽しくなくなるから」
また、その言葉だった。
楽しくなくなる。しんどくなる。だから少し止めよう。
助かる者がいるのは本当だ。だが今の一件で切れたのは、事故の連鎖だけではない。礼司が口にしかけていた責任の話まで、そこで薄まった。
帰り支度の空気の中で、ひかりがぽつりと呟く。
「助かったのに、なんか変」
「正確だな」
「うれしい時の“助かった”じゃないんだよね」
その言い方は、湊人の感覚と近かった。
助かる。楽になる。丸く収まる。
だが、そのたびに教室から少しずつ何かが抜けていく。怒りや摩擦だけではない。任せる重さや、引き受ける覚悟や、やるからには形にしたいという熱まで、一緒に薄くなる。
帰る直前、礼司は名簿を持った修司を呼び止めた。
「修司、今日の分け方で本当に回ると思う?」
「回すしかないだろ」
修司は即答したが、その声には少し疲れがあった。
「一人が抱え込むよりは、今の方がましだよ」
「まし、で決めるのな」
「少なくとも、誰かが何も言えないまま全部持つよりは」
礼司はそこで言い返さず、ただ小さく息を吐いた。
「それはそう。けどさ」
視線だけが役割表へ向く。
「誰が最後に持つか、見えないままになるのは、たぶん別のしんどさだろ」
修司は一瞬だけ黙った。
否定しない。否定できない。できないまま、それでも白世の理屈からは離れない。
「……だから途中で見直す。見えなくなったら、その時はちゃんと決める」
修司はそう言って、紙を抱え直した。
責任を消したいのではない。消えそうな責任を、自分があとで拾えると思っている。そこがいかにも修司らしくて、湊人は余計に眉を寄せた。
昇降口へ向かう途中、修司が白世へ言っているのが聞こえた。
「でも、今日みたいに分けてからやる方が、たしかに抱え込みは減るな」
「うん。最初に軽くしておけば、途中で潰れる人も減ると思う」
修司は納得している。納得しているから、なおさら厄介だ。
あの男は、自分が最後に持てば済む問題なら耐える。だが、自分以外が黙って重さを抱える構図には敏感だ。だから白世の“みんなで持つ”は、修司にとってあまりにも否定しづらい。
そこへ、ルカが廊下の角から現れた。
相変わらず、最初からこの学校にいたような顔で立っている。
「今日は静かに削れたね」
挨拶みたいな声で言う。
「何がだ」
「責任の輪郭」
ルカは笑った。
「一人で持たない方が優しい、って理屈は強いよ。だって誰も悪く見えないもん」
「貴様は前から知っていたようだな」
「だいたいは」
ルカはそれ以上説明しない。しないまま、ひかりの方を見る。
「小宮さん、今日ちょっと分かったでしょ」
ひかりは少しだけ考えてから頷いた。
「楽になったはずなのに、うまくいってる感じが薄い」
「そう。それ」
ルカは軽く指を鳴らした。
「楽になるのと、ちゃんと残るのは別」
その一言が、湊人の中へ静かに落ちる。
白世は重さを減らす。減らすこと自体は間違っていない。だが、重さを減らす過程で、誰が持つかという輪郭まで一緒に薄くする。
結果だけ見れば平和だ。
しかし、その平和は、責任を引き受ける者の顔を見えなくする。
昇降口の外は、すでに夕方の色へ傾いていた。
グラウンドでは他クラスの声が上がっている。勝ちたい者も、まだ面倒だと思っている者も、同じ校庭に立っている。混ざりきらないまま、それでも進んでいくのが本来の行事だ。
なのに一年三組だけが、妙にきれいに丸く収まり始めている。
きれいで、薄い。
礼司はもうそこに気づいている。ひかりも、ようやく言葉の手前まで来た。修司だけが、まだ白世の正しさへ心を残している。
そして湊人は知る。
白世勇人の善意は、争いを減らすだけではない。
次はたぶん、頑張ろうとする意志そのものへ触れる。
その時、切るべき一点を見誤れば、教室はもっと穏やかに、もっと平たくなるだろう。
黒崎湊人は下駄箱の扉を閉めながら、まだ答えを出さない。
だが少なくとも、今日ひとつだけはっきりした。
白世の「みんなで持てば楽になる」は、優しさの顔をしたまま、責任の形を削る。
それを見て見ぬふりは、もうできそうになかった。




