第2章 第4話 勝ちたい人間は面倒か
翌週、体育祭の競技案が黒板へ貼り出された朝、一年三組の空気は、試験返却の日より分かりやすく割れていた。
やる前から張り切っている者と、まだ何も始まっていないのに「もう面倒」と言う者。勝ちたい者と、目立ちたくない者。行事とは、平時には見えにくい人間の輪郭を、まとめて表へ引きずり出す。
黒崎湊人は席に着いたまま、その全体を見渡していた。
「浅いな」
前の席から、ひかりが振り返る。
「まだ何も始まってないのに?」
「始まる前から態度が二極化している時点で浅い。盤面の読みが粗い」
「体育祭に盤面って言い方する人、やっぱり黒崎くんだけだよ」
ひかりは笑ったが、その視線は黒板の種目一覧へ戻った。クラス対抗リレー、大縄、台風の目、綱引き。定番ばかりだ。定番だからこそ、熱量の差がそのまま空気へ出る。
廊下側では修司がすでに配布プリントを揃えていた。実行委員になってから、仕事がひとつ増えているのに、それを当然の顔でこなしている。しかも今日は白世まで横にいた。
「とりあえず、今日のホームルームで出たい種目の希望取るって」
修司が言う。
「得意不得意あるだろうし、無理なく決めたい」
その横で白世勇人が、静かな声で続けた。
「苦手なものへ無理に出ると、それだけで嫌になる人もいるしね」
正しい、と多くの人間は思うだろう。実際、教室の何人かがすぐ頷いた。
「たしかに」
「走るの苦手だし助かる」
「最初からそうしてくれた方が楽」
楽。助かる。白世の言葉が効く時、たいてい最初に出てくるのはその種類の反応だった。
その一方で、窓際で椅子へ浅く腰かけていた九条礼司は、珍しくすぐには笑わなかった。
「無理なく、は分かるけど」
礼司が口を開く。
「やるなら、ある程度は勝ちに行く前提で決めた方がよくない?」
声は柔らかい。だが、言っていることは白世の言葉と別の方向を向いていた。
「最初から“苦手だから避けよう”で決めると、たぶん最後までその空気で行くでしょ」
教室の何人かが、微妙な顔になる。言い方はきつくない。けれど、勝ちたい側の理屈だ。
修司が間へ入ろうとする。
「いや、礼司の言うことも分かるけど、出たくない種目に無理やり入れて空気悪くなるのも違うだろ」
「うん。だから無理やりじゃなくて、うまく乗せたいんだけど」
礼司はそう言ってから、白世の方を見た。
「白世は、最初から下げるんだな」
言葉だけなら軽い確認だ。だが、ひかりが思わずシャープペンを止めたくらいには、そこに棘があった。
白世は笑わない。怒りもしない。ただ、少し考える間を置いてから答えた。
「下げるっていうより、潰れない方を先に見てるだけだよ」
「勝ちたい人が少し無理するのも?」
「その“少し”で嫌になる人がいるなら、そっちも見た方がいいよね」
静かな応酬だった。教室は騒いでいない。なのに、空気の芯だけがずれるのを湊人は見た。
気に入らない、と彼は思う。
白世の言葉は、今日も正しい。だが、その正しさは、まだ形になっていない熱を先回りして丸める。やる前の高揚も、勝ちたいという欲も、誰かを置いていくかもしれないものとして先に削る。
担任が入ってきて、議論は一旦止まった。
「よし、今日は種目の希望取るぞ。実行委員、前で仕切ってくれ」
修司と白世が前へ立つ。自然な流れだった。前に出ることへ反発する者がいない。反発がないこと自体が、もう白世の強さだった。
希望調査は最初、穏やかに進んだ。
走りたい者はリレーへ、体力に自信のある者は綱引きへ、なるべく目立ちたくない者は人数調整の種目へ。白世は一人ひとりの顔を見ながら、「それで大丈夫?」「無理なら変えていいよ」と確認する。言われた側は責められていないのに、なぜか断りにくくもなる。
ひかりが小さく呟いた。
「助かる人は多そうなんだけどね」
「だから厄介なんだ」
「うん」
今日は、すぐ否定しなかった。
問題は、後半だった。
クラス対抗リレーの枠が最後まで埋まらない。足の速い者ほど、空気を読んで手を挙げるタイミングを失っていた。出たいと言えば、出たくない者を追い詰める形になる。逆に遠慮すれば、勝ちたい空気そのものが立たない。
礼司が椅子から立ち上がる。
「俺、出るよ」
その一言で、何人かが顔を上げた。
明るい声だった。誰かを責める響きはない。だが、そこで止まらない。
「あと、どうせやるなら一回くらい本気で勝ちたくない?」
それは白世の言い方と似て、押しつけがましくなかった。なのに、向いている先だけは真逆だった。
教室の空気が少し動く。
「まあ、リレーくらいは」
「たしかに、負け前提は嫌かも」
今度は、白世が口を挟む。
「勝ちたいのはいいと思う。でも、勝ちたい側の熱に、合わせられない人まで巻き込まなくていいでしょ」
それでまた、空気が止まる。
礼司は数秒だけ白世を見たあと、笑った。
「巻き込むってほどでもないよ。ちゃんと走れなくても、出るだけで楽しくなることもあるし」
「楽しくならない人もいる」
「じゃあ最初から“楽しくならないかもしれない人”を基準に決める?」
修司が「二人とも、ちょっと」と止めに入る。
険悪ではない。むしろ静かすぎるくらいだった。だが湊人には分かる。これは喧嘩ではなく、盤面の取り合いだ。
その瞬間、教室後方で机が大きく鳴った。
種目表を覗き込もうとした男子が、足元の鞄へ引っかかり、後ろの長机にぶつかったのだ。端へ置かれていたバトンケースが滑る。その先には、しゃがんでプリントを拾っていた女子の頭がある。
距離はある。だが十分だ。
湊人は呼吸を止めた。
五秒前。
変えるのは、バトンケースではない。隣に置かれた雑誌の角、その浮き方だけを少し。
世界が、紙一枚ぶんだけ軋む。
次の瞬間、滑ったはずのケースは雑誌へ引っかかり、机の端で向きを変えた。床へ落ちたのは中身の紙テープだけで、バトンは転がらない。
「うわ、危な……」
修司がすぐ後ろを振り向き、女子が顔を上げる。その一拍で、礼司と白世の応酬は途切れた。
「怪我ない?」
白世が真っ先にそう声をかける。
「大丈夫です」
女子が答えると、白世は男子の方へも視線を向けた。
「焦ると危ないから、今日はここまで詰めなくてもいいんじゃない?」
その言い方で、さっきまでの熱がまた一段下がる。
助かった。危なかった。今日はここまででいい。誰も間違っていない。だが、礼司の表情だけは少し硬かった。
ホームルームの終わり、リレーの残り枠は結局、その場で完全には決まらなかった。
保留にして後日もう一度、という無難な結論だ。担任は「まあ揉めるよりはな」と頷き、修司も疲れた顔でプリントをまとめる。
穏当。安全。正しい。
その全部が揃っているのに、教室には妙な物足りなさが残っていた。
昼休み、ひかりは弁当箱の蓋を開けながら言った。
「白世くんの言うこと、間違ってないんだけどね」
「今日だけで三度目だな、その評価」
「だって本当だし」
ひかりは小さく息をつく。
「でも、礼司くんが言いたかったことも分かる。まだ何も始まってないのに、“苦手な人が嫌にならない形”が基準になっちゃうと、勝ちたい人の声って出しにくい」
珍しく、ひかりの言葉がすぐ形になっていた。
湊人は頷かない。ただ、否定もしない。
その少しあと、廊下で修司が白世と話している声が、開けた窓越しに聞こえてきた。
「でも今日の決め方、たしかに助かったよ」
修司の声だった。
「礼司の言うことも分かるけど、勝ちたい側の熱で押し切る形になると、たぶん何人か黙る」
「うん。だから先に黙る方を減らしたい」
白世はいつもの静かな調子で答える。
「行事って、得意な人は多少無理しても前へ出られるけど、そうじゃない人は一回しんどい思いすると、その先ずっと嫌になるから」
「それはそうなんだよな」
修司はすぐには否定しなかった。むしろ納得していた。
湊人は廊下の角で立ち止まる。
修司が白世の側へ心を残している理由は、単純だった。あの男は人が沈むのを嫌う。誰かが黙って引く形で物事が決まるのを、自分の失点みたいに受け取る。
だから白世の“先に潰れない方を見る”は、修司にとって否定しづらい。
そこへ、ひかりが追いついてきた。
「聞こえた?」
「十分に」
「修司くんらしいよね」
「あの男は、誰かが損を飲んだまま決まる盤面を嫌う」
「たぶん、白世くんもそこを分かってる」
ひかりの言葉に、湊人は返さない。
分かっていて寄せているのなら、なおさら質が悪い。相手の善意が向く先へ、自分の正しさを重ねるのは強い。強いが、やはり気に入らない。
窓際では礼司が一人でリレーの出場表を見ていた。普段なら誰かと話しながらやるようなことを、今日は珍しく黙っている。
放課後、湊人が昇降口へ向かうと、その礼司が階段の踊り場にもたれていた。
「待ち伏せか」
「人聞き悪いな」
礼司は笑った。だが、その笑いはいつもより薄い。
「今日の、見てたろ」
「何をだ」
「白世のやり方」
そこまで言われれば、惚ける意味はない。
「見ていた」
「どう思う」
試すような聞き方ではなかった。確認に近い。
湊人は数秒考えてから言う。
「潰れない方を先に見る。統治としては悪くない」
「でも、好きじゃない」
「熱まで先に消す」
礼司はそこで、ようやく少しだけ笑った。
「だよな」
短い同意だった。だが、その軽さの裏にあるものは軽くない。
「俺さ」
礼司は窓の外を見たまま続けた。
「勝ちたい人間って、そんなに面倒かって思った」
その一言が、湊人の胸へ静かに落ちた。
面倒。自己中心的。空気を悪くする側。白世はそこまで言っていない。言っていないのに、あの男の“潰れない方を先に見る”は、ともすれば勝ちたい側を、最初から少しだけ危険物扱いする。
「面倒ではない」
湊人は答える。
「扱い方を間違えなければ、盤面を動かす駒だ」
「そこはやっぱり黒崎らしいな」
礼司は苦笑したが、すぐ真顔に戻った。
「でも今日のは、たぶんそこじゃない。勝ちたいって言うこと自体が、ちょっと言いづらくなった」
それは、湊人が言語化しかけていた違和感と同じだった。
白世は誰も黙らせていない。怒鳴ってもいない。否定の言葉すらほとんど使わない。
なのに、熱の高い者ほど、先に声量を落とす。
その仕組みを、礼司は直感で掴んでいた。
「ほどほどで終わるのが、一番つまらない」
礼司はそう言って、階段を下りていく。
ひどく当たり前の言葉だった。正論ですらない。ただの感情だ。
だが白世の正しさへ対抗するものがあるとすれば、たぶん最初に必要なのは、その種類の言葉だった。
校舎の窓へ夕方の光が細く差している。
教室では今日も誰も大きく傷つかなかった。怪我もなく、露骨な対立も起きず、リレーの枠は保留という安全な場所へ収まった。
それなのに黒崎湊人は知っている。
白世勇人の正しさは、もう不安を静めるだけでは終わらない。
次は意欲そのものに触れ始める。
勝ちたい。前へ出たい。少し無理をしてでも取りに行きたい。
そういう熱が、誰かを置いていく可能性を理由に、先に丸められる。
次の盤面は、もっと分かりやすく割れるだろう。
礼司はもう気づいている。ひかりも薄く分かり始めている。修司だけが、まだ“正しい方”へ心を残している。
ならば、見極めるしかない。
あの男の善意が、どこまで削り、どこまで救うのか。
黒崎湊人は、まだ切るべき一点を見つけきれないまま、それでも前よりはっきりと白世の輪郭を見始めていた。




