第2章 第3話 正しいのに、息苦しい
中間試験の返却が始まった朝、一年三組の空気は、先週までとは別の意味で張っていた。
試験前のざわつきとは違う。あれは「まだ間に合うかもしれない」という焦りだった。今日のそれは、もう数字として返ってくるものを待つ緊張だ。逃げ場がないぶん、余計に空気が重い。
黒崎湊人は席に着いたまま、その教室を見渡していた。
前方では答案の返却順を気にして落ち着かない者がいて、後方では「赤点だけはやめて」「いや、もう数学で死んだ」と乾いた声が飛ぶ。前の席の小宮ひかりも、珍しく何度もシャープペンを持ち直していた。
「騒がしいな」
湊人が言うと、ひかりは振り返る。
「答案返ってくる日の高校生に、静かさを求めないでよ」
「結果が出る前から乱れる時点で統治が甘い」
「黒崎くん、その言い方だと毎日ぜんぶ統治の話になるよね」
「当然だ。人が三人以上集まるなら、そこはすでに盤面だ」
ひかりは少しだけ笑ったが、その笑いも固かった。昨夜遅くまで勉強していたのだろう。目元にうっすら眠気が残っている。
廊下側では、神谷修司が試験範囲の最後の確認をしていた。「ここ、漢文の句形どうだっけ」「返却日なのに今さら?」と周りに言われながら、それでも付き合っている。いつも通りだ。だが、そのいつも通りへ乗り切れない者が今日は多い。
その空気を、転校二週目に入った白世勇人は、教室へ入って一度眺めただけで掴んだらしかった。
「今日って、たぶん答案より先に、自分で自分を怖がってる人が多いよね」
白世は鞄を置きながら言った。
強い声ではない。けれど、近くの数人が自然にそちらを見る。
「返ってくるまで不安なのは普通だけど、返ってきてない段階で疲れるの、少し損じゃない?」
それだけだった。
それだけなのに、教室のざわめきが一度、呼吸をし直したみたいにゆるむ。
息を吐く者がいる。苦笑する者がいる。ひかりまで「たしかに」と小さく漏らした。
気に入らない、と湊人は思う。
言っていることは正しい。誰も傷つけてもいない。だが、あの男の言葉は正しすぎる。尖った感情だけでなく、その直前にあった熱まで一緒に撫でてしまう。
担任が入ってくると、教室はようやく前を向いた。
「じゃあ今日は、英語と古文から返すぞ。騒ぐなよ」
騒ぐな、で騒がなくなる集団なら教師は苦労しない。
だが今日は、少なくとも最初の一枚が配られるまでの間だけは、皆が妙におとなしかった。
返却が始まる。
前から順に答案が置かれていき、机の上に赤や青の数字が増えていく。
「うわ」
「待って、思ったより……」
「よかった、助かった……」
小さな悲鳴と安堵が交互に上がる。その中で、湊人はすぐ一つの偏りに気づいた。
点が悪かった者は、たしかに白世の言葉に救われている。崩れ方が浅い。泣きそうになる者も、机へ突っ伏す者もいない。だがその代わり、点が良かった者まで、妙に声を抑えていた。
九条礼司が返された英語の答案を見て、ほんの一瞬だけ眉を上げた。かなり高い点数だ。ふつうなら、もっと分かりやすく機嫌が良くなる男である。なのに今日は答案を二つ折りにし、机へ置くだけで終えた。
前方の女子も九十点台らしい数字を見たのに、「やった」と言いかけてやめた。
喜ぶのが悪いわけではない。だが、今ここで目立つ喜び方をすると、点の悪かった者を踏むように見える。そんな空気が、すでに教室へ薄く張っている。
誰も言っていない。命じてもいない。
それでも、そうした方が“正しい”感じだけはある。
白世勇人の言葉は、そういう形で場へ残る。
古文の答案が配られた時、ひかりの手元で紙が一枚ずれた。
その拍子に、隣席の男子の答案がひっくり返り、表へ大きく点数が出そうになる。数字は悪い。近くの二人が視線だけ先に向ける。こういう時、人間は本人の顔より先に点数を見る。
見える。届く。軽い。
湊人は五秒を掴んだ。
変えるのは答案ではない。その下に敷かれている連絡プリントの角度だけ。
きしみ。
次の瞬間、答案は机の縁で半回転するはずが途中で止まり、表ではなく裏のまま膝へ落ちた。
「危な」
ひかりがとっさに拾い、何も言わず本人へ返す。
「ありがと……」
男子は小さく息を吐いた。隣の視線も、その一瞬で切れている。
大したことではない。だが、点数が見えたか見えないかだけで、その後の昼休みの空気はまるで変わる。
「また、黒崎くん?」
ひかりが答案を拾う動作のまま、ほとんど唇だけで言った。
「何の話だ」
「そういう返しする時は、だいたい何かある」
「雑な観測だな」
「でも、助かったよ」
その言い方は、前みたいに軽くなかった。
事故を消したとか、転倒を止めたとか、そういう劇的な場面ではない。たった一枚の答案が裏のまま落ちただけだ。けれど、ひかりはそこに、誰かが救われた感触を見ている。
気に入らないことに、その見方は間違っていなかった。
返却が一巡したところで、案の定、教室の温度に小さな段差が生まれた。
「今回、全体的に難しくなかった?」
「いや、英語はいつもより楽だっただろ」
「それ上の人の感想でしょ」
悪意のない言葉が、少しずつ棘を持ち始める。
点が良かった者は何を言っても角が立ち、悪かった者は慰められるほど自分で傷を確かめる。こういう時の空気は脆い。
修司が前から振り向いた。
「まあ、まだ一日目だし。残りも返るんだから、今ここで全部決まったみたいに言うなよ」
いつもの修司らしい、まっとうなまとめ方だった。
だが今日は、それだけでは十分に効かなかった。
教室の奥で、誰かが小さく「でも、もうきついって」と漏らす。
その声へ、白世がすぐには言葉を重ねなかったのが、かえって厄介だった。
一拍置いてから、白世は静かに口を開く。
「悪かった人にとって、今日ってたぶん“ここからどうするか”より先に、“もう終わったかもしれない”って感じる日なんだよね」
何人かが目を上げる。
「でも、一回悪かっただけで全部が決まるなら、みんなここまで緊張しないと思う。取り返せるから怖いんでしょ」
優しい言葉だった。
慰めるだけではない。希望の形にして返している。
実際、その言葉で肩の力を抜いた者がいる。机へ突っ伏しかけていた女子も、わずかに顔を上げた。
そして白世は、そこで終わらない。
「だから今日は、良かった人も悪かった人も、他人の答案を材料にしない方がいいと思う」
教室が静まる。
正しい。あまりにも正しい。
からかうのは論外だ。無神経な自慢も品がない。点で人を見るのも浅い。そう言われれば、誰だって反論しにくい。
反論しにくいまま、場の全員が少しずつ、自分の声量を下げる。
礼司が答案を指先で弾いた。
「……それ、たぶん正しいんだけどさ」
珍しく、言葉の出方が鈍い。
「正しいけど、喜んだ方がいい時まで小さくなるのは、ちょっと変じゃない?」
ひかりが顔を上げる。修司も振り向いた。
礼司は肩をすくめる。
「いや、煽れって意味じゃなくて。頑張って取った点なら、普通に嬉しくていいだろ」
「それはそうだけど」修司が言う。「今は悪かったやつもいるし」
「だから声量考えろ、なら分かる。でも最初から“嬉しい側も小さくなった方が正しい”みたいになると、なんか違わない?」
その感覚は、湊人にも理解できた。
礼司の言い方は軽いが、見ている場所はずれていない。白世の正しさは、悪意を減らす代わりに、喜びまで痩せさせる。
白世はすぐ反発しなかった。
「九条くんの言うことも分かるよ」
その上で、少しだけ目を伏せる。
「ただ、今の一組の中で、目立って嬉しそうにするのが苦しい人もいると思う」
柔らかい。逃げ道まで用意してある。
礼司はそこで黙るしかなかった。間違っていると切り返すには、白世の言葉は相手への配慮を含みすぎている。
昼休み、ひかりが机に頬杖をついたまま言った。
「助かった人は、いるんだよね」
「当然だ」
湊人は窓の外を見たまま答える。
「今日みたいな日は、崩れる者を減らすだけでも価値がある」
「でも」
ひかりは少し迷ってから続けた。
「なんか、みんな静かすぎる」
その一言が、一番正確だった。
騒がしくない。荒れてもいない。むしろ落ち着いている。なのに、教室の空気は軽くない。
良かった人まで、悪かった人に合わせて小さくなっているからだ。
修司がそこへ戻ってきて、購買のパンを机へ置いた。
「お前ら、また難しい顔してるな」
「神谷くんは、白世くんの言ってたこと、どう思う?」
ひかりに訊かれ、修司は少し考えた。
「俺は……ありがたいと思ったよ。今日、ほんとに危ないやつ何人かいたし」
それは本音だった。
この男は、人が潰れる気配に敏い。だからこそ、白世の言葉が実際に何人かを救ったことも見えている。
「点が良かった側が少し我慢するくらいで済むなら、その方がましな時もあるだろ」
修司の返答に、礼司が向こうの席から口を挟んだ。
「“少し”で済めばな」
「九条」
「いや、別に反対してるわけじゃない。でもさ」
礼司は自分の答案をぴらりと振った。
「頑張って取ったやつが、喜ぶのまで気を遣ってたら、そのうち頑張る理由まで薄くならない?」
修司は即答しなかった。
そこで迷う時点で、礼司の言葉も刺さっているのだ。
湊人は、そのやり取りを黙って聞いていた。
修司は人が落ちるのを嫌う。礼司は人の熱が死ぬのを嫌う。ひかりは両方を見て、まだどちらにも振り切れない。
そして白世は、その全部を分かった上で、まず崩れない方向へ場を寄せている。
面倒だ、と湊人は思う。
悪意で盤面を握る相手なら、切る場所は明確だ。だが白世のやり方は、救われた者の顔が先に出る。だから乱暴に否定できない。
五時間目の後、担任が教室へ戻るなり言った。
「あと、来月の体育祭な。そろそろ実行委員決めるぞ」
空気が少しだけ変わった。
答案返却の話題から、一段先へ進む話だ。救われるとか落ちるとかではなく、何をやるか、誰が前へ出るかの話になる。
「誰かやりたい奴いるか?」
すぐには手が上がらない。
点数の話で縮んだばかりの教室では、前へ出る理由もまだ薄い。
その沈黙の中で、白世が手を挙げた。
「必要なら、やります」
自然すぎて、何人かがすぐ頷いた。
「白世くん、向いてそう」
「分かる」
「落ち着いてるし」
修司も、ほっとした顔をした。揉めない決まり方だと思ったのだろう。
礼司はその様子を見て、わずかに目を細める。
気づいている。ここから先、試験の点だけではなく、行事の空気まで白世が整え始めることに。
担任が「じゃあもう一人はどうする」と言った時、修司が立った。
「俺、やります」
順当な流れだった。
学級委員で、責任感があって、実務も回せる。誰も反対しない。
だが、湊人には見えた。これはただの順当ではない。修司は自分の役目として前へ出たが、白世の隣なら場が安定すると思っている顔をしていた。
白世の正しさは、もう個人の慰めでは終わっていない。次の盤面の中心へ、自然に入ろうとしている。
帰り際、礼司が廊下で湊人に言った。
「なあ、黒崎」
「何だ」
「正しいのに、息苦しいって、たまにあるよな」
珍しく笑っていなかった。
「今日は、それだった」
それだけ言って、礼司は先に歩いていく。
ひかりは教室の扉のところで立ち止まり、小さく呟いた。
「楽になった人がいるのは本当なんだけどね」
「だから厄介なんだ」
「うん」
今日は、ひかりも否定しなかった。
校舎の窓へ夕方の色が差している。
答案返却の日は終わった。誰も大きく崩れなかった。誰も露骨に傷つけられなかった。表面だけ見れば、穏やかで、正しくて、よく整った一日だった。
それなのに、黒崎湊人は知っている。
あの教室から、たしかに何か一つ、削れていた。
悪意ではない。騒ぎでもない。
もっと手前にある、喜んでいい時に喜ぶための熱。その輪郭だけが、薄くなっていた。
そして、それを白世勇人は、たぶん善意でやっている。
次の盤面は体育祭になる。
ならばそこで、あの男の正しさが、何を削り、何を救うのか。
黒崎湊人は、まだ切るべき一点を見つけきれないまま、静かに目を細めた。




