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第2章 第2話 不安を消す言葉

 中間試験初日の朝、県立星ヶ峰高校は、試験より別のものでざわついていた。


 教室へ入る前から、廊下のあちこちで同じ言葉が聞こえる。

「見た?」「あれ、どうなってんの」「編集でしょ」「でも気持ち悪くない?」

 皆が覗き込んでいるのは、昨日の朝に一年三組で起きた棚の落下未遂を切り取った短い動画だった。


 たしかに妙だった。箱が落ちかけた一瞬、画面の中の人の位置が、ほんのわずかに飛んで見える。目の錯覚と言われればそれまでだが、一度気づくと無視しづらい種類の飛び方だ。


 くだらん、と黒崎湊人は思う。

 結果として誰も怪我をしなかった。それで十分だ。たかが五秒に群がる人間どもは、だいたい目の前の一問を落とす。

 席へ着くなり、前の席からひかりがスマホを裏返しにして振り向いた。

「もう回ってるよ」

「朝から不毛だな」

「不毛って言うけど、ちょっと変なのは本当だよ。ここ、見て」

 見せられた画面には、教室後方から撮られた粗い映像が止まっている。棚の前で箱が傾き、その次の瞬間には、落ちる位置だけが少しずれている。

「編集だ」

「そう見えたら、みんなこんなに騒がないんだって」

「愚民は騒ぐ理由がほしいだけだ」

「黒崎くん、今日も通常運転だね」

 ひかりはそう言ったが、目元には薄く疲れがある。昨日よりはましだが、試験初日の空気に飲まれかけている者の顔だった。


 廊下側では修司が二人の男子に囲まれていた。

「神谷、お前見た?」「昨日のやつ、絶対変だって」「先生にも来てるらしいぞ」

「騒ぐなって。とりあえず一時間目終わるまでスマホしまえ」

 修司の声には苛立ちより先に、焦りがあった。

 珍しい、と湊人は思う。この男はだいたい先に人を落ち着かせる側だ。その修司が、今日は空気の散り方を抑えきれていない。


 そこで教室の前扉が開いた。

 白世勇人が、いつもの静かな顔で入ってくる。

 まだ転校二日目だというのに、あの男はもう「途中から入ってきた人間」の顔をしていない。最初からそこにいたような足取りで、自分の席まで歩き、騒いでいる方を一度だけ見た。

「動画、気になるのは分かるけど」

 白世は鞄を置きながら言った。

「分からないものを朝のうちから怖がっても、今日の点は上がらないよね」

 強い声ではない。説教でもない。ただ、誰も反発しにくい正論だった。

 廊下側の男子が、半端な笑いで肩をすくめる。

「まあ、それはそう」

「しかも今って、みんなたぶん、動画そのものより試験で余裕なくなってる時に別の不安が増えたのが嫌なんだと思う」


 白世はそう続け、最後に少しだけ笑った。

「なら、先に一個ずつ減らした方が楽じゃない?」

 たったそれだけで、教室の空気が一段下がった。

 うるさかった声が消えたわけではない。だが、散っていた視線が少しずつ机の上へ戻っていく。教科書を開き直す者。単語帳をめくり直す者。修司まで、そこでようやく息を吐いた。

「……すご」

 ひかりが小さく呟く。

「何がだ」

「言ってることは普通なのに、ちゃんと効くんだもん」

「効きすぎだ」

「え?」

「何でもない」

 気に入らない。

 白世は誰も傷つけていない。間違ったことも言っていない。だが、言葉が教室全体へ染みる速度が妙に早い。

 人を動かすとは、本来もっと摩擦のある行為だ。反発があり、躊躇があり、納得と諦めが入り混じる。

 なのにあの男の言葉は、最初から角だけを落として人へ入っていく。


 一時間目開始まで残り十分というところで、別の小さな騒ぎが起きた。

 廊下を走ってきた二年の女子が、開いたままのクリアファイルを抱えて階段へ向かう。受験票か何かを職員室へ取りに行く途中なのだろう。靴底がやけに軽い。焦っている歩幅だ。

 その先の踊り場には、清掃後の床に残った薄い湿り気がある。窓際から差す朝日でほとんど見えないが、光り方だけがわずかに違った。

 見える。

 しかも距離が、ぎりぎり届く。

 湊人は席を立つでもなく、教室の前方からその一帯を視界へ入れた。

 変えるのは本人ではない。重い。反動が読めない。

 その手前、踊り場の端へ寄せられている黄色い注意札。その向きだけを五秒前へ戻す。今は壁側へ寝ている札を、ほんの少しだけ通路側へ。


 世界が薄くきしむ。

 次の瞬間、女子の足は湿った床ではなく、急に視界へ入った黄色い札へ引かれた。とっさに体が外へ逃げる。踏み外しはしたが、手すりへ肩がぶつかり、そのまま尻もちで止まった。

 ファイルの中身だけがばらばらと階段へ散る。

「危なっ」

 修司が真っ先に廊下へ飛び出した。

 近くにいた教師も駆け寄る。

 大きな怪我はない。女子は痛そうに顔をしかめたが、自分で立てている。

 落ちたのが人間ではなく紙束だった時、人は想像以上に簡単に安堵する。

「大丈夫?」

 白世が廊下へ出ながらしゃがみ込む。

「手、見せられる?」

「だ、大丈夫……ちょっと打っただけ」

「よかった。立てるなら、深呼吸してからでいい」

 白世の声はやはり穏やかだった。怪我人の顔から余計な羞恥と焦りだけを剥がすような言い方だった。

 女子は二度ほど息を吐き、それからようやく「すみません」と言えた。


 ひかりが教室の扉のところで立ち止まる。

 その横顔を見て、湊人は分かった。

 また気づいたな、と。

「黒崎くん」

「何だ」

「今、また変だった」

「貴様らの感覚の方がだいぶ不安定だ」

「そうじゃなくて」

 ひかりは言いかけて、散った紙を拾う修司へ目を向けた。

「……ううん。あとでいい」


 試験そのものは、最初のうちは静かに始まった。

 数学。監督教師は厳しめで、開始五分前から私語を切った。動画の噂も、ざわつきも、解答用紙が配られた瞬間だけは消える。

 人間は自分の点数がかかった途端、世界の優先順位をあっさり入れ替える。

 その浅さは嫌いではない。


 だが、一時間目が終わった途端、別の火種が上がった。

 答案回収のあと、前から三列目の水野が立ち上がった瞬間、小さく畳まれた紙片が足元へ落ちた。

 教師がそれを拾い、広げる。

 英単語の要点が、細かい字でびっしり書かれていた。

 教室の空気が、今度は別の意味で固まる。

「これは何だ」

 低い声だった。

 水野の顔から血の気が引く。

「ち、違います」

「違うじゃ分からん。机の下から出たんだぞ」

 誰かが息を呑む。別の誰かが、ほんの小さな声で「やば」と漏らす。

 悪意のある言葉ではない。だが、そういう半端な音が一番早く広がる。

 水野はおとなしい。普段から自分から前へ出るタイプではない。

 こういう時、反論の順番を取れない者は、それだけで不利になる。

 くだらん、と湊人は思う。

 実際にやったかどうかとは別に、「やりそうに見えるか」「言い返せるか」で盤面が決まり始める。そういう集団は腐る。


 その時、白世が席を立った。

「先生」

 口を挟むには絶妙に静かな声だった。

「今ここで決めつけると、次の科目まで全員が引きずると思います」

 教師が眉をひそめる。

 だが白世は引かなかった。

「紙が落ちたのは事実です。でも、水野さんが使ったと決まったわけじゃないですよね」

 正面から庇うのではない。判断の順番だけを整え直している。

 教室の空気が、そこで少しだけ止まった。


 湊人はその隙に、別の一点を見ていた。

 水野の斜め後ろ。立ち上がりかけた男子の鞄の口から、似た大きさの紙束が半分だけ覗いている。角の折り方が同じだ。

 犯人、と呼ぶほどのことでもない。おそらく昨夜慌てて作った暗記メモの余りを突っ込んだまま、今朝になって一枚滑り込んだのだろう。

 問題は、今それを言えば別の人間が一気に沈むことだ。

 この場で必要なのは断罪ではない。疑いの向きを変えることでもない。

 発火点だけを消せばいい。

 湊人は息を整えた。

 変えるのは、鞄そのものではない。その口に引っかかっている参考書の表紙、その角度だけ。


 五秒前。

 きしみは、さっきより重かった。

 次の瞬間、男子が立ち上がる拍子に参考書が鞄から滑り落ちた。挟まっていた紙束が床へ散る。

 教師の視線がそちらへ移る。

 落ちた紙は、手に持っていたものと同じ罫線、同じ折り方だった。

「……お前、これ」

 男子が青ざめる。

「いや、ちが、使ってないです、作っただけで」

「作った時点でアウトだ」


 教師の声は厳しいままだったが、少なくとも水野一人へ向いていた疑いは消えた。

 白世がそこで、水野の方へだけ少し身をかがめた。

「大丈夫。今、ちゃんと戻ったから」

 その一言で、水野の肩がようやく落ちる。

 泣くほどではない。だが、崩れかけていた呼吸が戻るのが見えた。

 教室はざわめきを再開しかけたが、白世が今度は全体へ向けて言った。

「焦ってる時って、見えたものにすぐ意味をつけたくなりますよね」

 誰も答えない。

 答えないが、その言葉は刺さった。


「でも今日って、もうみんな余裕ないから。ひとつ見えたことを、そのまま全部だと思わない方がいい」

 優等生の正論。きれいすぎるほどきれいな言葉。

 なのに、また効く。

 さっきまで「水野が」「やばくない?」と漏れかけていた空気が、そのまましぼむ。

 気に入らない、と湊人はまた思う。

 自分は一点をずらしただけだ。紙の落ちる場所を変え、疑いの向きを崩しただけ。

 だが白世は、それが起きた後の人間の感情ごと整えてしまう。


 休み時間、ひかりが自販機前で言った。

「黒崎くんの方は、いつも結果だけが先に収まる」

「何だ、その雑な分析は」

「でも、白世くんは違う。あの人は、みんなが騒ぎたくなる前に、騒ぎ方ごと変えちゃう感じ」

 ひかりはジュースの缶を手の中で転がした。

「助かった人はいるんだけどね」

「だから厄介なんだ」

「厄介、って言う?」

「善意で盤面を均す者ほど面倒なものはない」


 ひかりは少し黙ってから、小さく笑った。

「黒崎くん、その言い方だとまた意味分かんないけど」

「貴様らの理解力に期待はしていない」

「はいはい」

 軽く流しながらも、ひかりは真面目な顔に戻った。

「でも、今日の水野さんのとき、黒崎くんも何かしたよね」

 湊人は答えない。

 ひかりは追い詰めるような聞き方はしなかった。

「助かったなら、それでいいとも思う。でも……」

「でも?」

「黒崎くんのまわりだけ、事故とか疑いとかが、先に終わってる感じがする」

 その言い方は妙に正確で、湊人は少しだけ眉を寄せた。

 ひかりはそれ以上言わない。ただ、見ているだけだ。

 観測者としては、あまりにも筋がいい。


 放課後、修司が湊人を呼び止めた。

「黒崎」

「何だ」

「今朝の階段の件」

「俺に何の関係がある」

「まだ何も言ってない」

 修司はスマホの画面を見せた。学校の廊下カメラを、その場にいた教師が保護者説明用に確認していたらしい。そこから切り出した短い静止画が二枚並んでいる。

 一枚目では、黄色い注意札は壁際に寝ていた。

 二枚目では、女子が滑る直前、その札がいつの間にか通路側へずれている。

「動画だとまた荒れるから、静止画だけ見せてもらった」

「なら余計な詮索はやめろ」

「詮索じゃない」

 修司は真っ直ぐ言った。

「黒崎、お前、何か知ってるか」

 疑っているのではない。確かめようとしている声だった。

 それが一番面倒だ、と湊人は思う。

 逃げ道を、敵意ではなく信頼の形で塞いでくる。

「知らん」

 短く返す。

 修司はしばらく黙り、それからスマホをしまった。

「……そっか」

 納得していない顔だった。だが追わない。

「ただ、水野の件も階段の件も、変な方向へ行く前に止まったのは本当だ」

「だから何だ」

「だから、助かった」

 それだけ言って、修司は先に歩き出した。

 助かった。

 最近、その言葉ばかりが妙に残る。

 感謝であり、信頼であり、そして時々は期待でもある。

 支配の前段階としては悪くない。悪くないはずなのに、以前ほど単純に飲み込めないのが腹立たしかった。


 校舎の窓は、もう夕方の色を映していた。

 その外で、誰かがスマホ画面を指でなぞる。

 朝の棚。階段の転倒未遂。水野の足元へ落ちた紙片。

 どの切り抜きにも、ほんの一瞬だけ、説明しづらい飛びがある。

 そして、その飛びの前後で黒崎湊人だけが、いつも妙に落ち着いている。

「いたな、ああいうやつ」

 独り言は、風に混じって消えた。

 送信ボタンが押される。

 投稿された新しい動画の題は、短かった。

 ――また五秒、消えた。

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