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第2章 第1話 白世勇人は、平和を持ってくる

 中間試験の三日前、県立星ヶ峰高校一年三組は、朝から妙に空気が悪かった。


 窓際の列では英単語帳をめくる音が続き、前方では数学の問題集を奪い合うみたいに覗き込み、後方では「昨日そこまでやるって言ったよね」「言ったけど、無理だったし」と、まだ小さい言い争いがくすぶっている。


 文化祭が終わってから、教室は前より少しだけまとまるようになった。少なくとも、何かが起きれば誰かが動く、という程度には。

 だが試験前だけは別だ。人間は追い詰められると視野が狭くなる。狭くなった視野は、すぐ他人へぶつかる。


 黒崎湊人は席に着いたまま、その全体を冷めた目で見渡していた。

「愚かだな」

 小さく漏れた独り言へ、前の席から小宮ひかりが振り返る。

「朝から大きい主語だね」

「事実だ。試験ごときで統制を失う集団に未来はない」

「黒崎くんは余裕そうだね」

「当然だ。支配者は平時に備え、非常時に慌てない」

「はいはい」

 ひかりは軽く流したが、その目は少し眠そうだった。机の端には開きっぱなしのノートと、途中まで解いた古文のプリントがある。

 眠いのに、やることは残っている。焦っているのに、表にはあまり出さない。

 そういう者が、一番危うい。


 教室前方で、日直の女子が配布物の束を抱えたまま立ち尽くしていた。

「え、これ今日まで?」「昨日言ったじゃん」

 担任へ提出する自習計画表らしい。出していない者が想像以上に多く、しかも今朝になって慌てて書こうとしている。

 くだらん、と湊人は思う。締切とは守るためにある。守れぬなら最初から組み直せ。


 その時、廊下側で椅子が強く引かれた。

「だから、貸すって言っただろ」

「今使ってるから無理」

「五分だけでいいって」

 声が一段上がる。借りたいのは赤シート、貸したくないのは使っている側。どちらも理屈としては分かる。分かるが、こういう時に大きい声を出した方が得をすると覚えた集団は腐る。

 修司が止めに入ろうと立ち上がりかけた、その直前――廊下側の棚の上で、積まれていた教材の箱がぐらりと揺れた。

 誰かが椅子を引いた拍子に棚へ当たったのだろう。上段の段ボールが前へ滑る。角度が悪い。このまま落ちれば、真下にいる女子へ当たる。


 見える。届く。軽すぎはしないが、無理でもない。

 湊人は息を止めた。

 五秒前。

 変えるのは、箱ではない。その手前に挟まっている薄い確認プリント、一枚だけ。角の浮き方だけを、ほんの少し。

 世界が、薄くきしんだ。

 次の瞬間、前へ滑りかけた箱は途中でひっかかり、代わりに一番上のプリント束だけがばさりと落ちた。

「きゃ……」

 女子は肩をすくめたが、落ちてきたのは紙だけだった。箱は棚の縁で止まっている。

「危なっ……」

 修司がすぐ駆け寄り、棚を押さえた。

「大丈夫か?」

「う、うん……紙だけ」

「そっち、ちょっとどいて。落ちる位置、まだ悪い」

 修司が箱を抱え直し、近くの男子が慌てて下へ降ろす。周囲もようやく息を吐いた。

 小さな騒ぎで済んだ。だが、落ち方は妙だった。


 ひかりが床へ散ったプリントを拾いながら、ちらりと湊人を見る。

「……今、また」

「何だ」

「ううん」

 言い切らない。

 気づいたな、と湊人は思う。だが追及はしない。こいつは見ている。しかも、助かった後で騒がない。そういう観測は嫌いではない。


 その時、教室の扉が開いた。

 担任が入ってくる。その横に、見慣れない男子生徒が立っていた。

「ホームルーム始めるぞ。あと、今日から転入生が入る」

 ざわめきが広がる。

 男子は一歩前へ出た。背は高すぎず低すぎず、姿勢だけが妙に静かだ。目立つ顔立ちではない。けれど、立ち方が変に整っている。人の視線を受けるのに慣れている者の立ち方だった。

 それでいて、圧はない。あるのは、妙な落ち着きだけだ。


「白世勇人です。よろしくお願いします」

 声も静かだった。

 張っていないのに、教室の端まで自然に届く。

「急な転校で大変だろうけど、みんな仲良くな」

 担任の雑な締めに、教室のあちこちで軽い笑いが起きる。

 白世はそれに合わせて少しだけ口元を緩めた。その笑い方が、最初から輪の外に立たない者のそれだった。


 席は中央列の空いていた場所に決まった。修司の斜め後ろ、ひかりから二列離れた辺りだ。

 移動する途中、白世はさっき箱が落ちかけた棚の前で一瞬だけ足を止めた。

「危なかったんですね」

 誰にともなく言う。

「あ、うん」箱の下にいた女子が苦笑する。「ほんとに紙だけで済んだからよかったけど」

「そういう時、続けて焦ると次も起きますよね」

 白世は穏やかに言った。

「今、みんな少し急いでるから。まず落ち着いた方がいいと思います」

 強い言葉ではない。正しいことを、正しい順番で言っただけだ。

 なのに、教室の空気がそこで一段落ちた。


 廊下側でまだ不機嫌そうだった男子も、なんとなく椅子へ座り直す。計画表がどうこうと騒いでいた前方も、声量だけが少し下がる。

 湊人は眉を寄せた。

 空気が収まる理屈は分かる。分かるが、効き方が早い。


 ホームルームが始まると、担任は案の定、試験前の注意を適当に並べただけで終えようとした。

「提出物は今日中。揉めるな。寝ろ。以上」

「雑だな」礼司が小さく笑う。

 教室がまた少しだけ揺れかけた、その時だった。

「先生」

 白世が静かに手を挙げた。

「今日中って言われると、今出せてない人ほど焦ると思うので、昼休みまでに机の上へ出す形にしませんか。朝のうちだと、忘れた人も書き足せるし」

 担任が目を瞬く。

「……お、おう。じゃあそれで」

「ありがとうございます」

 ただそれだけだ。

 なのに、前方の女子が明らかにほっとした顔をした。廊下側で赤シートを巡っていた二人も、いつの間にか話を切っている。


 修司が感心したように白世を見る。

「助かった。あのままだと朝から詰んでるやついたし」

「詰むは大げさだよ、神谷くん」

 白世は笑った。

「でも、焦ってる時って、ちょっと順番変えるだけで楽になりますよね」

「それは分かる」

 ひかりまで頷く。

 礼司も軽く肩をすくめた。

「転校初日でそれ言えるのすごいな」

「言いやすい空気だったから」

「それ、自分で作ったやつじゃん」

 礼司のその返しで笑いが起きる。今度の笑いはさっきより柔らかかった。

 湊人だけが黙っていた。


 気に入らない。

 強制したわけではない。説教したわけでもない。ただ、人が動きやすい順番を差し出しただけ。

 だがそのせいで、場全体が妙に素直へ寄っている。

「黒崎くん、どうしたの」

 ひかりが後ろへ小声で訊く。

「何がだ」

「すごい嫌そうな顔してる」

「当然だ」

「なんで」

「最初から盤面へ入り込む手つきが上品すぎる」

「え?」

「気にするな。独り言だ」

 ひかりは分からなさそうにしたが、そこで追及はしなかった。


 二時間目と三時間目のあいだ、白世の周りには自然に人が集まった。

 転校生への興味もある。だがそれだけではない。質問しやすい空気が、なぜかもう出来ている。

「前の学校って厳しかった?」

「普通だよ」

「勉強できる?」

「得意不得意はあるけど、一緒にやる方が早いかもしれない」

 断らない。張り切りすぎない。なのに会話が続く。

 厄介だ、と湊人は思う。


 昼休み前、今度は別の騒ぎが起きた。

 英語の小テストで使うはずだった単語プリントが一部足りない。

「さっきここに置いたのに」

「誰か持ってった?」

「え、私じゃないけど」

 疑いの矛先が、発言の少ない男子へ寄りかける。本人は否定の間を取り損ねている。

 面倒だ。こういう時、人間は事実より先に“言い返しにくい者”へ寄る。

 修司が前へ出ようとする。ひかりも何か言いかける。

 その前に、白世がしゃがみ込んだ。

「これ、重なってませんか」

 机の端に置かれた別の資料束を指でめくる。下から薄いプリントが半分だけ顔を出した。

「あ」

「ほんとだ」

「二枚くっついてたのか」


 空気がそこで変わる。

 疑われかけた男子がようやく息をつき、周囲も露骨に気まずそうな顔をした。

 白世はそれ以上責めなかった。

「よかった。誰かが悪い形じゃなくて」

 静かに、それだけ。

 まただ、と湊人は思う。

 解決そのものより、解決した後の空気の整え方が速い。

 しかも善意の顔をしている。実際、善意なのだろう。それが余計に質が悪い。

「白世くん、ありがと」

 女子が言う。

「ううん。試験前って、みんな余裕なくなるし」

 その返答で、さっきまで張っていた空気がもう言い訳できないくらい丸くなる。

 ひかりはプリントを受け取りながら、今度は白世ではなく湊人を見た。

「黒崎くん」

「何だ」

「さっきからずっと、白世くんのこと見てる」

「監視だ」

「怖い言い方やめて」

「必要な観察だ」

「……じゃあ私も観察しようかな」

「勝手にしろ」


 昼休み、修司は白世を連れて食堂へ行こうとしていた。礼司も当然のようについていく。

 ひかりは一度立ち上がり、けれど振り返る。

「湊人は?」

 その呼び方に、湊人の反応が半拍遅れた。

 前ならただの呼びかけだったはずなのに、最近あいつは時々こういう呼び方をする。黒崎ではなく、湊人。

 厄介だ。

「行かん」

「なんで」

「群れる趣味はない」

「じゃあパンくらい買ってくれば」

「命令するな」

「倒れられても困るし」

 ひかりはそれだけ言って、先に教室を出た。


 一人になった教室は、さっきまでのざわめきが嘘みたいに静かだった。

 湊人は窓際から中庭を見下ろした。

 白世勇人。

 あれは礼司とも修司とも違う。

 礼司は笑顔で流れを握る。修司は責任を背負って場を保たせる。白世は、そのどちらでもない。もっと静かだ。誰かを自分の側へ引っ張るというより、その場にいる全員の尖りを少しずつ丸くしている。

 争いは減るだろう。失敗も減るかもしれない。

 だが、その先はどうなる。


 廊下から、足音が一つだけ戻ってきた。

 ルカだった。

「食堂、行かないの?」

「貴様も行け」

「つれないなあ」

 ルカは教卓にもたれ、窓の外を見た。

「どう? 新しい転校生」

「気に入らん」

「早いね」

「上品だ」

「褒めてる?」

「逆だ」

 ルカはくすっと笑う。

「でも、ああいう子、好きでしょ。自分で考えて動けるし」

「考えて動きすぎる」

「ふうん」

 ルカはそれ以上言わず、少しだけ目を細めた。

「ああいうの、崩すの大変だよ」

「崩す前提で話すな」

「だって、もうそういう顔してる」

「……貴様」

「まあ、まだ早いかもね。今日は本当に助けてただけだし」

 そこでルカは、わずかに声を落とした。

「でも、事故で崩れる相手じゃないのは確かだよ」

 その一言だけが、妙に引っかかった。


 放課後。

 試験前だから部活へ向かう者も少なく、教室は昼より静かだった。

 修司は担任へ提出する計画表を集め、礼司は机を寄せて残った者へ範囲確認をしている。ひかりは窓際で古文を見直し、白世はその隣で数学の質問に答えていた。


 輪の中心に立っているわけではない。

 なのに、困っている者の声が自然に白世へ寄る。

「ここ、なんでこうなるの?」

「その式だと先にこっち見た方が早いかも」

「あ、ほんとだ」

「よかった」

 説明が短い。押しつけもない。しかも相手に“自分で解けた”と思わせる余地を残す。

 気に入らない。実に気に入らない。


 その時、廊下側の窓が強く鳴った。

 風だ。開けっぱなしだった上部の小窓が跳ね、近くの机の上にあった筆箱が落ちる。床へ散ったペンの一本が勢いよく転がり、ひかりの足元へ向かった。

 大した事故ではない。だが、しゃがむ位置が悪い。向こう側では別の女子が立ち上がりかけている。このままだと額と机の角がぶつかる。


 見える。届く。軽い。

 湊人は五秒を掴んだ。

 変えるのはペンそのものではない。机の脚へ当たる角度だけ。

 きしみ。


 次の瞬間、ペンはひかりの足元へ行かず、手前で軌道を変えて止まった。立ち上がりかけた女子も、少し動きを緩めるだけで済む。

「危な」

 礼司がペンを拾う。

「今日、細かいの多いな」

「試験前だからね」白世が言う。「みんな急いでるし」

 またその言葉で、場が収まる。

 だが今度は違った。

 修司が、足元のペンを拾い上げたまま動きを止めたのだ。

 床ではなく、廊下側の防犯カメラへ視線を向けている。

「神谷?」

 礼司が首を傾げる。

「……いや」

 修司はすぐ笑って誤魔化した。

「なんか今、変な止まり方したなと思って」

「ペン?」

 ひかりが訊く。

「うん。気のせいかも」

 気のせいではない。

 湊人は無言で窓の外を見た。修司のやつ、今ので何かを拾った。

 ひかりは違和感を感覚で掴む。修司は記録や順序のズレとして掴む。

 面倒な連中だ。だが、鈍いよりはましだった。


 帰り際、白世が黒板横で湊人へ声をかけた。

「黒崎くん」

「何だ」

「今日、二回くらい助かった気がする」

 心臓が、ほんのわずかに止まる。

「意味不明だな」

「そうかも。でも、そういう感じがしただけ」

 白世は笑わない。静かな顔のまま続けた。

「もし本当にそうなら、ありがとう」

「気のせいだ」

「うん」

 否定を、そのまま否定しない返事だった。

「でも、助かった時って、誰がやったか分からなくても残るから」

 それだけ言って、白世は教室を出ていく。


 気に入らない、と湊人は思った。

 礼を言う人間は、ひかりだけで十分だ。

 しかも白世のそれは、踏み込まない。暴かない。ただ、そこに何かがあった可能性だけ置いて去る。

 上品で、面倒で、厄介だった。


 校舎の外はもう薄暗い。

 昇降口を出たところで、修司がスマホを見ながら立ち止まっていた。

「黒崎」

「何だ」

「さっきの防犯カメラ、委員会の共有サーバに上がってた」

「だからどうした」

「……五秒くらい、変なんだよな」

 修司は画面を見せる。

 廊下側の映像。窓が鳴る。筆箱が落ちる。その直後、ノイズもなく、場面だけがほんの少し飛んでいる。

 不自然な編集みたいに見える。けれど学校の固定カメラで、そんなことが起きる理由はない。

「気のせいでは?」

 ひかりが横から覗き込み、すぐに言う。

 だが声色がいつもより少し硬い。

「でも、変だね」

「古い機材なんじゃない?」礼司は軽く言った。「試験前に怪談みたいなのやめてくれよ」

 白世だけは画面を見ず、修司の顔を見ていた。

「それ、他の人にはまだ見せない方がいいかも」

「なんで?」

「今の時期、変な形で広がると、余計に落ち着かなくなるから」


 正しい。

 正しすぎる返答だった。

 修司は少し迷ってからスマホを下ろす。

「……そうだな。とりあえず俺のとこで止めとく」

 その判断まで、白世は静かに受け止めた。

 押していない。なのに、そうするのが自然だと思わせている。


 帰宅途中、誰もいなくなった歩道脇で、知らない手がスマホを操作していた。

 画面には、さっきの廊下カメラの切り抜きが映っている。窓が鳴る。筆箱が落ちる。ペンが転がる。そして、ほんの一瞬だけ不自然に繋がる。

 切り抜かれているのは、ちょうど五秒だ。

 投稿欄のタイトルには、短くこう打たれていた。

『5秒消えた』

 送信ボタンが押される。

 誰が上げたのかは分からない。

 けれど、その動画が今夜のうちにどこかへ広がることだけは、もう決まっていた。

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