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第2章 第8話 平和の形はひとつじゃない

 朝のホームルーム前、一年三組の教室には、いつものざわめきがあった。


 ある。ざわめきはたしかにある。椅子の脚が鳴り、後ろの列では誰かがペットボトルの蓋を回し、窓際では女子がリレーのメンバー表をのぞき込みながら小さく笑っている。


 だが、その全部が少しだけ浅い。音はあるのに、温度が上がりきらない。誰かが盛り上がりかけても、その先で自然に丸く削られていく。

 黒崎湊人は、自分の席からその流れを眺めていた。


 黒板には、今日決めるべき項目が並んでいる。混合リレーの走順、応援の立ち位置、当日の誘導補助。どれも体育祭に向けた細部だ。だが細部ほど、クラスの本音は出る。前へ出たい者、出たくない者、負けたくない者、失敗したくない者。そういう差が、いちばんよく浮く。

 そして最近、その差が浮くたびに、白世勇人がいる。


 白世は窓側の列で、まだ来たばかりの朝の光を背にして立っていた。囲まれている、というほどではない。けれど気づけば近くへ人が寄り、誰かが何かを言う前に、あの穏やかな声が返っている。

「そんなに気負わなくていいと思うよ」

 近くの男子が苦笑する。女子が、少しだけ肩を下ろす。そのやり取りだけで、そこにあった見えない緊張がひとつ薄くなる。

 助かっている者はいる。だから厄介なのだ、と湊人は思う。


 ホームルームが始まり、担任がプリントを配りながら言った。

「今日はリレーの最終候補と、応援の前列を決める。あと当日の細かい役割もな。揉めるなよ」

 最後の一言が雑だった。人間の教師は、なぜこうも投げ方が甘いのか。


 案の定、プリントが行き渡る前から空気が揺れた。

「前列って、ダンスのとこだよね」

「目立つのはちょっと……」

「でもリレーは、ちゃんと速い人を出したほうがいいだろ」

「そういう言い方すると、走れない側はきついんだけど」


 言葉がまだ衝突になる手前で、教室の温度が細かく上下する。こういう時、以前の一年三組なら、修司がまとめ、礼司が空気を崩さず着地させ、ひかりが余白を埋めていた。


 今はそこへ、白世の声が入る。

「どっちも間違ってないよ」

 それだけで、何人かが先に黙る。白世は続けた。


「勝ちたい気持ちもあるし、無理したくない気持ちもある。なら、どっちかを悪いものみたいにしない方がいい」


 正しい。正しすぎるほど正しい

 だからこそ、場はその言葉に寄る。


 礼司が、机の端へ指先を軽く当てた。苛立っている時の癖だ。修司はまだ何も言わず、ただ全体を見ている。ひかりは白世ではなく、白世の言葉で黙った側の顔を見ていた。

 湊人はそこで、ひとつ試すことにした。


 教師が「じゃあ、リレーの走順で意見があるやつから」と言いかける五秒前。

 湊人は、いちばん前の列に置かれた希望調査票の束、その一枚だけの角度を変えた。


 紙の角がわずかに立ち、次の瞬間、配布の流れが半拍ずれた。本来なら神谷修司の席へ先に届くはずだった紙が、斜め後ろへ滑り、礼司の手元へ先に止まる。


 礼司は一瞬だけ眉を上げたが、すぐに口を開いた。

「勝ちに行くなら、走順は遠慮なく決めた方がいい」


 教室の空気がそちらへ向く。礼司の言葉は、誰かを切るためではない。前へ出るなら中途半端にしない、という種類の熱だ。

「速い人を速い順に置くって意味?」と誰かが訊く。


「単純にそれだけじゃないけど、少なくとも『誰も嫌な思いをしない形』だけで組むと、勝つための並びではなくなる」

 いつもよりはっきりしていた。礼司の目は、白世の方を見ていない。見ていないまま、あの穏やかな丸さへ線を引こうとしている。


 数人が頷く。後ろの男子も「それはそう」と言う。空気が、白世の正しさとは別の方向へ傾きかけた。

 そこで白世が、礼司へ反論するのではなく、教室全体へ向かって言った。

「勝ちたい人の気持ちは大事だよ」

 受ける。否定しない。

「でも、それで出たくない人が責められる空気になるなら、あとに残るのは勝敗だけじゃないから」

 先に出た熱を一度認めた上で、もっと傷の少ない地点へ全体を寄せる。


 ざわめきが静まる。さっきまで礼司の言葉へ頷いていた者まで、「まあ、それもそうか」という顔になる。

 湊人はそこで確信を深めた。

 白世は命令していない。脅してもいない。だが、先に場へ出た感情のうち、いちばん安全側へ寄るものを中心へ据え直している。

 誰かの意見を消すのではない。消えたと自覚させないまま、重心をずらしている。


 昼休み、湊人は購買の横の渡り廊下でひかりに呼び止められた。

「さっき、何した?」

 いきなりだった。

「何の話だ」

「礼司くんが先にしゃべった時。黒崎くん、紙見てた」


 相変わらず、どうでもよさそうな顔で細部だけは見ている。

「検証だ」


「検証」

「誰が先に口を開くかで、あの男の動きが変わるか試した」

 ひかりは少しだけ目を丸くした。それから、呆れたように息を吐く。


「能力の使い道が、だんだん嫌な方向へ賢くなってきたね」

「事故を防ぐだけが能ではない」

「それはそうなんだけど」

 言いながら、ひかりは廊下の手すりへ肘を乗せた。グラウンドでは二年が練習している。笛の音が風に伸び、砂が薄く光っていた。


「でも、分かったことはあるかも」

「何だ」

「白世くん、誰かの気持ちを消してる感じはない。でも、その場でいちばん“無難な気持ち”だけが残りやすくなる」

 湊人は横目でひかりを見る。

 それはほぼ、自分が今まとめかけていた認識と同じだった。


「小宮」

「なに」

「貴様、たまに有能だな」

「たまにじゃないよ」

 ひかりは笑ったが、その笑いも長くは続かなかった。

「助かってる子がいるのも本当なんだよね」


 そこだけ、声が落ちる。

「出たくないのに前へ出されるとか、遅いのに速い子と同じようにやれって言われるとか、そういう苦しさを減らしてるのは本当。だから変なんだよ」


 湊人は答えず、グラウンドへ視線を戻した。

 変なのではない。厄介なのだ。善意として成立しているから、崩し方そのものが見えにくい。


 その日の五時間目は体育祭の合同練習だった。

 校庭の端では応援の隊形確認が行われ、その横で混合リレーのバトン練習も始まっている。競技が並行すれば視線が分かれ、誰も全体を把握できなくなる。こういう時ほど、場の流れを握る者が強い。


 修司は記録用のクリップボードを抱えて走り回っていた。クラスごとの点呼、出席確認、参加できない者の振り分け。真面目な人間ほど、こういう行事では自然に仕事が増える。

 白世はその修司へ、ごく自然に近づいた。

「神谷くん、一人で抱えなくていいよ」

「いや、でも今まとめないと後で詰まるし」

「だったら、整理する順番だけ決めよう。全部を自分で持つんじゃなくて、流す場所を作ればいい」


 それだけで修司の手が止まる。白世は記録表をのぞき込み、どこを誰へ回せるかを静かに口にした。驚くほど手際がいい。しかも、やらされている感じが薄い。

 実際、十分後には仕事の流れが整っていた。

 修司は確かに助かっていた。

 礼司がその様子を見て、低く息を吐く。


「ああいうの、いちばん反論しづらいんだよな」

 珍しく、独り言のような声だった。

 湊人はその横に立つ。

「助けているからな」

「分かってる」

 礼司はグラウンドの中央を見たまま言った。

「でも、あれで全員が“じゃあ少しずつ無理しない方で”に寄っていくと、頑張る側だけが空気を読んで強さを引っ込める」

「貴様にしては的確だ」

「黒崎に褒められても嬉しくない」

 そう返しながらも、礼司の目は笑っていなかった。


 リレーのバトン練習が始まる直前、クラスの列が少し乱れた。

 足の速い順で仮に並べたい者と、本番前にその形を見せたくない者がいる。速い者に期待が集まりすぎるのも、遅い者が最初から外れた顔をするのも、どちらも場を硬くする。

 教師がメガホンを持って、「とりあえず一回、今の並びでやってみろ」と叫んだ。

 それに先んじて、白世が一歩出る。

「一回目から決め打ちしなくていいよ。試す回なんだから、気楽に――」

 その言葉が広がる寸前、湊人は五秒を掴んだ。


 狙ったのは人ではない。教師のメガホン、その電源スイッチの接点だけだ。

 五秒前、わずかに浅く入っていた接点を、もう半歩だけ深く噛ませる。

 次の瞬間、本来なら白世の声へ先に流れるはずだった場へ、教師の拡声が割って入った。


「並べ!」

 短く、強い音だった。反射で全員の視線が前へ揃う。

 その一拍を逃さず、礼司が声を上げた。


「勝ちに行くなら、受け渡しだけは全力で合わせよう。順番は後で変えてもいい。でも、気楽に流して上手くなる場所じゃない」

 さっきまで散っていた視線が、今度は礼司の方へ向く。

 白世が言葉を継ぎ足す前に、ひかりが列の横から言った。

「怖いなら、怖いって言っていいよ。でも、そのまま雑に回して失敗する方が、あとで嫌かも」

 ひかりは礼司ほど強く押さない。けれど逃げ道だけで終わらせない。言葉の置き方が絶妙だった。


 場の空気が、完全には丸くならないまま止まる。

 その揺れを見て、湊人はまたひとつ理解した。

 白世の効き方は、曖昧な場ほど強い。

 誰もまだ方向を決めておらず、不安だけが浮いている時、あの男の声はそこへ最短で届く。逆に、先に具体的な目的や輪郭が立てば、丸さだけでは全体を飲み込めない。


 練習が終わる頃には、空の色がわずかに傾き始めていた。

 決定的な何かが起きたわけではない。けれどバトンの受け渡しは、一回目より明らかに締まっていた。息が上がって、不機嫌な顔をする者もいる。その代わり、自分の足が遅いこと、自分の渡し方が下手なことを、誰もごまかせなくなっていた。

 それをどう見るかで、場はまた割れる。


「やっぱり、そこまで詰めなくてもいいんじゃない?」という声が出る。

「でも今の方がやることは分かりやすかった」と返す声もある。

 白世はその両方を聞いていた。聞いた上で、まだ口を開かない。

 相手の出方を見ているのではない。どちらがこの場でいちばん“傷が少ない選択”として立ち上がるかを測っている顔だった。


 七瀬ルカが、校庭の柵にもたれてそれを見ている。

 目が合うと、ルカは小さく笑った。

「黒崎くん、今日はずいぶん器用だね」

「貴様まで何を見ている」

「見えてるものを見てるだけ」

 ルカは曖昧に言って、視線を白世へ戻した。


「でも、分かりやすくなってきた。あの子、誰かを黙らせてるんじゃない。黙りたくなる方を、先に楽にしてる」

「同じことだ」

「少し違うよ」

 ルカは言った。

「自分で選んだ気にさせる方が、あとまで残るから」

 その言葉だけが、妙に冷たく耳へ残った。


 片付けのあと、最後にもう一度だけ走順の調整が行われた。

 仮メンバーの一人に、交代の話が出たのだ。速さではなく、本人が本番を怖がっているという理由で。


 教室へ戻る途中の昇降口で、数人がその話をしていた。責める声ではない。むしろ気遣っている顔ばかりだ。だが、その優しさの向く先が最初から一つに見えて、湊人は足を止めた。

「無理しない方がいいよ」

「当日しんどくなるなら、今のうちに代わった方が」

 言われているのは、目立つのが苦手な女子だった。顔を上げられず、鞄の紐を握っている。

 白世が前へ出る。

「決めるのは本人だけど、怖いなら降りてもいいと思う」

 その言葉は優しい。だからこそ、周囲もそこへ寄る。

 湊人は五秒前へ手を伸ばした。


 今度は昇降口の壁へ貼られた走順表、その端を留めている磁石の位置を、ほんの少しだけずらす。

 次の瞬間、表がめくれ、控えの欄に書かれた名前が半分だけ見えた。

「……あ」


 声を漏らしたのは、ひかりだった。

 全員の視線がそちらへ向く。めくれた紙の下には、控えに回されていた別の女子の名前がある。その子は普段ほとんど前へ出ない。だがひかりは、表を押さえながら言った。


「こっちの子だって、走りたいかもしれないよね」

 その一言で、空気が止まった。


 今までの流れでは、怖がっている子を外すかどうかだけが論点だった。そこへ初めて、“走りたいのに控えに置かれている側”が出てくる。

 白世も、修司も、礼司も、その沈黙を見た。


 やがて、控えの欄にいた女子が小さく口を開く。

「……一回だけなら、走ってみたい」

 消えそうな声だった。

 だが、確かに自分の意志だった。


 白世はすぐには何も言わなかった。言えなかったのではない。ここでいつものように“無理しない方がいい”へ寄せると、今こぼれた小さな意志を、善意で踏む形になると分かったからだ。


 修司が、ようやく息を吐く。

「じゃあ、怖い方を外すかどうかじゃなくて、本人たちがどうしたいかから聞こう」

 礼司が短く頷いた。

「それでいい」

 白世はそこで初めて、穏やかな顔のまま言った。

「……うん。本人が決めるのが一番だと思う」

 間違ってはいない。だが、さっきまでの流れとは少し違う。

 湊人はそのわずかな違いを見逃さなかった。


 日が落ちかけた校舎の影の中で、修司は自販機の前に立ったまま缶コーヒーを開けなかった。

「黒崎」

「何だ」

「お前、今日ずっと何かしてたか」

 まっすぐな問いだった。

 ごまかせない類いの目だと分かる。


「観察だ」

「……白世を?」

「場の流れをだ」

 修司は少しだけ黙り、それから缶を持ち直した。

「助かってるやつがいるのは本当なんだ」

「知っている」

「俺も、正直、何度か助かった。あいつが入ると、抱え込まなくて済む形に戻る時がある」

 その声に言い訳はなかった。ただ事実だけがある。

「でも」

 修司はそこで言葉を切った。


「今日の最後のは、少し変だったな」

 変だった、という曖昧な表現が、修司らしかった。まだ断言はしない。けれど無視もできない。その中間に立っている。

 湊人は鼻を鳴らす。

「ようやくか」

「偉そうだな」

「事実だからな」

 修司は苦笑しかけて、すぐにその顔を消した。

「黒崎。お前が何を見てるのか、まだ全部は分からない。でも、白世の言葉が入った時、誰かの気持ちが楽になるのと同時に、別の誰かの言葉が出にくくなる時がある。それは、たぶん気のせいじゃない」


 そこまで言ってしまえば、もう後戻りはできない。

 修司自身も、それを分かっている顔だった。


 帰り際、校庭脇の通路で、ひかりと礼司とルカが待っていた。

 誰かが呼び集めたわけではない。なのに揃っている。

「神谷くん、何て?」とひかりが訊く。

「ようやく違和感を認めた」

「遅いけど、よかった」

 礼司が壁へ背を預けたまま言う。

「で、黒崎。今日の結論は」

 湊人は少しだけ空を見た。雲が細く流れ、夕方の色がその向こうに沈み始めている。

「白世は、誰かを無理やり従わせてはいない」

「うん」

「だが、その場で最も安全に見える感情へ重みを寄せる。怖い、疲れた、失敗したくない、責められたくない。そういう側へ、全体が自然に倒れるよう整えている」

 礼司が舌打ちではない短い息を吐く。

「やっぱりな」


 ひかりは静かに言った。

「だから、悪く見えないんだ」

 ルカが、その続きのように呟く。

「でも、平和の形って一つじゃない」

 四人とも、そこでルカを見た。

 ルカは肩をすくめる。

「静かなだけの平和もある。みんなが少しずつ諦めて、誰もぶつからない形の平和もある。でも、自分で決めて、ぶつかって、それでも一緒に立つ形だってあるでしょ」

 珍しく、まっすぐな言い方だった。


 その時、通路の向こうから足音がした。

 白世だった。

 こちらに気づくと、彼は少しだけ立ち止まった。逃げもしないし、笑いもしない。ただ静かな顔で、四人を見る。

「何か、分かった?」

 問いというより確認に近い声だった。

 礼司が一歩前へ出ようとしたが、湊人が先に口を開いた。

「貴様は、失敗しない方へ場を寄せている」

 白世は否定しなかった。

 少しだけ目を伏せ、それから言う。

「失敗して傷つく人が減るなら、その方がいいと思ってる」

 ひかりが、白世の顔をまっすぐ見る。

「でも、それで言えなくなる気持ちもあるよ」

「あるかもしれない」

 白世はあっさり認めた。


「それでも、誰かが潰れるよりはいい」

 柔らかい声なのに、そこだけ硬かった。

 その硬さが、今まででいちばんよく見えた。

 白世勇人は善意で動いている。助けたいと思っている。だがその善意は、傷を減らすことを優先するあまり、意志の尖りまで丸くする。

 白世は静かに言った。

「失敗しないことのほうが、大事な時もあるから」

 それだけ残して、先に歩き去る。

 夕方の風が通路を抜け、誰もすぐには口を開かなかった。


 やがて礼司が低く言う。

「あいつ、本気だな」

「うん」と、ひかりが答える。

 修司はいない。それでも、ここへ至る途中でようやく違和感を言葉にし始めたことを思えば、盤面は少しだけ変わった。


 湊人は白世の消えた先を見る。

 もう、ただ見ているだけでは足りない。


 あの男はこれからも善意の顔で、怖れの少ない方、傷の浅い方、失敗しない方へ場を寄せてくるだろう。ならばこちらは、そのたびに何が削られているのかを見極めなければならない。

 悔しさか。誇りか。勝ちたいという熱か。

 あるいは、誰にも見えないほど小さくこぼれる「やってみたい」の一言か。


 黒崎湊人は静かに目を細めた。

 五秒で変えられるのは一点だけだ。

 だが一点で足りる時もある。


 流れを止めるためではない。誰かの意志が、善意の平坦さへ沈む前に、そこへ光を当てるために。

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