第8話 セツナとトキ
その言葉にどう返すべきか迷っていると――
ぐうぅぅ、と。
静かな部屋に、情けないほど大きな腹の虫の音が響き渡った。
「……っ」
俺は思わず腹を押さえ、顔を背けた。せっかく格好をつけて感謝と謝罪を口にした直後だというのに、台無しだ。
女は可笑しそうにクスリと笑うと、先ほど紫陽花の紅茶を運んできた方へ歩きながら言った。
「作り置きしていた物があるんだ。でも、君の口に合うかどうか……」
返事をする間もなく、彼女は奥へと行ってしまった。
手際よく鍋と食器をカタカタと鳴らし、料理を進める音が聞こえてくる。
手持ち無沙汰になった俺は、腰かけていたベッドからなんとか立ち、改めて部屋の中を見渡した。目につくのは、やはり見たこともない異質な物ばかりだ。
床から壁にもたれ掛けてある弦楽器は、糸が途中で切れてしまっている。木彫りは普通の動物のものだけだと思っていたが、よく見ると変異体を象ったものまであった。中には俺の腰ほどまで大きいものもある。
天井を見上げれば、見たこともない鳥の羽や、風もないのにカシャカシャとかすかな音を立てる金属のお守りが何十も吊り下げられていた。壁の棚には、妖しく光る鉱石や、怪しい液体が満たされた色の違う小瓶などがぎっしりと並んでいる。
まるで、世界のあらゆる古物と呪術を集めて詰め込んだような部屋だ。
普通の人間なら、この混沌とした不気味な空間に気圧されていただろう。
だが――俺は違った。
湧き上がってくるのは恐怖ではなく、抑えきれない好奇心だった。この世界は腐っても異世界、遺物や古い骨董の類には目がなかったのだ。
「すごい……」
思わず、感嘆の声が漏れ出ていた。
やがて香草の癖のある香りと、肉を煮込むような温かい匂いが漂い始めていた。ふと、料理の音が響くキッチンの方へと視線を向ける。だが、その反対側にある窓へ目をやった瞬間、俺の思考は完全に停止した。
そこには、思わず言葉を失うような風景が広がっていた。
——青々とした草原だ。
体の重さが一気に吹き飛び、窓際まで足早に向かう。
瘴気に汚染され、枯れ果てた灰色の廃墟ばかりを見てきた俺の目に飛び込んできたのは、風に揺れる青々とした草原だった。陽の光を浴びて緑が眩しく輝いている。エレボスにこんな場所が残されていたなんて、信じられなかった。
「綺麗だろう。ここだけは、昔のままなんだ」
窓の外に見入っていた俺の背後から、静かな声がかけられた。
「……これはいったいどういうことだ」
俺は窓の外を指差し、女に問う。
「外はどこも瘴気に塗れて、植物なんてロクに育たない荒廃した世界だ。なのに、なんでここだけに緑がある? あんた、何者だ?」
この空間そのものが、何か恐ろしい幻覚や罠なんじゃないかという疑念が頭をよぎる。
だが彼女は困った様子もなく、両手に持った湯気の立つ器が乗ったお盆を少しだけ持ち上げて見せると、淡々とした調子で話し始めた。
「説明なら、あとでゆっくりするよ。難しい話をする前に、まずは一緒にご飯を食べないかい?」
あまりに拍子抜けな返しに、言葉が詰まる。
「温め直してきたんだ。さあ、冷めないうちに食べよう。腹が空いていては身が持たないだろう?」
そう言って彼女は、部屋の真ん中にあるテーブルの上に手際よく器を並べていく。どこか楽しそうに、けれど逆らう隙を与えない不思議なマイペースさがあった。
「そういえば、まだ自己紹介が済んでいなかったね」
器を置き終えた女が、ふと立ち止まって俺を見た。
「私はセツナ。しがない……なんと言えばいいか、まあ、しがない魔術師のようなものだよ」
歯切れの悪い言い回しに違和感を覚えたが、追及するのは今更だ。
「……俺はトキだ」
名乗り合った、瞬間。
「「いい名前だ(ね)」」
見事に言葉が重なった。お互い、ただの社交辞令だったというべきか。
だが、一瞬ポカンと互いの顔を見合わせ、直後に不意を突かれたような気恥ずかしい空気が流れた。
「よ、よし! 冷めないうちに食べよう!」
セツナは照れを誤魔化すように慌てて席についた。
「あ、ああ……」
俺も戸惑いつつ、促されるまま向かいの椅子に腰を下ろした。
目の前のテーブルに並べられているのは、使い込まれた素朴な木碗だ。縁には掠れた花の模様が彫られている。中には、見覚えのない不揃いな根菜と、塩漬けの肉をドロドロになるまで煮込んだスープ。脇の木皿には、妙に黒くて硬そうなパンの切れ端が添えられていた。
木碗からは強烈な湯気が立ち上っている。
香草のくせのある香りと、ガツンと鼻腔をくすぐる塩気のある肉の匂い。それだけで、乾いていた口の中に生唾が呑み込めた。
コト、とスプーンが器の縁に当たる軽い音が響く。
……そういえば、だれかと一緒に温かい食事を囲むなんて、一体いつ以来だろうか。
俺は添えられていた無骨な木製スプーンを握り締め、ゆっくりとスープをすくって口に運んだ。
「……っ」
濃い。
日本の家庭料理や繊細な出汁文化に慣れていた俺からすれば、舌が痺れるほどに塩気が強く、スパイスの癖も強い。
でも――うまい。
身体にしみわたっていく。冷え切っていた胃袋が、内側から熱を帯びていくのが分かった。
ふと向かいに目をやると、セツナが静かにスープを口に含んでいた。
無骨にスプーンを口に運ぶ俺の動作とも違う。スプーンが器に触れる音すらほとんど立てず、背筋をスッと伸ばしたまま、一口ずつ品良く味わっている。
食べ方だけは、妙に綺麗だった。
過酷なこの世界には似つかわしくない、どこか遠い昔の貴族か何かのような、身体に染みついた洗練された所作。正体は分からないが、彼女が重ねてきた気の遠くなるような時間の欠片が、その手つきに表れているようだった。
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