第7話 優しい人
ゲホゲホと激しく咽びながら、俺は床にぶちまけられたお茶の跡を凝視した。紫陽花の葉や蕾には有毒成分が含まれている。そんな基本的な知識は俺でも知っている。
「何をそんなに慌てているんだい?」
床を派手に濡らした俺を見て、女は不思議そうに首をかしげた。
「当たり前だ! 紫陽花は毒だぞ! そんなこと俺でも知ってる!」
「ふふ、もちろん紫陽花に毒があることくらい重々承知しているよ」
申し訳なさそうにするどころか、女はくすりと小さく笑うと、ティーカップを手に取って淡々と語り始めた。
「でもこれはただの紫陽花の茶じゃないんだ。他の葉や薬草を独自に調合して作った特別なものでね。毒性を打ち消しつつ、効能だけを引き出しているのさ」
彼女は聞き覚えのない薬草の名前や、魔術師の本を参考にしたという経緯を涼しい顔で説明していく。
……俺を驚かせて楽しんでいるのか、それとも本当に平気だと思っているのか。
俺は荒い息を吐きながら胸元を押さえた。
……そこで、ふと異変に気づく。
(……待てよ?)
吐き出したお茶はほんの一口分、それもほとんど飲み込まずに吹き出したはずだ。
だが、不思議なことに体が軽くなっていることに気づいた。
あれほど体を苛んでいた激しい倦怠感と、頭を殴られたような重い頭痛が、嘘のように引いていた。それどころか、生命力を削って魔術を使った後の、あの独特な不快感すら和らいでいる。
「体の奥のくすぶり……少しは楽になったでしょう?」
女の金色の瞳が、透き通るような静けさで俺を見つめていた。
「君の使った魔術は、命を削る歪なものだ。そのまま放っておけば、身体が内側から崩れていたかもしれない。……だから、少しでも負担を和らげたくて淹れたんだよ」
「……っ」
その一言に、言葉が詰まった。
この女は、俺が使った術の異質さも、その代償も、すべて見抜いていたのだ。
単に怪しいお茶を飲ませようとしたわけではない。俺の満身創痍な体を本気で案じて、わざわざこの調合茶を準備してくれたのだと悟る。
それなのに俺は、お茶を床にぶちまけてしまった。
湧き上がってきたのは、自分自身の余裕のなさと不躾さに対する、強い苦々しさだった。
俺は思考を巡らせながら、ベッドの端へ足を下ろすと、ゆっくりと立ち上がろうとした。
――ガクッ。
一瞬、強いふらつきに襲われ、体が大きくよろめく。
「あっ……!」
女は心配した面持ちで、近寄って支えようとしたみたいだった。だが、伸ばしかけたその白い手は、俺の体に触れる直前でピタリと止まる。
先ほど俺が彼女の接近を拒絶し、反射的に手を差し向けたときのことが、尾を引いているのだろう。女は気まずそうに、すぐに手を引っこめた。
「……大丈夫だ、ありがとう」
まだ満足に立てそうにはない。俺は無理をせず、再びベッドへ腰かけた。
呼吸を整えながら、膝の上の手を置き、視線を落とす。
この世界に来てから、ずっと警戒と猜疑心だけで身を固めてきた。誰も信用せず、誰も寄せ付けず、生き残ることだけを考えてきた。
だが、倒れた俺を運んで介抱し、命を削った身体を心配して茶を淹れてくれた相手に対して――この無礼な態度のまま過ごすのは、俺自身の矜持が許さなかった。
俺は無意識のうちに背筋を伸ばし、視線を上げた。
どの世界に行こうと、体に染みついた「礼儀」の習慣は抜けないらしい。
「……すまない」
ぽつりと、掠れた声が漏れた。気の利いた言い回しなど思い浮かびもしない。柄にもないと思ったが、変に繕うのを諦め、俺は覚悟を決めて思ったままを口にした。
「お茶をぶちまけたことも、毒だと決めつけたことも、俺の不躾だった。それから、廃教会で倒れた俺をここまで運んで介抱してくれたこと、感謝する。お前がいなければ、俺はあそこで死んでいたかもしれない」
不器用で、硬苦しい言葉だったかもしれない。それでも、自分の非を認め、素直に頭を下げた。
警戒を解いたわけではない。正体も目的も不明なままだ。それでも、人として通すべき筋だけは通したかった。
すると、女は一瞬だけ呆気にとられたように目を丸くした。
そして――どこか愛おしそうな、すべてを見透かすような柔らかな微笑みを浮かべた。
「ふふ……君は、優しい人なんだね」
ここまで読んでいただきありがとうございます!




