第6話 紫陽花の紅茶
意識が戻ったのか戻っていないのか分からないが、瞼が重く開けられなかった。
ゆっくりと体を動かしてみると、何かに重く押さえつけられているような感覚に襲われる。
口の中に不快な鉄の味が広がっていた。自分が吐いた血の匂いもする。
だが、ありがたいことに、その嫌な臭いはすぐに別の香りに上書きされた。紅茶だろうか。雨上がりの濡れた葉のような少し青くさい香りと、どこか古びた花のような甘い香りが混ざり合っている。……不思議な匂いだ。
本のページをめくる静かな音。
時折鳴る、カチャリと小さく食器が擦れる音。
そしてパチパチと薪が爆ぜる音。
この泥と瘴気に塗れた世界に来てから、これほど乾いた暖かさはいつ以来だろう。ずっとこうしていたいとさえ思えた。
(確か……廃教会で変異体と交戦して、肉木に変えて……いつものように気絶したのか)
それにしても、床が柔らかい。
固い石畳や湿った泥の上に倒れたはずなのに、背中に感じるのはふわふわとした心地よい感触だ。絨毯でも敷いてあっただろうか。それにしては、いくらなんでも柔らかすぎる。
その違和感のおかげで、自然と重たい瞼が開いた。
視界はまだ朦朧としているが、見慣れない天井があった。初めて足を踏み入れた廃教会で倒れたのだから当然か。
いや――教会にしては天井が低い。木材で組まれた天井からは、異国風の怪しげな飾りがいくつかぶら下がっている。
(――まずい)
無理やり体を起こしかけると、そこは見知らぬ室内だった。
小さな薪ストーブの前に、ひとりの女が座っている。
一瞬で体が熱くなり、警戒心が跳ね上がるのを感じた。意識が完全に戻った。
幸い、女との距離はある。だが、体が悲鳴を上げて言うことを聞かない以上、下手に動くべきではない。
服は見たことのない新しいものに着替えさせられており、腰元にあるはずの装備類もない。当然、小枝の入った革ポーチも手元にはなかった。
焦っても仕方がない。
息を殺してあたりを見渡すと、見たこともない物品ばかりが目に付いた。床には見慣れない弦楽器や動物の木彫り、壁の棚には小さな人形や怪しく光る鉱石が並べられている。
女は読んでいた革装本に栞を挟んで閉じると、テーブルの上へ静かに置いた。
そして、しずしずとこちらに向かって歩いてくる。
危険な物は持っていない。それ以前に、殺気や敵意の類が一切感じられなかった。
外見は二十代半ばか、それ以上。
深みのある暗緑のロングコートドレスを揺らしている。透明感のある白い肌に、直線的に切り揃えられた綺麗な黒髪。この世界に来て初めて見るロングウルフカットだ。
女は少し表情を強張らせ、口を開いた。
「あなたにお話があります……いいですか?」
「……?」
返答代わりに、困惑と強い警戒の混じった視線を向ける。
すると女はその視線すら全く意に介さない様子で、のそりとベッドの上へ登ってくると、俺の足元で整然と正座をした。
(……おい、何なんだこの女は)
すーっ、と大きく深呼吸をひとつ。
彼女は頬を上気させ身を乗り出し、少し荒い息を吐きながら、真剣そのものの目で俺を直視してきた。
「さっきあなたのパンチを喰らったとき、感じたんです……!『あ、これやばいやつだ』って!」
「……」
「どうか落ち着いて聞いてください……!」
「……」
「私を……私を、もう一度殴ってください!!」
数秒間、まばたきを忘れて固まった。
「……は?」
開いた口が塞がらないとはよく聞くが、人生で初めて味わった。
間違いなく、自分の人生の中で最も間抜けな顔をしてしまっている自覚がある。
逆に女の方は、いたって真剣そのものの目つきだ。その瞳は妖しく、黒色に光り輝いている。
思わず遠い目をすると、部屋の隅にいる黒い犬が視界に入った。そいつも驚いたように口を開けたまま静止している。おそらく俺も、今あんな顔をしているのだろう。
「えっと、起きたばかりだからよく分からないよね、ごめんごめん」
女は体を引っ込めると、左手で肩にかかる髪をいじりながら軽い調子で謝ってきた。
急に距離が近くなったからなのか、理由は分からないが、女の目を見つめていると体がひどく重く感じた。目の前の女が纏う空気が、あまりにも冷たく重すぎる。
恐れに近い感覚。
ただの人間ではない。
「分かった、とりあえずベッドから――」
「分かった!? 分かったって言った!?」
ベッドから降りてくれ、と言おうとしたが途中で遮られた。
興奮した様子で、女が再度ぐっと身を乗り出してくる。あまりの勢いと距離の近さに、その瞬間、頭で考えるより早く、右の手のひらが弾かれるように飛び出していた。
――ッ。
当たる直前、寸前でなんとか踏みとどまった。
かざした手が頬の先数センチに迫っても、女は瞬き一つしなかった。避ける素振りどころか、恐怖の色すら微塵もない。かわりにその金色の瞳を期待に爛々と輝かせ、じっと俺の目を見つめていた。
「……すまない、とりあえずベッドから降りてくれ」
ハッと我に返ったように、女は身を引いた。どうやら冷静になってくれたらしい。
「こちらこそごめんなさい」
ベッドから降りながらそう呟くと、彼女は脇にある木目の椅子に静かに腰掛けた。
ようやく落ち着けると思った矢先、ゲホッと激しい咳が込み上げた。口の中に残る嫌な鉄の味。
(そうだ……あの巨大な変異体を肉木に変生させて……最後にあの樹から『助けてくれて、ありがとう』と声が聞こえて……そこで意識が途切れたんだ)
「大丈夫……? あっ、そうだ、何か飲み物を……」
こちらに堂々と背を向けてキッチンへ向かうあたり、敵意がないのは確かだろう。依然として女の纏っている気配には人間離れした違和感を覚えるが、状況的に見れば、俺をあの廃教会から自分の隠れ家にまで運んで介抱してくれたのだ。
思考を巡らせていると、女が湯気の立ったティーカップをお盆に乗せて戻ってきた。
「これ、良かったらどうぞ。お口に合うといいのだけれど」
手元にそっと差し出される。
「えっと……ありがたいが……」
いくら助けてくれた命の恩人とはいえ、見知らぬ家で、正体のわからない相手が持ってきた飲み物を素直に口にできるほど、俺の神経は図太くできていない。
「そうだよね……熱いのは飲めないよね」
「違う、そうじゃない」
的外れな配慮に、思わずツッコミを入れてしまった。
「えっと……」
女は心底困惑した様子で、どこかわびしそうな顔を浮かべている。その表情を見せられると、こちらまでなんだか悪いことをした気分になってくる。
「……ありがたくいただくよ」
声をかけると、女の顔がパッと明るくなった。嬉しそうにティーカップをソーサーごと差し出してくる。
正直、いろいろな意味で警戒心は拭えない。だが、俺に何か毒でも盛る気なら、気絶している間にいくらでもチャンスはあったはずだ。腹を括って受け取ることにした。
「……あつっ!」
めちゃくちゃ熱かった。
だが、なんとか一口分、口の中で転がすようにして呑み込んだ。すべてとは言わないが、口の中にこびりついていた血の味が洗い流されていく。味は――熱すぎてよくわからなかった。
「何の紅茶なんだ?」
少し得意気な顔をしながら、女は胸を張って言った。
「私特製のスペシャルな紅茶です!」
「そのスペシャルが何なのか知りたいんだが……」
「紫陽花の紅茶です!」
「ブブゥゥゥゥ!!」
呑みかけのお茶を派手に吹き出していた。というより、吹き出さざるを得なかった。
「毒じゃねーか!!」




