第5話 巡礼者の影
呼吸の音すら、ここでは無駄な毒になる。
『エレボス旧市街・南の大回廊』を見下ろす半崩壊した教会――その二階、打ち捨てられたパイプオルガンの巨大なパイプの影に、私はちょこんと腰を下ろしていた。
雨に濡れた髪も気にせず、抱き寄せた愛犬・ゴーマの頭を撫でながら、下階の静寂をじっと見つめていた。
私がここへ来た理由なんて、ひどく単純なものだ。
検問所でいばっていた甲冑の兵士たちがうるさかったから、血の巡りをちょいと止めておとなしくさせ、そのまま逃げてきた。
それに……わざわざ旧市街の粗末な仲介屋に「この教会に凶悪な吸血鬼が潜んでいる」なんて嘘の噂を流しておいたんだから。
私を殺しにやってくる「誰か」を待つには、ここが一番のおあつらえ向きだった。
けれど、やってくる人間は誰もかれも退屈で、弱くて、私のこの死ねない身体に傷一つ残せない者ばかり。
剣で斬られれば、傷は塞がる。
毒を飲めば、吐き出す。
首を落とされても、しばらくすればまた動く。
炎に包まれても、灰になった身体はやがて元へ戻る。
だから最近は、殺されるために何をすればいいのか考えることすら面倒になっていた。
昔は違った。
もっと必死だった。
何十年か前には、まだ「今度こそ」と思っていた。
百年を越えた頃には、殺してくれる人間を探すことに疲れた。
二百年を越えた頃には、年数を数えることもやめた。
それでも、身体だけは律儀だった。
朝になれば目を覚ます。
腹が減れば食べる。
雨が降れば濡れる。
傷つけば治る。
眠らなくても死なないくせに、眠ることだけはできる。
死ねない身体というのは、案外そういうつまらないことばかりを覚えている。
私は無意識に、自分の手首を指でなぞった。
そこには何の傷もない。
昔、何度も刃を当てた場所だ。
傷跡すら残っていない。
「……つまんないなあ」
小さく呟くと、ゴーマが顔を上げた。
「どうしたの?」
返事はない。
当たり前だ。
私は苦笑して、その耳の裏を撫でた。
この子だけは、昔から変わらない。
……いや。
変わった、変わっていくんだ。
ゴーマはこれからも歳を重ねていく。
私の方が、その変化を忘れられないだけだ。
だから私は、もうゴーマの年齢を数えないことにしている。
数えたところで、私だけが残る。
それが嫌だった。
一階の陰で雨を凌ぎながら、今日も溜息をつこうとしていた――その時だった。重々しいアーチ門をくぐり、一人の青年が雨を切るように駆け込んできた。
胸の奥で小さく息を呑み、視線を注ぐ。激しく降りしきる雨の中を走ってきたはずなのに、乱れの少ない確かな足取り。
深く被ったフードの隙間から、雨に濡れた黒いくせ毛がわずかに覗いている。レザーのアルスターコート、腰元を引き締める使い込まれた革ポーチや装備帯。実用に特化した旅人であることを無言で物語っていた。
この街の現地人が好む無駄に分厚い甲冑とは違う、まだ若さの残る細い体を隠すような、無駄のない武骨なシルエット。そして、両手を隙なく覆う黒のレザーグローブ。
ここにある何物にも染まっていない、洗練された「異質な空気」を纏っていた。
なぜだろう。理由は分からないけれど、私は不思議とまばたきすら忘れてじっと見入っていた。
青年は教会の奥――講壇の前で足を止め、くるりと向き直った。二階の私の位置からは彼の背中と側頭部しか見えず、どんな顔をしているのかまでは分からない。
けれど、背中から漂う異様なまでの「隙のなさ」だけは伝わってきた。
(やっと来た……)
立ち上がろうとした、次の瞬間だった。
ガァァァンッ!
「ギシャアアアアッ!」
凄まじい破壊音とともに観音扉が粉々に吹き飛び、巨大な多脚の変異体が乱入してきた。黒く強固な甲殻を軋ませ、腐蝕液を吐き散らしながら長椅子を溶かしていく。
ムカデ型の変異体だ。
大顎を開いて迫る巨躯に対し、青年は身じろぎ一つせず、逃げ出す素振りすら見せない。
ジャケットの裏から取り出した二本の短い小枝に手をかざすと、不気味な音を立てて細胞が凝縮され、一瞬にして二つの『木の短剣』へと姿を変えた。
「へえ……自分の生命力を燃料にして、植物を咲かせる術か。こんな戦い方をする人間、久しぶりに見たな」
青年は講壇の石柱を蹴って頭上へ躍り出た。巨躯の首元へ短剣を深く突き立て、滑り降りながら節足を一気に削ぎ落とす。
体勢を崩した化け物が悲鳴を上げて柱へ激突した。よろめきながら着地すると短剣を投げ捨て、地面にバンと両手を合わせる。
直後、石畳の隙間から数百本ほどのツルや根が、狂ったように跳ね上がり巨大なムカデを力任せに拘束した。
そして迷いなく踏み出し、動きを封じられた変異体の胸元――その肉の中心部へ、拳を深く突き刺した。
凄惨な剥離音が聖堂全体に響き渡る。
変異体の内側から肉と木が交ざり合い、禍々しい甲殻が剥がれ落ちて、代わりに肉の質感を持った樹皮が芽吹いていく。
あっという間に巨木へと姿を変え、崩れかけている天井の穴を塞ぐように青々とした枝葉を広げた。腐臭が嘘のように消え去り、廃聖堂には冷気と湿った森林の匂いが満ちていく。
すると、芽吹いたばかりの巨木から、風の鳴るような掠れた声が静かに響いた。
――助けてくれて、ありがとう。
まるで天に上るかのように、やさしい声は静かに消えていった。
(まさか……自分の生命力を削って、調整体の存在構造を書き換えたの……!?)
パイプオルガンの影で、私はその信じがたい光景を、息を詰めて見つめていた。
ただの植物魔術じゃない。
現代の魔法でもないし、古代ナザリエルの魔術にもなかった。
己の生命力を薪にして、対象の構造そのものを塗り替えてしまう術が存在するなんて――。
直後――青年が大量の赤黒い血を吐き、耐えかねたように石畳へ膝から崩れ落ちた。
(――ちょっと、冗談でしょ!?)
私はパイプオルガンの影から跳ね起きると、吹き抜けの下へ飛び降りた。石畳に倒れた青年の肩を掴み、勢いよく仰向けにさせて体を揺さぶる。
「だっ……大丈夫!?」
「ゲホッ……ガハッ……!」
青年はさらに血を吐き、半開きの目のまま弱々しく呟いた。
「……お前……は……?」
「よかった、意識はあるんだね!」
「……ああ」
返事と同時にガクリと頭が垂れ下がった。
私は焦って彼の頭を両手でガシッと掴むと、さらに激しく揺さぶってみた。
「眠っちゃダメだよ! しっかりして、私が来たからもう大丈夫!」
グラグラと振り回される青年の頭を見て、ゴーマが焦ったように私の袖をガブガブと噛んで止めようとするが、それどころではない。
「だいじょ――」
「――大丈夫なわけ、あるかぁぁぁ……!」
ポスッ。
青年の力ない拳が、私の腹部に弱々しくめり込んだ。
――その瞬間、全身の血が凍りつくような感覚が走った。
「……っ!?」
拳を通して、彼の体内に残っていた『あの術』の余波が、わずかに私の身体へと流れ込んできたのだ。
ほんの数滴の魔力。
掠れるような理の干渉。
けれど三百年もの間、どんな刃も、どんな呪いも傷一つつけられなかった私の身体が――ほんの一瞬、あの巨木がそうなったように、穏やかな無へと溶けていきそうになった。
痛みでも、破壊でもない。
私の魂の根底を優しく撫で上げるような、静かな救済の理。
(……あぁ、そうか)
指先が震えた。
嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からない。
ただ、私は反射的に自分の腹部へ手を当てていた。
何もない。
傷もない。
いつもと同じ、死ねない身体。
なのに、さっきだけは違った。
三百年のあいだ一度も届かなかった場所に、初めて何かが触れた。
それだけで十分だった。
肌が粟立ち、胸の奥でこれまで感じたことのない衝動が跳ね上がった。
見間違いでも、錯覚でもない。
目の前に転がるこの青年は、本当に私の終わらない生の理を書き換え、終わらせてくれるかもしれない。
「かもしれない」。
その言葉だけで、十分だった。
三百年もあれば、「絶対」なんてものを信じなくなる。
何度も期待して、そのたびに朝を迎えてきた。
だから私は、もう奇跡を信じていなかった。
けれど今だけは。
ほんの少しだけ、信じてもいい気がした。
私の退屈を、この終わらない生の呪いを解き放ってくれるかもしれない希望。
胸の奥で三百年ずっと凍りついていた時間が、ほんの少しだけ動いた。
どんな魔法も、古代ナザリエルの秘術すらも、私を解き放ってはくれなかった。
それでも――この青年なら。
生命の理すら書き換えてしまうあの魔術なら、私のこの終わらない生だって、綺麗に終わらせてくれるかもしれない。
「……ゴーマ。行こうか」
語りかけると、ゴーマは少し困ったような短い声を返し、ランタンの灯火を揺らした。
冷たい石畳の上に倒れ伏す青年をひょいと軽々と担ぎ上げ、私は確信に満ちた足取りで廃教会を後にした。
目が覚めたらなんて声をかけようか、と考えを巡らせながら歩く。
三百年前なら、こんな状況ではもっと慌てていたかもしれない。
百年前なら、もっと喜んでいたかもしれない。
今の私は――ただ、確かめたかった。
本当に、この人が私を終わらせられるのか。
雨の降る薄暗い街並みを抜けて、私は青年をアジトの部屋へと運び込んだ。
どれほど時間が経っただろうか。
窓の外を濡らす雨音が、静かな室内を満たしている。
やがて、ベッドの上に横たわっていた青年の薄い唇から、かすかな呻きが漏れた。
固く閉ざされていた瞼が微かに震え、ゆっくりと開かれる。
朦朧とした焦点が定まらない眼差しで、見覚えのない天井をしばし見上げ――直後、その瞳の奥に鋭い警戒の光が宿った。
体を苛む強烈な衰弱感があるだろうに、彼は息を潜めたまま、瞬時に戦闘態勢へと思考を切り替えたようだった。
黙りこくったまま視線だけを動かし、極力周囲に悟られないよう部屋の様子を探っている。腰元や胸元へと走る微かな視線。
自分が身に着けていたはずの革ポーチや装備類を探しているのだろう。その無駄のない警戒心を、私はベッドから少し離れた椅子で静かに見守っていた。
パタン。
読んでいた古い革装本をそっと閉じ、テーブルの上へと置く。その小さな音に、青年の視線が鋭く私をとらえた。
私は椅子から立ち上がると、しずしずとベッドのそばへ歩み寄った。そして、大真面目な顔で静かに口を開く。
「あなたにお話があります、いいですか?」
「…………?」
困惑の混じった警戒の眼差し。
私はその視線を受け止めながら、ゆっくりとベッドの上へと登り、彼の足元で整然と正座をした。
すーっ、と大きく深呼吸をひとつ。
胸を張り、真剣そのものの目で彼を直視する。
「さっきあなたのパンチを喰らったとき、感じたんです。『あ、これやばいやつだ』って」
「……」
「どうか落ち着いて聞いてください」
「……」
「私を、もう一度殴ってください」
青年は数秒間、固まったようにまばたきをした。
「……は?」
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