第4話 肉木変生
だが、思考を巡らせる余裕はなかった。
上着の裏から十五センチほどの枯れた小枝を二本抜き取り、黒い革手袋越しに意識を沈め込む。
(芽抜け。芯を絞れ。硬度を鋼へ――)
一般的な植物魔術の術式に、俺独自の改変を加える。自らの生命力と引き換えに絶大な威力を叩き出す歪な魔術――『肉木変生』。
ミチミチと不気味な脈動音とともに、枯れ木の細胞が爆発的に凝縮・再配列され、一瞬にしてふたつの無骨な『木の短剣』が形成された。
だが、これだけでは足りない。
あの甲殻は厚い。
正面から斬り込めば、こちらが先に腐食液を浴びる。
それに、肉木変生で直接構造を書き換えるには、対象に触れなければならない。
つまり、あの巨体をただ倒すだけでは意味がない。
一瞬でも動きを止め、最も危険な中心部へ接触する必要がある。
ならば、まず脚を奪う。
俺は周囲を見回した。
崩れた柱。
腐食して脆くなった床。
天井から垂れ下がる古い蔓。
使えるものは、まだある。
「来い」
大顎を開いて迫る巨躯。俺は講壇の石柱を蹴って頭上へと躍り出た。
空中から狙うのは甲殻の継ぎ目。両手の短剣を首元へ深く突き立て、体重をかけて滑り降りながら、そのまま側面の節足を一気に削ぎ落とす。
「ギガアアアッ!?」
体勢を崩した巨躯が悲鳴を上げて柱に激突した。
だが、倒れない。
むしろ怒り狂ったように身をよじり、腐食液を周囲へ撒き散らす。
「……まだだ」
床が泡立つ。
革靴の先を掠めた液体から、嫌な煙が立ち上った。
一歩遅れていたら、足ごと持っていかれていた。
俺は後退しながら、もう一度距離を測る。
肉木変生は便利な術じゃない。
生命を削って結果を奪う。
使えば使うほど、俺自身が帰るための時間まで削れていく。
だからこそ、無駄にはできない。
一度で終わらせる。
そのために、ここまで誘い込んだ。
着地と同時に崩れ去る短剣を投げ捨て、俺は地面に両の手の平を勢いよく合わせた。
――バン。
鈍い音が響く。
直後、石畳の隙間から数百本のツルや根が狂ったように跳ね上がり、空中で密に編み込まれ、暴れるムカデの巨躯を力任せに縛り上げ、その動きを完全に封殺した。
それでも巨体はなお暴れ続け、ツルが一本、また一本と千切れていく。
俺は腐食液で泡立つ講壇を踏み越えて近づき、動きを封じられたムカデの胸元――肉が蠢く中心部へ、躊躇なく拳を突き刺した。
命の輪へ還れず、狂気に暴れていた変異体へ、直接魔術の回路を繋ぎ合わせる。
『樹木変生』――。
その瞬間、相手の中にある異常な生命の流れが濁流のようにこちらへ逆流してきた。頭の奥が焼け、心臓が激しく跳ねる。
重い。
気持ちが悪い。
無数の命が、終われないまま絡み合っている。
それを一本ずつほどいていく。
肉木変生は破壊ではない。
終わらせるための術だ。
だからこそ、相手の命の形を読み違えれば、俺の方が飲み込まれる。
頭の奥が焼ける。
心臓が跳ねる。
それでも手を離さない。
――帰れ。
命の輪へ還れず苦しむこいつを、本来あるべき場所へ。
そして、口にした瞬間だけ、胸の奥に別の何かが触れた。自分自身もまた、ずっと帰りたいと願い続けているのだと。
だからこそ――こいつにも帰らせる。
「帰れ」
凄惨な剥離音が聖堂全体に木霊した。
ミチミチミチ、と肉と木が混ざり合う音。禍々しい甲殻が剥がれ落ち、代わりに肉の質感を持った樹皮が芽吹いていく。苦悶に歪んでいた化け物の表情が力を失い、まるで深い祈りの中で眠りにつくかのように、静かに和らいでいた。
強烈な腐臭が嘘のように霧散し、代わりに満ちてきたのは冷気と湿った森林の匂いだった。
変異体は、浄化の樹木――『肉木』へと生まれ変わり、世界の大きな命の輪へと組み込み直されていく。
肉木は天を目指して太い枝を伸ばし、青々とした緑の葉を茂らせていく。崩れたドーム天井を突き破り、大木は聖堂の中央で堂々とその枝葉を広げた。
その時、芽吹いたばかりの肉木から、風の鳴るような掠れた声が静かに響いた気がした。
――助けてくれて、ありがとう。
まるで天に上るかのように、やさしい気配は静かに消えていった。
天窓からの雨粒とステンドグラスの光を反射し、廃教会は一瞬にして静寂と生命に満ちた『聖域』へと変貌を遂げた。
だが、その奇跡的な光景を眼前にして――俺の身体に激震が走った。
「……ッ、ガハッ……!」
強烈な眩暈が頭を殴りつけた。猛烈な吐き気とともに口から赤黒い血が溢れ出し、膝がガクガクと崩れる。
己の生命力(寿命)を直接燃料にし、世界の理を書き換える禁忌の術式。代償は免れない。
(……くそ、やっぱり削りすぎたか……)
視界が急速に赤く染まり、暗転していく。
二階のパイプオルガン跡から漂う「世界の理から浮いた不気味な気配」の正体を確かめる余力すら残っていなかった。
手足を動かす力すら失われ、両膝をついてそのまま冷たい石畳へ倒れ伏しながら、俺の意識は深い闇の中へと落ちていった。
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