第3話 変異体
胸ポケットから旧市街の仲介屋から受け取っていた湿った紙切れを取り出した。そこには『廃教会周辺・潜伏する吸血鬼の討伐』の文字と前払いの金貨の数などが淡々と記されている。
こんな汚泥の街にいつまでも長居するつもりはない。目的を果たしたらすぐに出ていこう。
そんなことを考えていると皿を下げに来た店主が、声を潜めて呟いた。
「……すまねえな、店の中で『変異』でもされたら商売あがったりだ。助かったよ」
「礼なら、まともなスープの一杯でも寄こせ」
「違いの分かる口なら別の店に行きな」
店主は苦笑いしながら器を引くと、思い出したように周囲を窺い、さらに声を落とした。
「そういや……お前さん、ここには何しに来たんだ? あんたも転移者だよな?」
「そうだ」
「なら、少し気をつけた方がいいかもしれねえ。さっき入ってきた客も言ってたんだが……仲介屋で『吸血鬼討伐』の依頼を聞きつけた連中が、廃教会に踏み込んだきり行方不明になってるらしい」
「……行方不明?」
「ああ。東の検問所側でも妙な騒ぎがあったって話だしな。ただの吸血鬼なんだか、凶悪な変異体が潜みついたんだか分からねえが……とにかく近づかねえ方が身のためだぜ」
仲介屋がよこした吸血鬼討伐というめずらしい依頼。前払いの金貨につられて引き受けた仕事だったが、どうやら一筋縄ではいかないらしい。
俺は無言で冷めきった器を見つめた。
賞金稼ぎや冒険者が踏み込んで戻らないとなれば、相応の理由があるはずだ。
――俺は席を立った。
普通の吸血鬼ではないということだろう。中級なら関わらずに引き返した方がいい。
思考を巡らせていた、まさにその時だった。
――ズウン。
足底から響く、重く鈍い地鳴り。
卓上に置かれた木杯の水面が、不自然な波紋を広げた。天井の剥げ落ちた石膏から、干からびたホコリがチラチラと舞い落ちる。
「……ッ、なんだ!?」
店主が目を見開いて天井を見上げる。
「変異体か」
俺の呟きは小さかったが、周囲の雑音を一瞬で吸い取った。
次の瞬間には悲鳴と怒号が混ざり合い、人々は崩れかけた石段の出口へと雪崩を打って押し寄せ始めた。
「まじかよ! ここももうダメか!?」
「東の検問所の方から流れてきたんじゃねえのか!?」
押し合いへし合い駆け上がっていく群衆の中、店主が慌ててカウンターの影に身を潜めながら俺に叫んだ。
「あんたも早く逃げろ! 東から降りてきたなら本物だぞ!」
「逃げても無駄だ。地下まで届く地鳴りなら、地上はもう逃げ場がない」
俺は上着のポケットから使い古した黒い革手袋を取り出した。両手に嵌め、指の隙間のフィット感を確かめる。
「それに……少し確かめたいことができた」
逃げ惑う群衆の波を押し分けるようにして、俺は重い地鳴りと破砕音が響く方向、『旧神の廃教会』へと、淡々と足を進めた。
パニックになった住人たちが通り過ぎるにつれ、濡れた石畳の道路には一気に冷気が立ち込め、鼻をつくような嫌な生臭さが満ちてきた。
打ち砕かれた鉄の格子戸、粉々に砕けた石材の破片。
その真ん中で、俺は足を止め、路面にへばりつく血溜まりを見下ろした。
(……腐食性の体液を撒き散らす、多脚型の怪物か)
周囲の酸による溶解痕と、引きちぎられた痕跡から冷静に怪物の種別を察する。
命の輪から外れた変異体。
『ムカデ型』か。
――ドシン!
激しい破壊音とともに、横手の石造りの建物を吹き飛ばして『それ』が通りへ躍り出た。
「ギシャアアアアッ!」
巨体が地響きを立てて突進してくる。
俺は狭い街路を避け、迷わず背を向けた。通り沿いに佇む一際巨大な影――半ば崩壊した『旧神の廃教会』の重厚なアーチ門へと飛び込む。
巨躯の化け物は獲物を追い詰めようと、腐蝕液を吐き散らしながら教会の観音扉を吹き飛ばして乱入してきた。
割れたステンドグラスから落ちる雨粒のなかで、腐食液が古い木製の長椅子を嫌な音を立てて溶かしていく。
俺は講壇の前で足を止め、静かに振り返った。
――その時、二階のパイプオルガン跡の闇から、ほんの微かな「違和感」が肌を撫でた。
目の前の変異体とはまるで違う。世界の理からわずかに浮いたような、不気味なほど静かな気配。
(……誰かいるのか?)




