第2話 転移者の穢れ
たとえばあれもそうだ。
酒場の隅では、ずぶ濡れの小太りの中年男が、上半身に古びた布切れ一枚だけを巻きつけた姿で、酒をあおっていた。
頭は禿げ上がり、腹だけが妙に立派に膨らんでいる。足元には靴すらなく、腰に巻いた布もところどころ破れていた。
「オレワァァァ、昔はすごかったんだ……!」
誰も聞く者のいない店内で、男は酒の入った木杯をグラグラと掲げた。
「選挙区じゃ負けなし! 予算だって委員会を通して何億も動かしてきたんだ! なのに、なんでこんな……ッ」
近くの客たちはその哀れな姿に堪えきれなかったのか、口を押さえながら失笑している。
「また始まったぞ」
「放っとけ。あいつ昨日も『俺は元議員で』だとか言ってたな」
カウンターの客のひとりが、面白がるようにボソリと声を飛ばした。
「おい、元議員さん、自慢の上等な服はどうした?」
男は一瞬だけ口をつぐみ、気まずそうに目を泳がせた。
「……盗られた」
「金や身に付けてた時計は?」
「……盗られた」
「じゃあ何が残ってんだよ」
男は思い出したかのように、破れた布の胸元をぐっと張り伸ばした。
「国民のために働いてきた実績と……誇りだ……!」
隣の老客が爆笑しながら、冷めたスープの器を叩いた。
「ハハッ! この街じゃ腹の足しどころか、うるさいだけのハエ以下だな!」
ナザリエルの深層、あるいはその奥にある大図書館に眠るという『異界転移』の記録と知識。そこへ辿り着くためなら、俺はどんな泥水でも啜ってみせる。
……元の世界。
ふと、湯気の向こうに、あの日の光景が浮かんだ。
雨の匂いではない。
もっと乾いた、夏の夕暮れの匂い。
どこかの店先から流れていた焼けた油の匂いと、遠くを走る車の音。見慣れた道路。
見慣れた校舎。日常の景色を、うっすらと覚えている。
転移する前まで当たり前だと思っていた日常。家族、友人、そして――
だからこそ、帰りたい。
英雄になりたいわけでもない。世界を救いたいわけでもない。
ただ、自分が自分として生きていた場所へ戻りたい。
それだけだ。
思いふけっていると品のない笑い声は暴力に変わっていた。
「おい、元議員っていうなら金、持ってなきゃおかしいよなぁ? 出せよ」
苛立った様子の数人の男たちが椅子を蹴って立ち上がり、転移者の胸ぐらを掴んで卓へ叩きつけた。支えを失って倒れ込んだ男の腹部を、チンピラのひとりが容赦なく蹴り飛ばす。
理不尽だが、これがこの街の日常だ。いちいち同情していたら身が持たない。
――だが、見捨てていい理由にはならなかった。
あの男が何者だったのかなんて、どうでもいい。
元の世界で政治家だったことも、その功績も、今ここで何の役に立たないことも分かっている。
それでも、あの男がここで殺されれば、ただ一人の命が失われるだけではない。
次の瞬間には変異体になり、この酒場にいる人間の何人かが食い殺される。
そして誰も、それを止めようとはしない。
それが、この世界の「当たり前」になっている。
俺はその当たり前が嫌いだった。
木匙を置き、ゆっくりと立ち上がった。
擦り切れた外套が揺れ、腰の獲物――レバーアクション銃『クラウゼ』がカチリと小さな金属音を立てる。
その一動だけで、酒場を支配していた品のない失笑がぴたりとやんだ。
嫌な熱気に満ちていた店内に冷や水が打たれ、いくつもの鋭い視線がこちらへ集まるのが肌で分かる。
俺は転移者の頭を踏みつけようとしていた男の目の前で足を止め、冷めきった声を投げつけた。
「おい、そいつを殺すな。ここで死なれたら、俺たちが変異体に食われることになる」
「あ……? なんだお前、すっこんでろ」
頭に血の昇ったチンピラの一人が、顔を赤くして俺の胸ぐらに手を伸ばしかけたがピタリと動きを止めた。
俺は言葉もなく、ただ冷めきった視線を向けていた。
腰のクラウゼの柄に添えられた俺の手と、修羅場をくぐり抜けてきた巡礼者特有の不穏な気配。それを肌で感じ取ったのだろう。
男の手が空中で引きつり、額から嫌な汗が滲み出る。
「……チッ、行くぞ。穢れが移る」
捨て台詞を残し、男たちは急ぎ足で店を去っていった。
『変異体』の恐怖は、スラムのゴロツキとて例外ではない。ここでこの転移者を殺せば、次の瞬間には自分が噛みちぎられる側になるのだから。
床に転がった元議員を名乗る転移者は、怯えた目で俺を見上げ、声もなく礼をするように小さく頭を縦に振った。
一瞥もくれず自分の席へと戻ると、不味いスープはすっかり冷めていた。そして、傍らに置いていったパンもなくなっていた。
となりの客に目をやると、わざとらしく知らぬ顔をしている。
ため息が自然と出てしまった。らしくない。
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