第17話 ストーカーの嘘・中編
暗い羊小屋の中に、ジュリアンの掠れた声だけが響いていた。
「……連れ出すつもりなんて、はじめはなかったんだ」
ジュリアンは血の滲む唇を噛み締め、両手で顔を覆ったまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
「オズワルドの暴力がどれほどひどいものか、村の人間は見て見ぬふりをしていた。あいつはマーサを人間扱いしていなかった。ただの道具か、自分の機嫌を取るためのサンドバッグだ。……俺が声をかけたとき、マーサは怯えていたけれど、同時に縋るような目をしていたんだよ」
ジュリアンの手には、深い裂傷の跡が生々しく刻まれていた。
「だから決めたんだ。この腐った村を出て、北の大町へ逃げようって。金をかき集めて、馬車を雇う手はずを整えて……あの日、夜陰に乗せて連れ出した。うまくいくと思っていた。あの男の支配から、やっと逃れられるって……」
男の声が、微かに震え、やがて途切れた。
セツナは静かに腕を組んだまま、冷徹な瞳でジュリアンを見下ろしている。足元では、ゴーマが退屈そうに耳をピクリと動かした。
俺は銃の重みを感じながら、さらに一歩踏み込んだ。
「……だが、失敗した。マーサは死んだ。何に襲われた」
ジュリアンはぐっと顔を上げ、血走った目を俺に向けた。
「北の石橋の近くさ。追手が来ないように、あえて人目のない獣道を選んだのが間違いだった……」
ジュリアンは息を呑み、当時の恐怖を思い出すように肩を揺らした。
「――突然だった。闇の中から、這いずるような異音がして、目の前に飛び出してきたのは……殻に覆われた多脚の変異体だった。あんなもの、商人の俺が敵うわけがない」
「それで、どうした」
俺の問いに、ジュリアンの顔色が一層青ざめた。
「怖かった。頭が真っ白になって……体が勝手に動いたんだ。気がついたら、俺は一人で草むらを駆け抜けていた。……マーサを置いて、自分だけが逃げたんだよ」
自嘲するような、壊れた笑い声が小屋の中に響いた。
「少し走ってから気づいた。俺は、あいつを置き去りにしてきたって。慌てて引き返したけれど……遅かった。マーサは、もう……」
ジュリアンはそれ以上言葉を続けられず、床の藁に突っ伏した。
彼の荷物から転がり出た布切れや薬の小瓶は、二人が必死に生きようとしていた証拠であり、同時に、土壇場で恐怖に負けたジュリアンの臆病さを暴く証拠でもあった。
ジュリアンはマーサを救おうとした。それは嘘ではない。だが、命の危険に晒された瞬間、彼は彼女を見捨てて逃げた。
一方のオズワルドは、妻のDVを隠し、いざ失踪されてからは「ストーカーに奪われた被害者」という物語に逃げ込んで復讐を叫んでいる。
どちらも、自分の保身のために他者を踏みつけ、現実から目を背けている卑怯者に変わりはなかった。
「……話は聞いた」
俺は冷ややかにそう告げ、腰の『クラウゼ』からそっと手を離した。
ジュリアンは殺される覚悟をしたのか、ただ地面に突っ伏したまま動かない。
だが、俺たちが裁くべきなのは、この路地裏で怯える臆病な商人ではない。
すべての元凶であり、自分の暴力と恐怖から逃げ続けるあの農家の男――オズワルドだ。
「行くぞ、セツナ」
俺は背筋を伸ばし、湿った羊小屋を振り返らずに歩き出した。
セツナは静かにうなずき、足元のゴーマを伴って後に続く。
――すべての真実を抱えたまま、俺たちは再びオズワルドの待つ農園へと向かった。
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