第15話 錆びた金貨
朝の冷気が、宿の薄汚れた窓ガラスを白く曇らせていた。
ここは、北上の大町へと続く街道沿いにある、小さな宿場町だ。
俺は、木製のテーブルに肘をつき、小さな革袋を見下ろしていた。
革袋の中身を改めると、くすんだ銀貨が数枚と、欠けた銅貨がいくつか転がり出てきた。旅の資金としては、あまりにも心もとない。
それ以上に頭が痛いのは、レバーアクション銃――『クラウゼ』の状態だった。
旅立ちのときから、内部のギアや撃鉄周りにはガタがきていた。廃教会での戦いでも、引き金を引くのをためらうほどの代物だ。あの酒場でチンピラを威圧したときも、銃がまともに使えないと悟られないよう、ハッタリをかましたにすぎない。
次の峠を越えるまでに機構が完全に噛み込むか、最悪の場合、二度と弾が出なくなる。
そうなる前に、修理用の部品と専用工具を手に入れ、銃を扱える技術者に見てもらう必要があった。そのために向かっているのが、ガルヴァニアにある比較的大きな町――通称『大町』だ。
だが、今の懐事情では、部品代を払うことすら難しい。
「セツナ、そうだんがある」
俺は向かいの席に目を向けた。
「どうしたんだい、そんなしかめっ面をして」
セツナは手元の小さな包みから緑色の薬草を取り出し、興味深そうに鼻を近づけていた。相変わらず、こちらの懐事情などどこ吹く風といった様子だ。
足元では、首から小さなランタンを提げた大きな黒犬――ゴーマが、床の冷たさに飽きたのか、退屈そうに短い尾をぱたぱたと振っている。
「クラウゼの修理代が足りない。このままじゃ銃として使い物にならなくなる。だが、今の金じゃ払うにも圧倒的に足りない」
「ふむ……」
セツナは顎に手を当て、まるで大御所にでもなったかのような余裕たっぷりの顔でうなずいた。
そのとき、ゴーマがクンと小さく鼻を鳴らした。
視線の先にあったのは、俺の干し肉の袋だ。
「……こいつは俺の食糧だ。やる気はない」
俺が顔を背けると、ゴーマはあからさまに落胆したように大きなため息をつき、今度はセツナの足元へ体を擦り寄せた。
「人間というのはね、こういうとき、妙な焦りに駆られて『損をしたくない』という気持ちに振り回されるものなのさ。損を避けようとするあまり、かえって余計な出費を重ねてしまう。もっとこう、余裕を持たなくてはね」
「お前のその妙な達観はどこから来るんだよ。そもそも、さっきお前が裏通りの骨董薬品店で訳の分からない小瓶を買い込んだせいで、俺たちの財布はさらに軽くなったんだが」
「あれは掘り出し物さ。使いどころを選べば、命を救う価値がある」
俺が深いため息をつくと、セツナは悪びれもせず、くすりと笑った。
――そんな、いつもの噛み合わない軽口を交わしていたときだった。
「……あの、すいません」
不意に、背後から声がかかった。
振り返ると、すり切れた麻布の上着を羽織った若い男が立っていた。
年の頃は二十代半ばといったところか。青白い顔には疲労がにじみ、無精髭が伸び放題になっている。着古した服はあちこちがほつれ、差し出しかけた手は小刻みに震えていた。
農家の男らしい。土の匂いをまとっているが、それ以上に目を引いたのは、今にも何かに追い立てられそうな、異様な焦燥感だった。
「俺は、この近くの農園で畑を耕しているオズワルドだ。食事中にすまない。だが、あんた珍しい顔つきだ、転移者だろう?……実は相談があるんだ」
俺とセツナは顔を見合わせた。
足元で、ゴーマがわずかに耳を伏せる。喉の奥から、低い唸り声が漏れた。
「……用件なら聞くが」
俺がそっけなく答えると、オズワルドは唾を飲み込んだ。血走りかけた目が、俺とセツナの顔を交互に見つめる。
「化け物を――いや、その……復讐を頼みたい」
「復讐?」
俺は片眉を上げた。
「どんな変異体だ」
変異体の駆除を依頼されることなら珍しくない。だが、男は首を横に振った。
「……変異体じゃない」
オズワルドは、吐き捨てるように言った。
「――人間だ」
その一言で、テーブルを囲む空気がわずかに張り詰めた。
人間を殺してほしい、という依頼。賞金首の処分ならともかく、個人的な恨みの始末を他人に頼むとなれば、厄介事の匂いしかしない。
だが、セツナは表情を変えず、ただ静かに黒い瞳を男へ向けた。
「人間、ね。詳しく聞かせてくれるかい?」
オズワルドは震える拳をテーブルに叩きつけた。
「そいつの名前はジュリアンだ。よその町から流れてきた、商人崩れの男さ。……そいつが俺の妻、マーサをたぶらかして、すべてを狂わせたんだ」
「ジュリアンと、マーサ……」
セツナが小さく名前を繰り返す。
オズワルドは、押し殺した声で話を続けた。
「ジュリアンの野郎は、まともな稼ぎもないくせに、毎日のように俺の家の周りをうろついていた。マーサの気を引こうとしていたんだ。村の連中も、あいつを『ストーカー』と呼んで気味悪がっていたよ。あいつさえいなければ、俺たちの暮らしは平和だったんだ」
「ふむ……。それで?」
セツナが先を促す。
「数日前、ジュリアンの野郎は、ついに俺の目を盗んでマーサを連れ出しやがった。二人して夜逃げしたんだ。そうしたら帰ってきたのはマーサの遺体だけだった。あいつが殺したに決まってる!」
男の声が、次第に大きくなっていく。
「頼む。あいつを生かしておいたら、俺は気が狂っちまう。あの男を連れ戻してくれ。いや……殺してくれ!」
オズワルドの目には、憎悪が渦巻いていた。
ただの浮気や失踪への怒りにしては、どこか様子がおかしい。
その言葉には、妻を奪われたことへの怒りだけではなく、何かから必死に目を背けようとしているような切迫感があった。
もちろん、それだけで男の話を疑う理由にはならない。だが、話を聞けば聞くほど、肝心なことが抜け落ちている気がした。
そもそも、マーサは本当に連れ去られたのか。
彼女自身は、どうしたかったのか。
今の話だけでは、何ひとつ分からない。
銃の修理代を稼ぐためとはいえ、こんな人間同士の揉め事に首を突っ込むのは御免こうむりたいところだ。
それでも、金が必要なのは変わらない。
俺は腰に吊るしたクラウゼに手を添え、冷ややかに男を見据えた。
「……いいだろう。依頼は受ける」
オズワルドの顔に、かすかな安堵が浮かぶ。
だが、俺はすぐに言葉を継いだ。
「ただし、そのジュリアンって男が本当に悪党かどうかは、俺たちの目で確かめる。お前の話だけを鵜呑みにするつもりはない」
オズワルドの表情が、一瞬だけ強張った。
それが何を意味するのか、俺にはまだ分からなかった。
やがて男は、力なくうなずいた。
「……分かった。頼む」
セツナは卓上の木杯を傾け、残っていた飲み物を口にした。それから、オズワルドに聞こえないほどの小さな声で呟く。
「さて……。本当に悪いのは、どっちの人間だか」
俺は返事をしなかった。
壊れかけた銃を腰に吊るし、ランタンを提げたゴーマを連れて、席を立つ。
向かう先は、ジュリアンという男の足取りを追える場所。
『ストーカー』と呼ばれた男は、本当に妻を奪った悪党なのか。
それを確かめるまでは、何も決めつけるわけにはいかなかった。
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