黒い犬
街を離れたふたりが村の宿へ向かう道すがら、夕暮れの空はわずかに残照を落とし、冷え始めた大気が肌を刺すように染み入る。
ふと、前を歩くセツナの背中に向けて、トキは何気なく呟いた。
「そういえば、犬がランタンを持ってたよな。あいつ、連れて来ればよかったのに」 旅の途中で見かけたあの黒犬の姿が頭に残り、なんとなく気まぐれで口に出したのだ。
すると、セツナは足を止め、振り返りもせずにくすりと笑った。 「何を言っているの。ゴーマはちゃんといるよ」
「……は?」 怪訝な顔をしたトキが立ち止まる。その足元、夕日に照らされたセツナの長い影が、ふわりと揺らいだ。
ただの影ではない。輪郭が濃くなり、立体的な形を成していく。
――ひっ、とわずかに息をのむ間もなく、その影の底から巨大な漆黒の巨体がスルリと這い出るように現れた。首元には、アンティーク調の小さなランタンがぽうっと淡い光を灯している。
「驚いた? こいつは私の影に潜むのが好きなの。ねえ、ゴーマ」
セツナが足元を振り返ると、ゴーマは低い唸り声の代わりに「ふん」と鼻を鳴らし、主人の足首にその重い頭を擦り寄せた。
トキは目を見張り、それから呆れたように息を吐き、剣呑な気配をそっと引っ込めた。
「……使い魔だったのかよ。お前の仕儀は、いつも度し難いな」
「ふふ、褒め言葉として受け取っておくよ。さあ、夜の帳が下りる前に村に入らないとね。この辺りは夜更けになると、厄介な連中が目を覚ますから」
再び歩き出した二人の背中を、ゴーマの提げるランタンの揺れる光が静かに照らし出す。 不気味な静寂の中、トランクの擦れる音だけが響く道すがら、トキはぽつりと問いかけた。
「……なぁ。お前は、どうして旧市街地で自分がおとりになるなんて危険なことができるんだ?」
「どうしたんだい、急に」
「市場での買い物一つにしても、他人のお節介にしても、いちいち立ち止まっては面倒事を拾う。300年も生きていれば、もっとこう……すべてがどうでもよくなるんじゃないのか」
セツナの足取りがわずかに緩んだ。彼女は前を向いたまま、冷たい夜風の中で小さく息を吐いた。
「どうでもよくなる、か……。そうだね、いっそ何も感じなくなれたら楽だったかもしれないねぇ」
「……」
「長く生きているとね、正しかったことより、取り返しのつかなかったことの方がくっきりと残るものなのさ。誰かを救おうとして余計なお世話を焼いたこと。怒りに任せて大切な時間をドブに捨てたこと……そういう小さな後悔が、何百年も積もり積もって、今の私を作っているんだよ」
セツナはふと振り返り、トキをまっすぐに見据えた。その黄金色の瞳には、底知れない疲労と、どこか諦めきれない痛みが揺れていた。
「人間はね、得をしたいんじゃない。『損をしたくない』という恐怖に怯えて、いらないものや執着を抱え込んでしまう。そして、本当に必要なものを見落とすのさ」
「……それがお前の言う、人間の滑稽さか」
「さあね。でも、だからこそ面白いとも思うよ。……まあ、少なくとも、お前が私を終わらせてくれるという選択をしたことだけは、私の300年で一番の誤算で、一番の救いだけどね」
トキはそれ以上言葉を返さず、ただ前を向いて歩き続けた。
その足元では、ゴーマが主人の歩調に合わせるように、静かに、しかし力強く地面を踏みしめて進んでいく。
夕日が完全に沈み、暗闇に包まれつつあるエレボスの街道を、三つの影が一つになって溶けていった。
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