第10話 契約の泉
安易な同情や、気休めの言葉など吐く気はない。この死の世界で「死にたい」と願う者など珍しくはないが、300年生きた吸血鬼がそれを望む理由と重みは、他者には計り知れないものがあるだろう。
「……終わりにしてほしい、か」
絞り出すような俺の声に、セツナはこくりと頷いた。
「そう、突拍子もない意味の分からない、気味の悪い女だと思うかもしれない。でももしかしたら君の力なら私を殺せるかもしれない」
「断ったらどうする?」
「そうだね……これまで通り、退屈な日々に戻るだけさ。あるいは、また別の誰かが私を訪ねてくるのを待つか、ね」
彼女の声音には諦めと、ほんの微かな期待が混じっていた。
――メリットとリスクを頭の中で天秤にかける。
俺の目的は、元の世界へ戻ること、それだけだ。だが、この瘴気と変異体に満ちたエレボスを一人で踏破し続けるのは、希望がなさすぎる。生命力の消耗を考えてもいずれ限界がくる。
一方の彼女は、300年の知識と、この世の理から外れた圧倒的な力を持っている。
「……条件がある」
俺の言葉に、セツナの耳がぴくりと動いた。
「俺には、この世界から元の場所へ帰るという目的のため生きてきた。そして生き続けなければならない。だが一人ではいつか野垂れ死ぬか、変異体の餌食になるだろう」
テーブルの木碗から視線を外し、俺はまっすぐに彼女を見据えた。
「俺が元の世界へ帰るための道中、お前の知恵と力を貸せ。――その代わり、旅の終わり、俺が帰るその時が来たら……お前の望み通り、俺のその手でお前を終わらせてやる」
契約の提示。
それを聞いた瞬間、セツナの瞳がわずかに見開かれ、どこか救われたような笑みがその顔に浮かんだ。
「……契約成立だね、トキ」
俺は無言でうなずいた。口頭の約束だけで、互いの命のやり取りを含む旅を信用し合うほど、この世界は甘くない。
「ただの口約束じゃ、お前も俺も信用しきれないだろう」
俺がそう告げると、セツナはふっと小さく微笑み、軽やかな足取りで立ち上がった。
「そうだね。それなら、あそこへ行こうか。この古びたアトリエの奥にある、『契約の泉』へ」
彼女に促されるまま奥の重厚な扉を開けると、そこに広がっていたのは、深い地下洞窟の中にひっそりと佇む、静まり返った水面だった。
淀んだエレボスの空気から完全に切り離されたかのように、泉の水は奇妙な銀色の光を湛え、月光すらないはずの空間で青白く揺らめいている。
セツナはためらうことなく、その水面へと足を踏み出した――いや、沈まない。
まるで硬い石畳の上を歩くかのように、彼女の足裏は水面に軽やかに着地し、波紋一つ立てずにすいすいと歩いていく。物理法則を無視したその光景は、彼女がこの世の理から外れた怪異であることを改めてまざまざと見せつけていた。
「……は?」
思わず足が止まる俺を振り返り、セツナはくすりと楽しげに笑った。
「なにをぼさっとしているの、トキ。ほら、怖くないからおいで」
「おい、待て……沈むだろ、これ」
「大丈夫さ。私が手を引いてあげるから」
彼女に促されるまま、俺は意を決して、恐る恐る一歩を踏み出した。
靴底が伝えたのは、冷たい水ではなく、ゴムのように弾力を持った奇妙な浮遊感だった。足場はしっかりと俺の体重を支えている。
二人は水面を渡り、その中央にぽつんと浮かぶ小さな島へとたどり着いた。小島の中心には、古びた石造りの小さな泉が、静かに命の湧水のように泡を立てている。
「おい……これがなんで『契約の泉』なんだ? ただの地下湖じゃないか」
怪訝な顔で問う俺に、セツナは子供のように嬉しそうな笑みを浮かべた。
先ほどまでの冷徹な吸血鬼としての気配はどこへやら、その表情には、これから始まる儀式に対する妙な高揚感が滲み出ている。
「まあ、細かいことはいいじゃないか。さ、はやく契約しようよ」
どこかにはしゃいだ様子で急かされるまま、俺たちが泉の前に並び立つと、セツナはふっと表情を引き締めた。
その華奢な身から、空気を凍らせるような厳かな気配が立ち上る。彼女は透き通った声で、古の呪文のような口上を紡ぎ始めた。
――我は求め、彼は応ず。
血の交わりよりも深く、運命の糸よりも固く。
いかなる死の闇が訪れようとも、この絆を違えることなかれ。
生を分かつ旅の果てに、最後の安息と解放をもたらすまで、
我らの魂を、一つの鎖へと繋ぎ留めん――
それは、互いの命を預け合うというレベルをはるかに超越していた。
まるで、古の時代における「永遠を誓い合う結婚の儀式」そのもののような、あまりにも重く、逃れられない呪縛の文言だった。
「ちょっ、待て……!」
俺は思わず言葉を挟んだ。
「なんだこの誓いは……! まるで結婚式みたいな……」
俺の慌てた様子に、セツナはきょとんとした顔をしたあと、ふふっと楽しそうに声を上げて微笑んだ。
「当たり前じゃないか。この世で一番強くて、一番ほどけない契約なんだからね。――さ、誓いの言葉を続けさせてよ、トキ」
拒否権など最初から与えないと言わばかりの、その熱を帯びた瞳に、俺は盛大なため息をつくしかなかった。
だが、彼女のその本気の覚悟を、そして300年の孤独を終わらせるための唯一の綱を、ここで手放す気はなかった。
――この世で最も強く、最も重い契約。
俺たちは、崩壊した世界の中央で、互いの終わりと始まりを誓い合う。
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