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すり潰した女  作者: じいちゃんっ子


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3/5

女は気づかなかった

 会社が用意してくれたハイヤーから降りる。

 今日はクライアントとの食事会で遅くなってしまったが、どれだけ遅くなっても疲れていようが私は必ず自宅に帰る。

 それが私に出来る謝罪、決して許される事の無い過ちに対する誠意の一つ。


「ようやく涼しくなったわね」


 庭で鳴く秋の虫に迎えられ玄関の扉を開ける。

 9月も下旬になり、ようやく暑さが緩んで来た。


「ただいま」


「おかえり」


 廊下の向こうからは先に帰宅していた夫の声が聞こえる。

 以前なら息子と娘も返事を返してくれたが二人は家を出てしまった。


 リビングに入ると夫は一人、テーブルに肘を着き座っていた。

 テレビもつけず、スーツ姿のまま何やら考え込んでいるように見える。


「寂しいのね」


 一人で家に居るのが寂しいのだろう。

 子供達の声は聞こえない。

 2歳年下の夫と結婚して今年で25年、本当に色々な事があった。


「お風呂は?」


「沸いているよ、その後でいいから話がある」


「話?」


 珍しい事があるもの。

 最近元気が無かったように思ったが、夫はあまり弱音を吐いたりしない人。

 気分転換をしたいのだろうか、銀婚式の記念に旅行へ行きたいのかもしれない。

 今は忙しいから無理だが、年末なら泊まりで行く事も出来るだろう。


「おまたせ」


 パジャマに着替え、夫の前に座る。

 なんだか様子がおかしい、口を何度か開こうとするが言葉が出て来ないみたい。

 胸騒ぎを覚えつつ、夫の言葉を待った。


「…別れてくれ」


「は?」


 頭が真っ白になる。

 言われた言葉が理解出来ない。


「わ、別れるって…」


「そのままだ、離婚を…」

「ちょっと待って!!」


 夫の言葉を遮る。

 なんの前触れもなく、いきなり過ぎて理解が追いつかない。


「私なにかした?」


「今はしてない…そう思う」


『今はしてない』

 その言葉に頭を叩かれたような錯覚に陥る。

 18年前に犯してしまった人生最大の過ちに対しての言葉だと分かってしまった。


「気持ちが落ち着いてからで良い、ここにサインを…」


「だから!!」


 夫は鞄から一枚の紙を取り出し、私の前に置いた。

 緑色で印字された離婚届の文字。

 なぜ私が急に離婚届を突きつけられるの?


「…限界なんだ」


「限界?」


 夫の絞り出した言葉は震えていた。

 頭の中は様々な言葉が浮かんでは消えて行く。


「やましい事なんかしてない…どうして信じてくれないの」


「今はそうだろう。

 だが過去が俺の心を蝕み続けてるんだ」


 特に非難する訳でもなく、夫は淡々と呟いた。


「どうしても、何度も忘れようとしたんだ。

 だが…」


 夫は苦悶の表情を浮かべる。

 再構築を選んだのは夫自身、それに応える為に出来る事はなんでもして来た、まだ足りないの?


「仕事だって辞める…だから」


「仕事は君の生き甲斐だろ、そんな軽々しく口にするな」


「ち…違う」


 生き甲斐なんかじゃない。

 全力で打ち込んで来たが、私の人生はあなたと、子供達と共に生きて行く為にあった。


「わ…私の過ちが」


 それが今も引きずってしまっているのなら、後悔している事を信じて欲しい。


「分かっている。

 君が不倫を今も悔やんでいる事くらい」


「それなら…」


 それならどうして離婚を言い出すの?

 今まで家族として積み上げて来た時間全てが偽りだったというの?


「忘れようとした…」


「…あなた」


 不倫していたのは18年も前。

 今となっては、なぜあんな愚かな事をしてしまったのか後悔しかない。


 彼と結ばれ無かったのは縁が無かっただけ。

 若く青臭い過去の終わった恋愛が美化され頭が麻痺していた。


「何回も飲み込もうとした…

 君の反省している気持ちは本物、それは信じているさ」


「…それなら、これからも信じてよ」


 私の気持ちを知りながら、離婚を言い出すなんて。


「今も後悔してる…」


「うん…」


「ときどき思い出すの。

 あなたを…謙一も捨てて…なんであんな酷い事を言ってしまったんだろうって」


 あまりに愚かな言葉だった。

 もしあのまま離婚していたら、私の人生はめちゃくちゃになっていたに違いない。

 両方の実家から縁を切られ、仕事も閑職に追いやられていただろう。


 夫は自分の両親を説得し、会社にも言わなかった。

 未だに夫の両親は私と会ってはくれないが、それは当然の事。

 私だって息子や娘が配偶者から傷つけられたら、一生許しはしないだろう。

 それでも子供達を受け入れてくたのは、夫のお陰に違いない。


「君はよく頑張ったよ

 妻として、母親としても」


「当然の事よ」


 私は出来るだけ子供と過ごした。

 息子の送り迎えも会社に頼み、出来る限りやった。

 娘が熱を出したら、一睡もしないで寄り添った。


 母親として、親として当然の事だった。

 浮気前、それすら息子にしてこなかった上、捨てようとしていた自分に呆れた。


「子供達と過ごした時間も嘘だったの?」


「それを聞くのはズルいよ」


「だって…」


 子煩悩な父親だった。

 あの笑顔を子供達に見せていた時間まで偽りだったの?

 お宮参り、七五三、入学式、家族旅行、笑顔で過ごした時間の裏であなたは…


「…子供達にどう説明するつもり?」


「もう話した」


「まさか?」


 私の不倫まで言ったの?

 そんな事知られたら私は生きて行けない。


「言っとくが、俺から君の不貞を子供達に話た事は1度もない」


「そう…なんだ」


 それならまだ救いようがある。

 浮気した母親なんて、子供達にとって害でしかない。

 それでなくても娘は反抗期で、この夏休みすら家に帰って来なかったくらいだ。


「どうしたの?」


「…いや、なんでもない」


 最悪のシナリオだけは回避出来てホッとする私を、夫はなんともいえない顔で見ていた。


「ローンが終わってるから家は君に譲るよ、共有財産も好きにしてくれて構わない」


「だから!」


 ホッとしたのも束の間だった。


「家のローンを多く払ったのは君だ。

 共同名義人から俺の名前を抜くだけだろ。

 俺の給料はあれから自分専用の口座に入金だったから、それ以外に口座の中身は全部君のお金じゃないか」


 矢継ぎ早に夫が話す。

 確かにそうだが、それでは夫は丸裸になってしまうではないか。


「納得出来る訳ないでしょ!」


「そうか、なら俺の口座から足りない分を…」

「違うって!!」


 どうして?

 なんでそれほどまで私と別れたいの?


「そんなに私と暮らすのが嫌なの?」


「嫌いになれないから余計辛いんだ」


「だったら」


「ごめん…」


 夫の頬を伝う一筋の涙に言葉を失う。

 そういえば夫が泣くところを初めて見た。


「分かった」


「ありがとう」


「でも納得してないから」


 こんなの納得出来る筈がない。

 必ず翻意させて見せる、子供達を使ってでも。


「とりあえず、今日から別に暮らそう」


「いきなりね」


「実はワンルームを借りてるんだ」


「そう…」


 取り乱したりしない。

 今度は私があなたを追い詰める、絶対に離婚してやるもんか。


「それじゃ」


「風邪とかひかないでね」


「ありがとう、元気で…」


 三十分後、スーツケース一つだけ手にした夫が家を出る。

 泣きたい気持ちを堪え、タクシーに乗り込む夫を見送る。

 敢えて宿泊先を聞かなかった、これからなのだから。


 タクシーのテールランプが消えるまで見送り、自宅に戻る。

 静かな室内、僅かに残る夫の匂い。

 さっきまでの修羅場が嘘のよう。


「ん?」


 携帯がメールの着信を告げる。

 こんな時に誰からだろ?


「政志さん?」


 夫からのメールだ。

 忘れ物でもして、届けて欲しいのかな?


「…なにこれ」


 そこには一文、

[私は来世があるなら、二度と君と出会いたくありません]

 そう書かれていた…


「違うの!」


 その意味を理解した私は叫んだ。   


「来世も今の家族と幸せに暮らしたいと書いたのよ!!」


 メールとラインは着信拒否され、電話は繋がらない。


「どうしてよ!!」


 床を叩き、喉が枯れるまで叫んだ。



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― 新着の感想 ―
いやぁ。。。 子供視点がほしい。。。 このままではあまりにも、辛すぎる。。。 政志さんに救いを。。
連絡を今も取り合ってる時点でアウトなんだよなぁ…年賀状だけの付き合い? 頻度の問題じゃないんすよ
マンフからの年賀状の文面がアレってことは史佳はこの文面を送ったのだろ。 縁を絶っても未だ付きまとわれているのかまだ股に未練があるのか解らんが、不倫相手の影がちらつくのに結婚生活送れんわな。 恋愛につい…
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