第五話 酒売りの男
「太鳳さんは先に戻っていてください、皆が心配しますよ」
ノラがそう言うと、太鳳はこくりと頷いて路地へと入っていった。その背を眺めながら、ノラは男のいる看板横の路地を見つめる。
男はゆらゆらと揺れる橙の提灯の下で、ニコニコと笑いながらこちらを見ていた。
「あの子、帰っちゃったね。どうしたんだろ?」
「……」
男はたっぷりと酒が注がれた盃を、ぐいと前に出す。そして、ノラの目を見据えて言った。
「ね、君も飲みなよ。願いが叶うよ」
ぞわりと、ノラの背筋に冷たいものが走る。その男は笑っていたが目にハイライトがなく、それが深い深淵のように見えた。
ノラが一歩後退ると、男は不満げに口を尖らせて言う。
「君は不思議だ。普通の人は喜んで酒を受け取るのに」
(あぁ、本当に悪気がないのか)
その男の言動に、ノラはそう悟った。
可哀想に思える。神というのはそう言うものだ。傍若無人で至極冷徹。そんなことは分かっているのに、それでも救えやしないかと考えてしまう自分は末期なのだろう。
「貴方は、悪気がないんですね」
「悪気?何が悪いことなのさ」
「まるで疫病神だ」
「……僕は神だけど、そんな輩とは違うよ」
男はきょとりとした顔で、笑いながらそう言う。ノラはふぅと息をひとつ吐くと、まるで幼子に語りかけるように、男に話しかけた。
「いいですか……貴方の酒で苦しんでいる人がいます」
そう言うと、男は無邪気に言った。
「どうして?」
「神気が強すぎるんです。神以外に与えるものではありません」
ノラのその言葉に、男はケタケタと笑う。
「そうなの?知らなかった」
その“知らなかった”は、本当に知らなかったということなのだろう。ノラは生唾を飲む。あまりの“神らしさ”に、こちらまで圧倒されてしまいそうだった。
「では、何故配っていたのですか」
そんなノラの純粋な問いかけに、男から先程までの笑顔がふっと消える。少しの沈黙の後、男はぽつぽつと話し出した。
「天に帰りたいから」
「信仰が欲しかったんだ」
「願いを叶えれば、皆好きになってくれると思った」
そんな男の返答に、ノラは呆れ返ったようにため息を吐く。
「愚かです」
「うん?ごめんね」
男はケロッと笑うと、「でもさ」と続けた。
「それの何が悪いの?」
その瞬間、ぞくりとノラの背筋に冷たいものが走る。男は続けて言った。
「だってここは常世。死ぬことは無いんだよ?」
「だとしても……一度壊れたものは元に戻りません」 「うん、だから?」
「……」
口ぶりから、恐らくこの男は高天原を追放された神だ。何故追放されたのかは分からない。しかし、この男をこの場で放っておいてはいけないと、そう本能が告げていた。
(彼はいずれ花街に甚大な被害を及ぼす)
命をどうとも思っていない発言、神の傍若無人さがよく出ている。
「貴方、名前は」
「えびす。……いや、蛭子かな」
蛭子……この危うさを、放ってはおけない。
「蛭子……。蛭子さん。では、私が、貴方を教育します。その代わり、酒は売らないで下さい」
「は?」
「貴方には、情操教育が必要だ」
ノラがそう言うと、蛭子は声高らかに笑った。まるで、なんて面白いんだ!とでも言うかのように、それは豪快に笑っていた。
そして、面白い玩具を見つめる子供のような目で、言った。
「へぇ……君、面白いね」
「いいよ。その提案、乗ってあげる」
「でもね?」
蛭子はすんと真顔になって、ノラの眉間に指を突き立てる。
「君に僕は救えない。僕は棄てられた神だ。何千年の時を経て今ここにいる」
その瞳は凍るほどに冷たい。しかしノラは無表情で淡々と返した。
「えぇ、そうでしょうね。でも、貴方の話し相手くらいにはなれます」
「……ははっ」
蛭子は乾いた笑みを漏らした。
蛭子──古事記では有名な話である。
イザナミとイザナギの第一子でありながら、手足の骨がない蛭のような身体で生まれ、棄てられた不具の子。
そのことは、もちろんノラも知っている。その事を知っている上で、提案しているのだ。
「貴方を棄てた神は馬鹿です」
「ははっ、それ、国産みの神に言っていいわけ?」
「事実です。だから貴方は今、こうなっている」
「……そうだね」
蛭子には圧倒的に足りないものがある。それは、赤子の頃の情操教育、及び愛情だ。
「私が貴方を立派に育て上げます」
「……天に帰してくれるわけ?」
「もちろん。信仰を集めればいいんですよね?では私と共に花街の治安を守りながら、事件を解決しましょうよ」
そうすれば信仰は自然と集まるものです、そう言うノラに、蛭子は俯きながら、でも薄く笑いながら問いかけた。
「なんで、そこまでやってくれるの?」
その問いに、ノラは少し考えて言う。
「花街の治安を守るため……あとは──」
「ただの、自己満足です」
「ははっ……いいね、最高」
蛭子は乾いた笑いを漏らしながら、右手を差し出して言った。
「よろしくね、薬師さん」
「ノラです。よろしく蛭子」
「呼び捨てかぁ」
「当たり前です。貴方は今から私の弟子なのですから」
「ふぅん、りょーかい」
その濁った瞳は、この時ばかりはほんの少しだけ、期待に輝いていたとか。
◇◇◇
ここで第一章が完結です!次からはノラの蛭子情操教育(?)編がスタートします!ここまで呼んでくれた方、本当にありがとうございます!読んで頂けているだけでとても励みになります。




