第二話 怪しい噂
『まるで病気ね』
その言葉が中々頭から離れず、ノラはその日早めに薬局に戻り、現世の文献を漁っていた。精神医学と書かれたその本は、現世の有名な精神科医が書いたものらしい。ノラはペラリと頁を捲ると、目次にある“摂食障害”の部分を見る。
『摂食障害』。それは自分が太っていると錯覚し、限界まで痩せようとする一種の強迫観念である。花街では、この心の病に罹る者も少なくない。しかし大抵は根気よく治療すれば、幾分かましになるものだ。
しかし太鳳は聞く耳を持とうとしない。それはこのような病では仕方の無いことだが、それでも痩せ方が尋常ではなかった。
『あの子、朝も昼も食べないのよ』
近くの遊女や禿達によれば、彼女はまず食事を摂る事が無くなったらしい。それは水もしかりで、ここひと月は彼女が飲食しているところを見ていないのだとか。
ノラは遊女達の言葉を思い出し、深いため息をついた。これは摂食障害だけではない、そう確信したからだ。
「面倒なことになりましたね……」
ぽつりと声を漏らす。
最近、花街の空気が不穏だったのはノラも把握していた。しかし、まさか有名郭の花にまで影響を及ぼすとは思わなかったのだ。
油断していた、そう後悔しながら、ノラは早速調査に取り掛かろうとする。背負う薬棚の中にメモ帳と筆を入れて、花街へと繰り出していった。
◇◇◇
「最近、怪しい噂など聞きませんでしたか」
花街でも特に話題の集まる老舗の甘味処、“林檎茶屋”にて、ノラはみたらし団子を食みながら店主の鬼女に話を聞いていた。
「ノラ先生、またなんか事件かい?」
店主は少し驚いたようにそう言って、ノラに追加のみたらしを渡す。
「えぇ、恐らく。面倒なことになりました」
ノラはみたらしを受け取ると、食べ終わった串を置いてメモ帳を取り出した。
ノラの真剣な眼差しに、店主は隣に腰をかけてうーんと唸る。そこで思いついたように、あっと顔を勢いよく上げた。
「最近、野干の輩達が美味い酒が飲めるって言ってたねぇ。なんでも、その酒を飲むと願いが叶うとか」
願掛けのようなものかねぇ、と続ける店主に、ノラは急いで筆を走らせる。
「その野干は今どこに」
「さぁ、狐小路にでもいるんじゃないかねぇ」
店主はそう答えると、ごゆっくりと言ってぱたぱたと厨房へ戻って行った。その背にお礼を言いながら、ノラは苦い顔をする。
「狐小路……」
狐小路は柄の悪い野干達が集まる小さな商店街のことである。しかしそこで物を買ってはいけない。なぜなら化かされて、財産を根こそぎ取られてしまうからだ。
そのこともあり、ノラは狐小路が苦手だった。話を聞くとなると、奴らは確実に対価を要求してくるだろう。
「はぁー……」
深いため息をつきながら、ノラは仕方なく茶屋を後にし、狐小路の方向へと向かったのだった。
◇◇◇
『キツネコウジ』と大きく書かれた鳥居には、ガラの悪いシールがベタベタといくつも貼られている。中はまるでネオン街のようになっており、とてもじゃないが風情があると言えなかった。
ノラは狐の面を着けると、薬棚を腹の前で抱えるように持つ。こうでもしないと顔を覚えられるし、薬をスられてしまうからだ。
そうして鳥居をくぐれば、早速ガラの悪そうな野干の男に話しかけられた。
「おい嬢ちゃん、ここは狐小路だぜ?お遊びで来たってんなら帰んな」
その言葉にノラは淡々と答える。
「遊びで来たわけではありません。少し聞きたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
野干は少しムッとすると、にやりと唇を吊り上げ、悪い顔で笑った。まるで品定めするようなその顔に、ノラの背に緊張が走る。
「へぇ……?そうかそうか。話、ね。それは酒のことかい?」
「!」
酒、という単語にノラが反応したのを見かねたのか、野干はまたもにやりと口角を上げる。ついてきな、とくいっと顎を上げた先には、いかにもな怪しい商店があった。
「すこぉし話をしたいだけだ。なに、悪くはしねぇよ」
「……」
ノラは無言で野干について行く。やがて、カランコロンと音を立て、二人は怪しい商店の中へと入っていった。




