第1話 薬師のノラ
あの世とこの世の狭間、常世。そこにある絢爛豪華な花街は、今日も沢山の魑魅魍魎で賑わっていた。
「今日は古代魚の切り身がお得だよォ」
「薬味はいかが、薬味はいかが、イモリの薬味はいかがかな」
柱から柱へ連なる橙の提灯が、風に吹かれてゆらゆらと揺れる。魚人が魚屋の宣伝をして、蛙が籠を背に街を練り歩いていた。
リーン、リーンと風鈴の音が、雑踏に混じって聞こえてくる。その音はまるで空気を刺すように、美しく響いていた。
花鳥風月と呼ばれるこの都市は、あの世とこの世の狭間にある神域である。花街である畳縁街はその中でも屈指の人気を誇る観光スポットであり、夜に咲く美しい花々を見に地獄や現世からここに来る者も少なくない。
しかし、一見煌びやかな花街だが、そこには常に危険が付き纏う。変な客もいれば、遊女と心中を企む者……八咫烏警察に突き出される者が、多いこと多いこと。
そんな今日も、一人の客がお縄につこうとしていた。
「小紫たん!なんでボクじゃダメなんだぁぁぁ!」
「はいはい、話は署で聞きますから」
頭に小紫と書かれたハチマキを巻いたふくよかな男鬼が、見下ろす遊女の足元に縋っている。それを一蹴した烏天狗は、無線に何かを喋りかけながら懐から手錠を取り出していた。
「はい、火車に乗って」
「嫌だぁぁ!」
赤のサイレンが付いている火車に乗せられるのを拒む男鬼を眺めながら、烏天狗は遊女の後ろでその様子を傍観していた少女に声をかける。
「いやぁ“ノラ”さん、今回も情報提供ありがとうございました」
その言葉に、ノラと呼ばれた少女は淡々と無表情で答えた。
「えぇ、すぐに対応できて良かったです。またああいう輩が出たらよろしくお願いします」
「今日も安定の冷淡さ……了解です」
ノラはでは、と足を翻すと、花街の奥へと歩いていってしまった。それを見て、新米の烏天狗が問いかける。
「情報提供って、どういうことっすか?」
烏天狗は無事火車に乗った男鬼を見届けると、ふわりと笑いながら言った。
「彼女はノラ先生。この花街を守る、たった一人の薬師だよ」
◇◇◇
花街、それは美しい花々の咲く煌びやかな夜の街──といえば聞こえは言いものの、実際は蜘蛛の巣のように悪意の蔓延った絡繰作りの濁った澱である。
そんな花街が幾分か平和なのは、人々の働きかけ、そして、一人の少女によるものだろう。
ノラは花街屈指の人気郭、紅蓮楼で、出張薬屋を開いていた。背負う形の小さな薬棚の中からいくつかの薬草を取り出し護摩で擦る。遊女たちはゆったりとした服装で、ノラの周りに集まり姦しく騒いでいた。
「ノラ先生、冷えに効くお薬はあるかしら?」
「ノラせんせ、鬼灯の実が少なくなってきたわ」
「先生、あちきにも傷薬をおくれ」
やいのやいのと騒ぐ遊女たちに、ノラは無言で護摩を擦る。やがて薬草を擦り終わったのかパッと顔をあげると、一通り遊女達の顔を見渡した。そして一番奥にいた遊女を見て、眉を顰める。
「太鳳さん……また無理な食事制限をしていますね?」
太鳳はゆったりとした動きでノラを見上げると、ふんと鼻息を荒くして立ち上がった。そして着物の裾を引きずりながらつかつかとノラに詰め寄ると、見下ろしながら低い声で言う。
そのはだけた着物の襟元から覗く鎖骨は、刃物のように尖り、帯は何度も締め直したのか不自然な程に余っていた。
「あんたには分からないだろうね。売れるためには、過度な食事制限だって必要なのさ」
そう言うと、太鳳は満足したように部屋を出ていってしまった。周りの遊女たちが、気まずそうに目を合わせる。
「すまないねぇ先生。あの子、最近特にイライラしてるのよ。どんどん痩せてくし、心配だわぁ」
小紫花魁は、はぁと色っぽい仕草で頬に手を当てる。他の遊女たちも口々に最近の様子について語り出した。
「で、でも、太鳳は禿たちに優しいわ」
「変な客が来たからよ。ほら、あの狸親父……」
「朝起きるのが早いわよね、誰よりも。ちゃんと寝れてるのかしら?」
流れるような話に耳を傾けながら、ノラは顎に手を当てて考える。
遊女の過度な食事制限はよくあるものだ。しかし太鳳ほど痩せ細る者は見た事がない。あれは最早──……
「まるで病気ね」
ぽそりと遊女が放ったその言葉が、ノラの頭から中々離れなかった。




