6-1 目覚めてその後
あの時、俺はどんな顔をしていたのだろうか。
大切なものは今も目の前にいる。なのにこうも喪失感や虚無感を覚え払拭できないのは決して彼女が原因ではない。俺が彼女を守り切れなかった所為であり、自分自身に対して歯痒さと慙愧の念が付き纏う。
「ねえ……えっと」
「ナナシだよ。エルミラ」
「そうだった。あなたの名前がナナシ。わたしの名前はエルミラ。今度こそ覚えたわ」
正直、泣いてしまいたい気持ちだった。しかしぐっと堪えて笑顔で頷く。
エルミラは記憶を失った。
俺のことも、自分自身のことも殆どの記憶が抜け落ちた。言葉こそ話せるが、人物、地名、識字、常識、何もかもを。
同時に、性格までも変化してしまった。
大人びていた雰囲気はなくなり、見た目相応の幼気ない子供のような言動を取るようになった。
医師曰く、脳の損傷による由来のものであり、一時的か恒久的かは分かり兼ねるとのこと。
当人のエルミラはその事実に対しても理解していないように首を傾げていた。言葉の受け答えや意味は理解しており、誰かのサポートがあれば日常生活に大きな支障はないだろうとの診断で退院に至った。
そして今、帰宅を果たしたエルミラは自身の部屋を物珍しそうに目を配り物色している。まるで全てが初めて見るもののように。
「それでねナナシ。ここがわたしの家で、ナナシもわたしと一緒にここで暮らしていたの?」
「ああ。行く当てのなかった俺をエルミラが拾ってここに住む事を許してくれていたんだ」
「そっか!じゃあこれからも一緒だね。よかった!」
辿々しく舌足らずな口調と屈託のない満面の笑み。そのどれもが過去のエルミラが見せたことのないものであり、別人のように感じてしまう。それでも彼女はエルミラ本人で間違いない。今はただ彼女の回復を願うことしか出来ない事ももどかしさを増長させる。
「エルミラ様、ナナシ様。おかえりなさいませ」
小気味よく三度扉を叩く音から一拍置いて入室し、慇懃に頭を下げ挨拶する小柄な尖耳族の女性。男性用の黒い給仕服を着用し、薄く微笑んだような表情と丁寧な言葉遣いとが相俟って落ち着きのある大人の印象を与える。
「ただいま。リューイ」
片手を胸に当て会釈するリューイをエルミラがまじまじと見つめる。記憶がない彼女にとって、俺よりも付き合いが長いリューイの事も初対面の誰かにしか見えていないのだろう。
「あなたも一緒に住んでいるの?」
「私はエルミラ様の身の回りのお世話を務めさせていただいている身でございます。侍女のようなもので、同居はしておりません」
そうなんだ、とエルミラは分かっているのかいないのか定かではないあっさりとした返事をする。
リューイはエルミラが管轄する娼館クラウド・ステラの運営のすべてを任せられている。俺もエルミラが記憶を失う前にも顔を合わせており、毎日決まった時刻にここへ訪れては家事全般を請け負い、終えれば静かに去っていく。その仕事は丁寧且つ洗練されており、衣類の洗濯をさせれば新品同様に仕上げ、部屋の清掃は埃ひとつ残さない。料理に至ってはそこらの飲食店の足元にも及ばない。クラウド・ステラの管理も行いながら大変だろうと気を回すと、
『エルミラ様のお世話は私の生甲斐でございます』
と柔和だが確固たる決意で「余計な配慮をするな」とにこやかに言われた。
俺がエルミラに気に入られている以上、その対象に含まれているらしい。容姿や体格はエルミラに近く、色素のない真っ白で短い髪に子供のように小柄で凹凸の少ない体形をしているが、尖耳族であるため俺より年上だろうとの事。俺自身が自分の年齢が分からないので恐らくは、だが。
「ナナシ様、お話は既にお伺いしており、僭越ながらご出立の準備は完了しております。お申し付けいただければいつでもご対応にあがります」
「ありがとうリューイ。いつも申し訳ない」
「とんでもございません。これも私の大切な職務であり、私の趣味のようなものでございます。どうかお気遣いなく」
これは謙遜でも社交辞令でもなくリューイの心からの意志である。否定すると色々と恐いので素直に受け取っておこう。
「そうなの!お出かけするのよわたし!リューイも来るの?」
「私は留守を任せていただきます。私など気にせずどうぞお楽しみください」
お出かけ、か。まあ間違いではない。
事の発端は二日前に遡る。
◆◇◆◇◆◇◆
エルミラの病室に現れたムスターは困惑の表情を浮かべる。
大人びて艶やかな、良く言えば上品な、悪く言えば淡々とした雰囲気のエルミラは何処にもおらず、ベッドの上で足をばたつかせ絵本を読み耽る童女がいるだけだからだ。
ぺらぺらと本のページを捲っては戻しを繰り返すエルミラ。書いてある文字ではなく挿絵を楽しんでいるようだった。
エルミラが目覚めて丸一日。体調こそ良好だが記憶は戻らないままだ。
「報告は受けておりましたが、事実、なのですね」
頭部損傷による後遺症。記憶を失っただけではなく、言動だけではなく性格までも変質し見た目通り子供のようになってしまった。
「俺が、護れなかったばかりに……謝って済まされる事じゃあないが、本当に申し訳ありません」
「ナナシ殿が責任を感じる必要はありません。元はエルミラ様が独断で行動した事によるもの。延いては私の配意の至らなさが招いた結果です。どうか、頭を上げてください」
落ち着いた口調で紳士的に対応するムスターは、何かを言い淀み黙考する。
パルウァエ森林の動乱の一件で聖教とフェイリックス騎士団は事態の収拾に追われていると聞いている。そんな中、いかに聖教の要人であるエルミラが意識を取り戻したからといって、国の代表自らが赴き様子を見に来るだけとは考え難い。
「俺……私が力になれる事があれば、なんなりと仰ってください。この凡愚に務まる事であれば、お力添えいたします」
顎鬚を摘みながらムスターは静かに息を吐く。
「今から十日後、魔導先進国ヴァイスで緊急の首脳会議が催され召集の呼びかけがありました。それに不浄の巫女、エルミラ様にもご出席いただきます」
意を決し本題を切り出す。ムスターも幼児退行にも近しい症状に見舞われている状況のエルミラにどう伝えたものかと逡巡したに違いない。ただ、こんな状態の彼女に国家同士の会議に参列させるのは中々に荷が重いように思える。
「発端はパルウァエ森林の瘴気発生及び浄化の報告でした。それに加え此度の異常個体の登場により議題はより大きなものとなり、当初は来年の頭だった首脳会議が早まった次第です」
「それにエルミラを参加させる、と?ですが……」
「大変心苦しい所存ではございますが、何卒。これまでも国際的な談合にはエルミラ様にもご同席いただいておりました。エルミラ様の持つ大いなる神秘は唯一無二の権能を有し、他国への優位性のみならず牽制にもなっております。エルミラ様が記憶を失くされその力も満足に奮えぬやもしれないと悟られればエルミラ様の地位のみならずフェイリクッス全土が貶められる危惧が生じる可能性も否定できません。その為、エルミラ様の記憶喪失は黙秘し会議を遂げる必要があります」
国の利害や打算に微塵も興味はないが、ムスター個人の立場ではなくエルミラの今後を案じる考えを含めての提案だ。何も言い返せない。
「道中の護衛はどうするのですか」
「無論、聖教騎士修道会からの精鋭とフェイリックス騎士団からも派遣いただく運びになっております」
「そうですか……」
国の首脳と重鎮が長距離の移動をするのだ。当然その警備は厳重で、信頼に足る人員をあてがう。あわよくば俺も同行出来ないか歎願しようと思ったが難しいだろう。
「そしてナナシ殿。貴方にもお願いがあるのです」
神妙な面持で俺へ一枚の紙きれを手渡すと、「お願い」の内容を話し出す。
その内容は俺に断る理由はなく、二つ返事で承諾した。




