第9話 帝都への降臨
落ちる感覚はなかった。
目を閉じて開けたら、草の匂いがした。
足の裏に湿り気を含んだやわらかい土があった。ひなたは息を吸って吐いた。秋の終わりの夕方の空気で、冷たくて、少しだけ甘い。
「ひなちゃん」
「うん。いる」
手はまだ繋がっていた。もう何度確かめたかわからないのに、和也はもう一度指に力を込めた。ひなたも握り返した。
目の前には、庭が広がっていた。
芝は手入れされて低く揃い、奥には古い桜の木が一本立っている。葉は半分落ちて、枝の間から空が透けていた。その空に、光の玉がいくつも浮かんでいる。街灯だった。柱もなければ線もない。夕暮れの空気の中にただ丸い灯りがぽつりぽつりと浮いて、ゆっくり明るさを増していく。
「すごい」
声が自然と漏れた。ひなたは自分の声に少し驚いた。
「すごいね。これ、全部浮いてる」
「落ちてこないのかな」
「落ちないでしょ。落ちたら大変だよ」
「落ちたら拾う」
「そういう問題じゃない」
並んで見上げるうちに、ひなたは気づいた。庭の向こうに塀があり、塀の向こうに屋根がいくつも連なっている。煉瓦の壁。細長い窓。丸い屋根の上に風見鶏のようなものが載っていて、夕風でゆっくり回っていた。
その屋根の上の空を、細長い車体が一つ、音もなく横切っていった。
窓にぽつぽつと明かりが並んでいる。線路もない空を、車体はただ水の上を滑るように進んでいく。しばらくして、遠くの駅のほうから風に乗って、人のざわめきと、誰かの呼ぶ声と、扉の開閉する小さな音だけが届いた。乗り降りする人たちの気配だった。やがてそれも止み、車体はまた音もなく動き出して、屋根の向こうに消えた。
「電車、だよね」
「浮いてた」
「音しなかったね」
「静かすぎて逆に落ち着かない」
和也が小さく笑った。
「ひなちゃん」
「ん」
「頭の中に地図がある」
「え」
「いや、変な意味じゃなくて。この家の敷地とか、塀の外の道とか、ぜんぶ見える。目を閉じても。あと」
和也は目を細めて、庭の四隅を順に見た。
「危ないものはない。なんにも、感じない」
「よかった」
「ここ、安全みたい」
その言い方は、ほっとしているというより、確認だった。この人は、ひなたを連れてきた責任を誰よりも重く受け止めている。ひなたはそれを知っていたから、何も言わずに肩を寄せた。
ふと自分の手を見て、ひなたは動きを止めた。
手の甲に張りがあった。爪の根元の艶が違う。指の関節の少し硬くなっていたところが、すっと滑らかになっている。
「和くん」
「うん」
「顔、見せて」
和也が振り向いた。
見慣れた顔だった。ただ頬の線がほんの少しだけ丸い。目元の疲れが消えている。社会人になってからすっかり落ち着いたと思っていたこの人の顔に、まだ学生の面影があった。
「若い」
「ひなちゃんもだよ」
言われて、ひなたは頬に手を当てた。肌がやけにつるりとしている。自分ではよくわからなかったけれど、和也の目を見ればわかった。眩しいものを見るように、そして少し照れたように、こちらを見ていた。
「二十歳のひなちゃんだ」
「何その言い方」
「俺が会いたかったひなちゃんの、もうちょっと前」
「前って」
「会えなかった頃のひなちゃん」
ひなたは言い返せなかった。耳が熱い。年齢は戻っても、その手の台詞に弱いところは何も変わっていない。
その時、背後で何か動いた音がした。
振り返ると、邸があった。
二階建ての、大きな洋館だった。外壁は淡いクリーム色で、窓枠は深い焦げ茶。玄関の上にはアーチ型の庇があって、そこに小さな浮き灯りが一つ点っている。屋根の端にちらりと見えるのは、きっと二階のベランダだ。
その隣、少し離れたところに、一回り小さな別棟が建っていた。入口の上に、まだ何も書かれていない看板板が掛かっている。
あれが、店になるのだろう。
ひなたは玄関の扉に向かって歩いた。足が勝手に速くなった。
取っ手に手を掛け、開ける。
「あ」
声が出るより先に、廊下の奥で床が鳴った。
ムギが座っていた。
玄関の真正面、板張りの廊下の真ん中。まだ状況が飲み込めていない顔で、それでも体はきちんと正面を向いて。ひなたの顔を見た瞬間、耳がぴんと立った。尻尾が床を一度だけ打ち、それから慌てたように、続けざまに何度も打った。
走ってこなかった。ムギは立ち上がって、ゆっくり一歩ずつ近づいてきた。いつもの歩き方で、ブリーダーの庭先で見たあの日と同じ歩き方だった。膝のあたりで止まって、顔を見上げる。
ひなたは、しゃがんだ。
「ただいま」
ムギの額が肩に当たった。ぐ、と体重がかかる。それから首筋に鼻先が潜り込んで、息が耳の下にかかった。いつもより長かった。
「ごめんね。遅くなった」
喉の奥が熱かった。今度は涙は出なかった。代わりに腕に力が入って、ムギの背中を抱いた。
後ろから和也が入ってきた。
「うわ」
小さな声が上がった。ひなたが顔を上げると、廊下の奥から白い塊が二つ転がり出てきていた。大福とミルクだ。大福は走りながら止まれず、玄関マットを滑らせて壁際まで流れていく。ミルクはその脇を抜けて、一直線に和也の足元へ。
「ごめんごめん。靴脱ぐから待って」
「あはは、ミルク。足の上乗るなって」
和也が笑いながら靴を脱ごうとして、バランスを崩しかけた。大福が体当たりで支えた形になって、結局二人で廊下に座り込んだ。ひなたは声を出して笑った。ムギも尻尾を振りながら、その輪に加わる。三匹が代わる代わる和也の顔とひなたの顔を舐めに来た。
その時、頭上でかたん、と小さな音がした。
階段の上だった。
小さな影が並んでいる。手すりの隙間から、四つの顔がこちらを見下ろしていた。檸檬。ラスク。ショコラ。あんず。
誰も降りてこなかった。見慣れない匂いのする場所で、見慣れた足音が聞こえて、それでも半信半疑で階段の上に留まっている。
ひなたは立ち上がって階段の下まで歩いた。
「みんな。ただいま」
檸檬が最初に動いた。三毛の体を低くして一段降りる。もう一段。そして最後は小走りになって、ひなたの足首に体をぶつけてきた。何度も、何度も。体をこすりつけるたびに、細い声が喉から漏れた。
「いい子。待っててくれたんだね」
ラスクとショコラは、階段の途中で和也を見つけた途端に立ち止まった。それから、競うように駆け下りて、和也の膝へ。
「重い重い。二匹いっぺんに乗るなって」
言いながら和也の顔は緩みっぱなしだった。
最後に、いちばん上の段からあんずが降りてきた。ほかの子たちがひとしきり騒いだ後、ようやく降りる気になったらしい。一段ずつ慎重に、白い体を揺らして。ひなたが手を差し出すと、顎を乗せた。喉がごろごろと鳴った。
「あんず」
小さな頭を撫でると、あんずは目を細めた。
階段の上の廊下から、ももとゆずの姿も覗いている。二匹は寝起きの顔で、のんびり欠伸をしながらこちらを見ていた。
家の中の匂いは、前の家と同じだった。猫砂の匂いと、犬たちの毛の匂い。窓際の日向の匂い。あの子たちのごはんの器も、寝床も、トイレも、置き場所までそっくり同じだ。一つだけ違うのは、窓の向こうに浮かぶ光の玉だった。
「和くん」
「ん」
「帰ってきたね」
「うん」
「ここ、私たちの家なんだね」
「うん」
その短い返事の中に、和也が飲み込んだ言葉の数が見えた。ひなたは何も言わず、彼の袖を引いた。和也は膝の上の猫たちを抱えたまま、顔だけこちらに向けた。
「ひなちゃん」
「なに」
「明日から、どうする」
「とりあえず、ごはん」
「あ、そうだね」
「犬のごはんと猫のごはんがちゃんとあるか確認して」
「そこから?」
「そこからだよ」
笑い合った二人の頭上を、窓の外の浮き灯りがひとつ、ゆっくり横切っていった。
台所の窓からのぞく空には、藍色が降り始めていた。屋根の向こうでは、見たことのない街が静かに灯りをともしていく。ひなたはムギの背中に手を置いたまま、その灯りを長いこと見ていた。
怖くないと言えば嘘になる。でも、足元にはいつもの重さがあって、手のひらにはいつもの体温がある。それだけで、この夜は越えられると思えた。
こうして、ひなたと和也の、新しい日々が始まった。




