第10話:新しい家
玄関の扉を閉めると、庭の灯りが磨りガラス越しにぼんやり滲んだ。
「まず全部見て回ろう」
ひなたが言うと和也が頷いた。
「地図があるから迷わないよ」
「私が迷わないためのスキルでしょ」
「そう」
悪びれもしなかった。ひなたは笑って靴を揃えた。
さっきは気づかなかったが、玄関の内側にもう一枚格子の扉があった。外の扉を閉めてからでないと、開かない作りになっている。和也が指でつついて確かめた。
「ちゃんと二重になってる」
「猫が出られないようにだね」
「頼んだ通りだ」
廊下を挟んで左がリビングで右が台所。リビングのソファは前の家のものだった。右の肘掛けのほつれまで同じで、床には大福のおもちゃが転がっている。ミルクが拾ってきてくわえたまま足元に座った。
「それ私にくれるの」
返事の代わりにおもちゃが、ぽとりと手のひらに落ちた。
台所は前の家の三倍はあった。作業台は大きな一枚板で壁際には、鉄の扉がついた堂々としたオーブンが据えてある。隅に見慣れた小さな冷蔵庫がちょこんと置かれていて少しだけ恥ずかしそうに見えた。
「立派すぎない」
「ひなちゃんが料理人だからでしょ」
「私はホテルの厨房に比べたら、小さいくらいで慣れてるよ」
「それは兄貴のホテルがおかしい」
蛇口をひねると水が勢いよく出た。ひなたは手のひらで受けて口に含んだ。冷たくてほんのり甘かった。
「おいしい」
「ほんと」
和也も同じようにして目を丸くした。
「前の水道水と全然違う」
「ヒヅキ様が言ってた湧き水だね」
ひなたは、犬たちの水入れを三つ並べて満たした。ムギが真っ先に顔を寄せて飲んだ。ごくごくと喉が動いてから、顔を上げて小さく鼻を鳴らした。大福とミルクも続いた。水面に映った三つの鼻先が揺れた。
二階へ上がる階段の途中で、ひなたは足を止めた。
一番上の踊り場に猫たちの寝床が並んでいた。ももとゆずの大きなクッション。檸檬たち四匹のクッション付きかご。キャットタワーも爪とぎも、前の家と同じ向きに置かれている。窓は全部細い格子で守られていて、内側にもう一枚ガラス戸がある。その窓辺にちょうど、座布団の大きさの日だまりができていた。
「こんなに広かったら迷子になるんじゃない」
「ひなちゃんが?」
「猫が」
「猫は大丈夫でしょ」
ひなたが振り返ると、猫たちはもう思い思いの場所を決めていた。ラスクは踊り場の手すりの上。ショコラは和也の足元。ももとゆずは窓際の日だまりを半分ずつ分け合っている。檸檬だけがひなたの足首から離れなかった。
「まだ不安なんだね」
しゃがんで抱き上げると、小さな体が胸に収まった。心臓の音がとくとくと速く伝わってくる。
ひなたは指で檸檬の耳の後ろを撫でながら脈を数えた。毛並みを分けて皮膚の色を見る。目の縁の赤みと歯茎の色。指先が勝手に動いていた。
仕事ではない。ただ触りたかっただけだ。そう自分に言い聞かせたけれど手は止まらなかった。
「大丈夫。どこも悪くないよ」
そのまま一匹ずつ確かめていった。寝てるももとゆずは後回しにして、ラスクの鼻の湿り気。ショコラの肉球。あんずは抱き上げた途端に小さく震えたが手のひらで包んで背中を撫でるとすぐ静かになった。階下ではムギと大福とミルクがひなたの後をついてきて階段の下で順番を待っていた。三匹とも確かめ終えたころには窓の外はすっかり暗くなっていた。
「異常なし」
ひなたが言うと和也が小さく息をついた。
「よかった」
「和くんも心配してたの」
「してないよ」
「してたでしょ」
「ちょっとだけ」
素直に認める顔がおかしくて二人で笑った。
寝室は二階の奥だった。ベッドは前の家のもので、枕の位置まで同じだった。クローゼットを開けると、二人の服が並んでいる。ひなたのエプロンも、和也が学生のころから着ているパーカーもそのままだった。
「全部ある」
「ほんとに全部持ってきてくれたんだ」
和也がベッドの端に腰を下ろして、天井を見上げた。
「俺さ」
「うん」
「ここに来たら、何も残ってないんじゃないかって思ってた。ちょっとだけ」
「私も」
ひなたも隣に座った。マットレスが沈んで二人の肩が触れた。
「でもあるね」
「うん」
一階に戻ってからひなたは、もうひとつ確かめることにした。
「アイテムボックス」
「どうやって出すの」
「頭の中で開けって思えばいいって言ってたよ」
和也が目を閉じた。数秒後に「あ」と声を上げた。
「見える。部屋の中みたいな感じで」
「中に何か入ってる」
「何も入ってない」
「じゃあ試してみようか」
ひなたは台所のやかんで、お湯を沸かして紅茶を淹れた。湯気の立つカップをテーブルに置いて、そのまま念じる。カップが目の前からふっと消えた。
「入った」
「中は熱いままなんだよね」
「確かめるのは後でいいよ。冷める前に出さないと意味ないから」
和也が笑った。それから二人で夕食の支度に取りかかった。
冷蔵庫には、前の家のままの食材が詰まっていた。鶏もも肉と卵と玉ねぎと三つ葉。ひなたは親子丼にすることにした。
包丁を握って、玉ねぎを切り始めて数分後に妙な感覚に気づいた。次の手順が先にわかる。出汁の量も火加減も卵を流し込むタイミングも、頭の中に最初から地図のように描かれている。手が迷わず動く。
「どうしたの、ひなちゃん」
「ううん」
味見をしようとスプーンを持ち上げて止めた。舌に乗せる前から味がわかる。醤油の角が立っていないこと、みりんの甘さがちょうどいいこと、もうひとさじ出汁を足したくなる塩梅まで。
不思議だった。気持ち悪いというより、他人の手で自分の料理をしているような感じだった。
けれど、すぐに思い直した。
土台は私だ。これまで何千回も同じ手つきで作ってきた。その延長にあるだけだ。そう考えると胸のつかえが取れた。
「できたよ」
ひなたが二つの丼を運ぶと和也は、箸を持つ前に匂いを吸い込んだ。
「いただきます」
一口食べた途端に和也は黙った。
「どう」
「ひなちゃん」
「うん」
「いつもよりおいしい」
「いつもでしょ」
「いつもよりもっと」
ひなたも一口食べた。卵がとろりと柔らかく鶏の脂と出汁が口の中で溶けた。確かにいつもより一段上だった。それなのに少しも不自然ではなかった。
足元では犬たちが自分の器の前で静かに待っていた。ひなたは食べ終えてから三匹のごはんを用意した。犬用のごはんを専用の器に入れて並べる。
「よし」
三つの顔が器に沈んだ。猫たちには、二階に上がって四つと二つの器を並べた。
紅茶を出すことを思い出したのは、お皿を洗い終えたあとだった。
「出して」
「ほら」
和也が空中に手を伸ばすとカップが現れた。湯気がまだ細く立っている。ひなたが指先で触れると、ちょうど飲める熱さだった。
「止まってたんだ」
「すごいね」
ひなたはひと口飲んだ。淹れたてと何も変わらなかった。
「これなら冷凍しなくてもいいんだね」
「発想が料理人だ」
和也は笑いながらテーブルに頬杖をついた。




