第8話 加護の指輪
「最後に、行き先の話をさせてください」
ヒヅキが巻物を畳んで袖に仕舞った。セレスティアが背筋を伸ばす。さっきまで泣いていた子が急に役人の顔になるのが不思議だった。
「貴方がたが降りる国は、帝都と呼ばれる街を中心にしています。見た目は美しいところです」
「見た目は」
和也が拾った。ヒヅキは否定しなかった。
「道には電線がありません。灯りは空に浮かび、乗り物は蒸気と魔素で走ります。水は蛇口をひねれば出て、夜でも街は明るい。貴方がたの世界よりずっと先を行っている部分もあります」
「いいことに聞こえますけど」
「そこだけ聞けば」
ヒヅキは視線を落とした。
「ただ、人の体のことになると話が変わります。医術は驚くほど古いままです。傷が膿めば熱を出して耐えるしかなく、清潔という考え方が薄い。街だけが先に進み、人が置いていかれているのです」
ひなたの胸の奥で、元獣医師の部分が小さく身じろぎした。消毒も滅菌もない世界の手術台を想像しかけて、やめた。
「それと、この世界には生まれつき特別な力を持つ人がいます。一生に一つ授かるかどうかの力です」
セレスティアが言葉を継いだ。
「たとえば、触れた水の濁りを取れる人がいるとします。ただそれだけの力です。でもあの街では、その人は水道の仕組みの一部に組み込まれます」
「組み込まれる」
「生きたまま、です」
和也の指がひなたの手の中で硬くなった。
「病を見抜く力の持ち主は、駅の改札で人を調べさせられます。鳴った人は車に乗せられて、どこかへ連れて行かれます」
「それ、普通に人権とかないんですか」
「ないのです」
ヒヅキの声は平らだった。怒りも嘆きも混ぜていない。それがかえって重かった。
ひなたは黙って聞いていた。これは自分が背負う話ではない、と頭のどこかで線を引く声がした。同時に、同じ線の内側に絶対に入れたくないものがいくつも浮かんだ。ムギ、大福、ミルク、もも、ゆず、檸檬、ラスク、ショコラ、あんず、そして隣にいる夫。
「私たちも、そうなりますか」
「なりかねません」
ヒヅキが即答した。
「貴方がたにはスキルがあります。料理の力も癒しの力も、あの街の者に見つかれば欲しがられるでしょう。ですから、これを」
ヒヅキが両の手のひらを上に向けた。白い光が集まって、細い輪が二つ生まれた。
飾りのない銀の指輪だった。内側に小さく、月のような模様が刻まれている。
「加護の指輪です。つけている間、貴方がたの力は街の仕組みに感知されません。改札も、検査の機械も、貴方がたを素通りします」
「素通り」
「ええ。乗り物にも自由に乗れます。ふつうの住人として暮らせます」
ひなたは指輪を受け取って、掌で転がした。軽かった。
「結婚指輪の上から重ねてください」
「重ねる」
「外してはいけません。外さなければ、守りは続きます」
和也がひなたの掌から指輪を取り、ひなたの左手を取った。薬指に残る結婚指輪の上から、銀の輪がするりと滑り込む。思ったよりぴったりだった。ひなたも同じようにして和也の指に通した。二つの輪が重なって、小さく触れ合う音がした。
「お揃いだね」
和也が言って、すぐに口元を押さえた。この人はこの期に及んでそんなことを言う。ひなたは吹き出した。笑い声が、白い空間に思ったよりよく響いた。
ヒヅキの肩が少しだけ下がった。セレスティアも、泣き笑いのような顔をしていた。
「ひとつ、申し訳ないことがあります」
ヒヅキが言った。
「帝都の水は、飲み水としては勧められません。ですが貴方がたの邸の水だけは、私が手を入れました。聖域の湧き水に切り替えてあります。犬も猫も、安心して飲めます」
「……ありがとうございます」
それを聞いたとき、ひなたの肩の力がようやく本当に抜けた。ごはんの話ではなく、水の話をまず気にしてくれていたのだ。
「それでは」
ヒヅキが片手を上げた。
「行ってらっしゃいませ」
「あの」
セレスティアが一歩出た。
「何かあったら、いつでも。私が、必ず」
「その前にちゃんと確認しなさい」
「は、はい」
和也が噴き出した。ひなたも釣られた。
白い床が、ふっと消えた。




