第6話:特例の交渉と願い
「全員とは」
ヒヅキが静かに問い返した。
「犬が三匹と猫が六匹です。檸檬もラスクもショコラもあんずも拾ってまだ半月なんです。ももとゆずも来て二ヶ月で」
言いながらひなたは自分の声が少し早くなっているのに気づいた。深呼吸をひとつして続けた。
「それに家にある物も全部です。あの子たちのごはんも寝床もトイレも爪とぎも全部。でも、あの家は兄が貸してくれていた家で…」
そこで言葉が詰まった。
春翔が笑って鍵を渡してくれた日のことが浮かんだ。家賃はいらないと言った。お前が家賃を払い始めたら俺は怒るからなと。冗談のような口調だったのに、目だけが真面目だった。
「兄の持ち物ですけど、私たちには家そのものなんです。何も残さずに全部持って行ってしまうのは、兄に申し訳ないと思います。でも中身は動かさないと」
「承知しました」
ヒヅキが頷いた。
「家具も寝具も貯えも全てそのまま運びます。残された場所は、初めから誰も住んでいなかったように整います」
「それは」
和也が口を挟んだ。
「兄貴たちが困らないってことですよね」
「はい。部屋は空き家の姿に戻ります。貴方がたがそこにいた痕跡は残りません」
痕跡という言葉がまた胸に刺さった。ひなたは膝の上で手を握った。
「ひなちゃん」
和也がそっと指を重ねた。
「お兄ちゃんたち」
声が震えかけたのでひなたは、一度唇を結んだ。
「私がいなくなったら探すと思うの。ずっと。警察に行って何年も何十年も探して」
朝陽が厨房の隅の椅子に黙って座っていた三十分が浮かんだ。春翔が目分量で測ってきた爪とぎ。朝陽が大福、春翔がミルクを連れてきたときのあの低い声。
「両親もそう」
喉の奥が熱くなった。
「だからお願いしたいことがあります」
ひなたは顔を上げた。
「地球にいる家族から私たちの記憶を消してください。探さなくて済むように、苦しまなくて済むように」
言い終えたとき頬を涙が伝った。
ぽたりと膝に落ちて、白い床に染みもつけずに消えていく。止めようと思ったけれど止まらなかった。
和也は何も言わなかった。ただ親指でひなたの頬を拭い、自分の肩にひなたの頭を引き寄せた。
「俺も同じお願いをします。うちの親と妹がいるので」
「和くん」
「ひなちゃんだけに背負わせたくないから。それに妹、俺よりひなちゃんに懐いていたし」
セレスティアが口元を両手で覆って泣いていた。ヒヅキは目を伏せたまま静かに言った。
「叶えます。それから、貴方がたの預金も全てこちらへ。向こうで困ることのないように」
「ありがとうございます」
ひなたは袖で顔を拭いた。泣いたあとは頭が静かになる。それがありがたかった。
「家のことですが」
ヒヅキが巻物の端を指で弾いた。
「新しい土地では、庭のある広い邸をご用意します。店を開くための場所も併設して」
「店」
「貴方がたの暮らしを守るには、それが一番よいと思います。ひなたさんは料理がお上手でしょう」
ひなたは目を瞬いた。それは確かにそうだった。
「条件があります」
ひなたは身を乗り出した。
「猫たちは家猫です。絶対に外へ出さないでください。窓も出入り口も全部二重扉か柵にして店には入れないようにして、暮らせるように」
「承りました」
「犬たちも店の敷地には入れたくありません。お客様に迷惑をかけたくないので」
「全て整えます」
あまりにすんなり答えが返ってくるので、ひなたは拍子抜けした。ヒヅキが微かに笑った。
「それだけ大事にしておられるのでしょう。見ていればわかります」
隣で和也が小さく手を挙げた。
「俺からもいいですか」
「どうぞ」
「俺たち五つ離れてるんです。ひなちゃんが三十歳で俺が二十五歳」
「存じています」
「それを同じにしてほしいです。二十歳に戻してください」
ひなたが振り向いた。
「和くん」
「前から思ってた。この五つの差がどうやっても埋まらないのが嫌だった」
和也はひなたの目を見なかった。膝の上の指先を見ながら早口で続けた。
「見た目の話だけじゃなくて。同じ場所に立ちたいんだよ。二十歳にそろえれば五歳の差もなくなるし。ひなちゃんもその方が」
「待って」
ひなたが遮った。
「私はいいけど和くんはそれでいいの。二十歳は和くんにとっては若返りじゃなくて五年前に戻るだけでしょ」
「ひなちゃんと同じ場所に立てるなら安いよ」
平然と言われてひなたは言葉に詰まった。ヒヅキの眉がわずかに動いた。なんとも言えない顔をしている。
「承知しました。お二人とも二十歳の体に戻します」
「あとひとつ」
和也が顔を上げた。今度は目が合った。
「子どもはいらないです」
空気が静かになった。
「俺たちが行く先は医療が発達してないんですよね。ひなたが出産で命を落とす危険を取りたくないです。これは俺が決めたことで」
「和くん」
「ひなちゃん俺が嫌なんだ。ひなちゃんがいなくなる可能性があることが。それを選ぶくらいなら俺は二人だけで犬と猫に囲まれてる方がいい」
ひなたは言い返そうとして口を開いた。けれど出てきたのは小さな息だった。獣医師をしていたころ難産で運ばれてくる犬を何頭も見た。母親の体温が下がっていく数分間の長さを知っている。
「和くんがそう決めたなら」
「ひなちゃんは」
「私も同じ気持ち。ありがとう」
和也がほっとしたように肩を落とした。ヒヅキは何も言わず巻物に筆を走らせた。
その横顔を見ながら、ひなたは思い出していた。
親友の結婚式だった。
円卓の席札に藤波和也と書かれた名前を見て、年下だと知った。新郎の会社の後輩で二十四歳。当時のひなたは二十九でホテルで働き始めた頃だった。年下の男に興味はなかったし、他人に近づかれるのも苦手だった。席で隣になっても、藤波さんと呼んでぴしゃりと壁を作った。
「藤波さんって呼ばれると緊張します」
乾杯のあとに和也が言った。
「じゃあ何て呼べばいいですか」
「和也でいいです。古臭い名前で好きじゃないんですけど」
「いい名前だと思いますよ」
そのときは社交辞令のつもりだった。けれど彼は驚いたように目を丸くして、次の瞬間にはひなたが見たことのない顔で笑った。
それからだった。伊藤さんがひなたさんに変わりひなちゃんになった。ひなたも藤波さんが和也くんになり気づけば和くんになっていた。自分の名前が嫌いだった男が呼ばれるたびに、少しずつ好きになっていくのを見ていた。付き合い始めて、三ヶ月で結婚すると言い出されたときは、驚いたが断る理由は見つからなかった。
あの日の乾杯の音がまだ耳の奥に残っている気がした。
ヒヅキが再び光の文字を空中に浮かべた。




