第5話:神様たちの大失態
声が聞こえた。
女の人の声だった。低く澄んでいて怒鳴ってはいないのに、空気ごと押さえつけるような響きがある。
「あなたという子は、どうして確認という言葉を知らないのですか」
「ごごごめんなさい ヒヅキ様」
「謝罪は聞いていません。理由を述べなさい」
ひなたは和也の胸から顔を上げた。
少し離れた白の中に二人の女性が立っていた。いや片方は立っているというより縮こまっていた。
怒っているほうは、艶のある黒髪を低い位置で結い上げ、淡い藤色の着物に身を包んでいた。背筋が定規のように伸びている。年齢はよくわからない。三十代にも見えるし千年生きていると言われても納得できそうな顔だった。
もう一人は亜麻色の髪を肩で揺らした若い娘で、白い衣の裾を両手で握りしめたまま肩を震わせている。目の縁が赤い。もう何度も泣いたあとらしかった。
「名簿の番号を一つ読み違えました」
「一つ」
「はい、一つです」
「一つで人の人生が一本すり替わったのですよ」
「はい」
「しかも日付も違っています。本来は明日のはずでしょう」
「はい、明日でした」
「では、なぜ今日なのです」
「暦を、暦を見間違えて」
和也が小さく息を吐いた。耳元だったのでひなたにははっきり聞こえた。
「ひなちゃん、これ俺たちの話してるよね」
「たぶん」
「だよね」
二人は床に座り込んだまま顔を見合わせた。恐怖はなかった。落ちている間にあれほど速かった心臓は、今は不思議なほど静かだった。それよりも頭の隅で別の数字がずっと回っていた。
ムギは廊下で待っている。檸檬は階段の途中。猫砂は買っていない。
その数字が消えないまま目の前の叱責を聞いていた。
「あの」
ひなたが声を出すと二人の女性がぴたりと動きを止めた。ヒヅキと呼ばれた着物の女性がゆっくりと振り向く。目が合った瞬間にその顔から叱る色が剥がれ落ちた。
「ああ」
静かな声だった。
「お目覚めでしたか。見苦しいところをお見せしました」
ヒヅキは裾をさばくと二人の前へ進み出た。そして一切の迷いなく膝を折り両手を白い床につき額を下げた。
「このたびは私どもの手違いでお二人を巻き込みました。神としてお詫びいたします」
「え」
「ちょっと待ってください」
和也が慌てて声を上げた。ひなたも反射的に手を伸ばしかけた。けれどヒヅキは顔を上げない。その背後でセレスティアが、泣き出しそうな顔のまま、飛び込むようにして床に額を打ちつけた。
「ひ、ひなた様、和也様、本当に本当に申し訳ありませんでした」
ゴンと音がした。
「痛そう」
ひなたは思わず呟いた。
「痛いです。でもこれくらいでは足りません」
「足りるとか足りないとかじゃなくて」
「足りません。私のせいで」
「セレスティア」
ヒヅキの声が静かに響いた。
「お二人にきちんと説明を」
「はい」
セレスティアは顔を上げた。額が赤くなっている。涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだったが、それでも背筋を伸ばし両手を膝に置いた。
「落とすはずだった人は別にいたんです」
「別の」
「はい、異世界へ転移させる予定だったのは、明日の午後に事故に遭うはずの青年で、その魂を拾い上げて送る手筈でした。でも私が名簿の番号を間違えてしまって」
「それが私たち」
「お二人が手を繋いで道へ出るその瞬間を、穴で受けてしまいました」
和也が額を押さえた。
「つまり人違いで日付も違う」
「はい」
「完全に間違いじゃないですか」
「はい」
「戻れるんですよね」
和也の声がわずかに硬くなった。ひなたはその横顔を見た。表情はいつもと同じように見えた。けれど繋いだままの手に力が入っているのがわかった。
セレスティアが唇を噛んだ。
ヒヅキが代わりに口を開いた。
「戻せません」
白い空間に声が落ちた。
「穴を開けた時点で、貴方がたがいた場所の時間は閉じました。あの道にはもう貴方がたがいた痕跡が残っていません。魂を戻すことはできても居場所がありません」
ひなたも和也も黙っていた。
静寂の中でひなたは自分の内側を覗き込んだ。泣きたいのかと自問する。胸の奥を探る。そこには悲しみのようなものが確かにあった。けれど涙腺は動かなかった。手術室の前で飼い主に頭を下げた日と同じ静けさだった。
そして和也の手の温度だけがはっきりと熱かった。
「家には」
ひなたの声は思っていたよりも平坦だった。
「家には動物がいるんです。犬が三匹と猫が六匹。まだ小さい子も多くて、私たちが帰らなければ」
「承知しています」
ヒヅキが顔を上げた。
「その子たちを置き去りにするつもりはありません。順にお話しします」
「ひなた様」
セレスティアが涙の残る声で言った。
「猫ちゃんも、わんちゃんも、みなさん無事です。今はまだ何も知らずにお家で眠っています。私がそれだけは何度も確認しました」
嘘をついている目ではなかった。ひなたは、ほんの少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
和也が息を吐いた。長い息だった。
「ひなちゃん」
「うん」
「怒っていいと思う。俺は怒ってる」
「うん、私も怒ってる。多分」
「多分」
「ちゃんと怒れるかまだわからないの。順番にしたい」
和也は少し目を丸くしてそれから吹き出した。笑いが喉の奥で震えた。
「ひなちゃんらしいな」
その声を聞いて二人の女神が揃って肩を縮めた。気まずそうだった。ヒヅキが小さく咳払いをした。
「お怒りはもっともです。本来であれば私どもが何をお出ししても足りません」
ヒヅキは懐から巻物のようなものを取り出した。手首を返すと白い空中に光の文字が浮かび上がった。
「ですから、私どもにできる限りの償いをさせてください。貴方がたの望みを一つずつ伺います。そのうえで新しい世界で生きるための力をお渡しします」
「力」
「スキルと呼ばれるものです」
光の文字が六つに分かれた。
「セレスティア」
「はい」
セレスティアは涙を袖で拭った。それから震える指先を光に伸ばした。
「私が選びました。お二人の魂に合うものだけです。失礼ながら魂の形を拝見しました」
一つ目の文字が輝いた。
料理人。
二つ目。
容量無制限で時間の止まる箱。
三つ目。
危険を察する力。
四つ目。
地図。
五つ目。
癒やしと回復の魔法。
六つ目。
遠い世界から物を取り寄せる力。
ひなたはそれをひとつずつ目で追った。
「全部でもいいんです」
セレスティアが言った。
「ただ 一度に持てる量には魂の器がありまして お二人でいくつかずつ分けるのがいちばん合うと思います」
和也が光の文字を見上げたまま小さく呟いた。
「ひなちゃん」
「うん」
「これさ、全部ひなちゃんに必要なものばっかりじゃない」
ひなたは頷いた。
最初に浮かんだのは大福の重さだった。膝の上で眠るミルクの体温。ムギが廊下の端でいつまでも座っていた背中。檸檬が一段だけ降りてきた階段。
あの子たちのごはんを買えなくなるのは嫌だ。
あの子たちを置いて行くのも嫌だ。
どこの世界であっても同じ暮らしをしたい。
「お願いがあります」
ひなたが言うとヒヅキが静かに顔を向けた。
「うかがいます」
ひなたは和也の手を握り直した。
「家の子たちを全員連れて行かせてください」
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