第4話:突然の落下
日曜の午後は猫砂が切れる日だった。
ひなたが玄関でエコバッグを畳んでいると、背後で床が鳴った。振り向くとムギが廊下の真ん中に座っている。散歩ではないと気づいているのに、耳だけがこちらを向いていた。その後ろでは大福とミルクが折り重なって寝ている。昼ごはんを終えたばかりの二匹は半分夢の中にいた。
「ムギ。お留守番お願いね」
ひなたが言うとムギは一度だけゆっくりと瞬きをした。わかったという返事なのか、納得していないという抗議なのか、ひなたにはいつも判別がつかない。それでもその場から動かない。
階段の途中には檸檬が座っていた。三毛の体を細くして手すりの隙間から玄関を見下ろしている。去勢の手術を終えてからちょうど一週間になる。傷はとっくに塞がっているのに、檸檬はあの日からひなたが靴を履く音に敏感になった。病院へ連れていかれた記憶が、体のどこかに残っているのかもしれない。
「すぐ帰ってくるよ。ほんとにすぐ」
ひなたがしゃがんで言うと檸檬は一段だけ降りてきた。それ以上は降りない。見送るだけにすると決めた顔だった。その横でラスクとショコラが並んで毛づくろいをしている。あんずはいちばん上の段で丸くなり半分目を閉じていた。ももとゆずはソファの背もたれで折り重なって寝息を立てている。
「ひなちゃん。行くよ」
和也が玄関で靴ひもを結び直していた。ジャケットのポケットにはスマホだけ。ひなたもスマホとエコバッグをポケットに入れた。それだけで十分な買い物だった。
「卵と猫砂とあと何だっけ」
「和くんが食べたいって言ってたプリンの材料」
「あ。そうだった。ひなちゃんのプリン」
和也の声が少し弾んだ。年下の夫は、昨日の夜からずっとそわそわしていた。ひなたの作るなめらかプリンが好きなのだ。カラメルのほろ苦さに、目を細めて食べる顔を思い出してひなたは笑った。
扉を開けると秋の空気が頬に触れた。
家の前の道を右へ曲がり二つ目の角を左へ。いつもの商店街に行くだけなのにひなたは歩き出して三分で足を止めた。
「あれ」
「どうしたの」
「ここ曲がるんだっけ」
「違うよ。この先の信号を渡って」
「でも前はこっちから行った気がする」
ひなたは細い路地を指さした。和也は路地とひなたを交互に見て、小さく吹き出した。
「前に迷ったのもそっち」
「え」
「先月もその道行ってスーパーの裏に出たよ」
反論できなかった。ひなたは頬を膨らませる代わりに口を閉じた。複雑な道に入ると頭の中の地図がぐるりと反転する。東京で生まれ育って三十年になるのにこればかりは直らなかった。
和也は何も言わずにひなたの手を取った。指と指が絡む。
「はい。これでもう迷わない」
「迷うよ。和くんが迷ったら」
「俺は迷わないから」
「自信満々だね」
「ひなちゃんと手を繋いでるときだけはね」
平然と言われてひなたは返す言葉を探した。見つからなかったので、繋いだ手を少しだけ強く握り返した。それで和也が満足そうに笑うのを横目で見ていた。
付き合い始めのころに方向音痴がばれた日のことを思い出す。恥ずかしくて消えたくなったのに、この人は嬉しそうに手を差し出した。それが手を繋ぐ理由になったと子どもみたいに喜んでいた。あれからもう何度この手に連れられて目的地に着いただろう。
信号の青を待ちながら和也がふと空を見上げた。
「今日は雲がきれいだね」
「ほんとだ。うろこ雲」
「プリン作る日は天気いいよね。ひなちゃんが作ると」
「関係ないでしょ」
「あるよ」
「ないって」
くだらないやり取りをしているうちに信号が変わった。二人は並んで足を踏み出した。
横断歩道の手前の歩道から車道へ。アスファルトの縁に靴の先がかかった。
その瞬間だった。
足の下の感触が消えた。
最初に思ったのは段差を踏み外したということだった。けれど踏み外した先に地面がなかった。黒でも灰色でもなくただ何もない。体がすとんと下へ引かれる。
「ひなた」
名前を呼ぶ声が聞こえた。いつものひなちゃんではなかった。和也が低い声で自分を呼ぶ。繋いでいた手が強く引かれ次の瞬間には背中ごと抱き込まれていた。腕の中は温かかった。落ちているのに胸の奥だけが不思議なほど静かだった。
風が耳元で唸る。叫ぼうとしたけれど声が喉で止まった。和也の腕がさらに強くなる。顔を胸に押しつけられて何も見えない。心臓の音だけが聞こえた。速かった。自分のものか彼のものかわからなかった。
落ちていく時間は長かったのか一瞬だったのか。
ふいに音が消えた。
風も止んだ。
ひなたはゆっくりと目を開けた。
白かった。
どこを見ても白だった。空も床も壁も区別がつかない。影すらなかった。ひなたは床に座り込んでいた。座っているのに床の冷たさも硬さも感じない。膝にも背中にも痛みはなかった。落ちたはずなのに衝撃の記憶だけがすっぽり抜けている。
「ひなちゃん」
耳元で声がした。和也の腕はまだひなたの背中に回っていた。ひなたは彼の胸に額を預けたまま動けなかった。
「ひなちゃん大丈夫。怪我してない」
「してない。和くんは」
「俺も平気。どこも痛くない」
顔を上げると和也の顔がすぐ近くにあった。瞳が揺れている。いつも飄々としている夫がこんな表情を見せたのは初めてだった。ひなたは震える手で和也の頬に触れた。体温はちゃんとあった。
「手」
「え」
「離さなかったね」
和也は言われて自分の左手を見た。ひなたの右手と指を絡めたままだった。落ちている間も床に座った今も一度も解けていなかった。
「当たり前でしょ」
声が少し掠れていた。
ひなたは周りを見渡した。ポケットのスマホとエコバッグは確かにある。さっきまで歩いていた道も信号も秋の空もここには何もなかった。
家には六匹の猫と三匹の犬を残してきた。猫砂はまだ買っていない。檸檬はまだ階段の途中で待っている。
その事実だけが白い世界の真ん中で痛いほどはっきりと胸に残っていた。




