第3話:家族の絆とプレゼント
昼前に玄関のチャイムが鳴った。
ひなたが扉を開けると、段ボール箱を抱えた背の高い男が立っていた。サングラスを額に押し上げ、ブランドものの上着の袖を無造作にまくっている。朝陽と同じ顔のもう一人の兄の春翔だ。
「よう、ひなた」
「春兄、連絡くらいしてよ」
「したよ、三回。出なかっただけだろ」
言われてポケットのスマホを見ると、確かに着信が三件並んでいた。台所で卵を割っている間に鳴っていたらしい。ひなたが謝るより先に、足元で床が鳴った。
大福とミルクが同時に飛び出していた。
「おっ、デカくなったなあ。お前ら」
春翔は箱を置いてその場に屈み込み、二匹を両腕で受け止めた。大福の体当たりに尻もちをつきそうになりながら、それでも顔は笑っている。ミルクの小さな体を片手で掬い上げて目の高さに掲げた。
「ミルク。お前が来た日のこと覚えてるか」
もちろん覚えているはずがない。ミルクは春翔の鼻先を舐めただけだった。
玄関の奥ではムギが廊下の端に座ったまま、じっと客を見ていた。春翔が顔を上げると、ムギの尻尾がゆっくり一度、床を打った。それから立ち上がって、いつもの慎重な足取りで近づき、春翔の膝に前足をそっと置いた。
「お、ムギ。お前は相変わらず紳士だな」
「春兄が来るといつもそう。ちゃんと順番待ってるの」
「そりゃ出迎えの作法ってやつだ」
リビングに通すと、春翔は遠慮なくソファの真ん中に腰を下ろした。ももとゆずが即座に寄ってきて、片方は肘掛けに、片方は背もたれの上に陣取る。檸檬たちは階段の途中から様子を窺っていた。見慣れない大きな人間を、まだ警戒しているらしい。
「あの四匹がお前の言ってた拾い猫か」
「うん。和くんが散歩の途中で見つけたの。袋に入れられて道端にね」
そこまで言って、ひなたは言葉を切った。思い出すと、胸の奥が静かに冷える。春翔は何も言わなかった。ただ階段のほうへ視線を向けて、小さく息を吐いた。
「そうか。見つけたのが和也でよかったな」
「うん」
「あいつ、いい男だな」
唐突な言い方だった。ひなたは台所に向かいかけた足を止めた。
「どうしたの急に」
「最初に会った日は正直、生意気そうな若造だと思ったんだよ。五つも下のくせにお前の顔ばっかり見てるし」
「ちょっと春兄」
「でもな。一ヶ月で結婚するって聞いたとき、反対はしなかった。お前があんなふうに笑うのを、何年ぶりかで見たからさ」
春翔は肘掛けのももの背中を撫でながら言った。声は軽いのに、目だけがやけに静かだった。
ひなたは何も返せず、お茶を淹れるふりをして背を向けた。やかんに水を入れる音がやけに大きく聞こえた。
箱の中身は、犬たちのためのおもちゃと、猫たちのための新しい爪とぎだった。どちらもペット用品店で売られている普通のものだったが、サイズは全部ぴったりだった。
「これ、いつ測ったの」
「前に来たとき、目分量で」
「目分量でこの精度は怖いよ」
「俺は不動産屋だぞ。寸法には強い」
胸を張る兄に、ひなたは笑ってしまった。
夕方、仕事帰りに朝陽がホテルから電話をかけてきた。
「春翔がそっち行ってるだろ」
「うん。さっきまでいたよ。もう帰った」
「あいつ、俺に黙って先に行きやがって」
「今度はお兄ちゃんが来ればいいじゃない」
「行く。次の休みに行く。何か食いたい」
「え、私が作るの」
「当たり前だろ。久しぶりにお前の飯が食いたい」
電話の向こうで少し間があった。朝陽の声が、わずかに低くなる。
「ひなた。ミルクと大福、元気か」
「元気すぎて困ってる。大福なんて今日、春兄を押し倒しかけたよ」
「あはは。そうか。あいつ、嬉しかったろうな」
朝陽が笑う。笑ってから、少しだけ黙った。
「……あのとき、お前が仕事辞めて、うちの厨房に来たばっかりのとき。何にも食べなくなっただろ」
ひなたは電話を持つ手を持ち替えた。
「うん」
「ムギがいても、まだ、お前が飯食わなかったから。だから大福を連れてきたんだ。ブリーダーのところで、子犬の写真を見てさ。この子だって思った。もう一匹、小さいのが増えれば、少しは息ができるかもしれないって」
「お兄ちゃん」
「押しつけだったよな。ごめんな」
「ううん」
声が少し詰まったのが自分でもわかった。けれど、涙は出なかった。代わりに胸の奥がゆっくりと熱くなった。
「大福が来た日のこと、覚えてる。小さくて、白くて、重くて、膝の上で寝ちゃって。ムギが隣で、ずっと見張ってた。あの日、私、久しぶりにごはんをちゃんと食べられたの」
電話の向こうが静かになった。
「そうか」
朝陽の声はそれだけだった。それで十分だった。
和也が散歩から帰ってくると、ひなたは兄たちのことを、ぽつぽつと話した。夕飯の支度をしながらだったので、話はあちこちに飛んだ。それでも和也は包丁を握る手を止めず、ときどき相槌を打つだけで、最後まで聞いてくれた。
「ミルクは春翔さんが選んだんだよね」
「うん。ポメラニアンかビションフリーゼを飼いたいって、昔ちらっと言ったの覚えててくれたの。まさか両方まぜた子が来るとは思わなかったけど」
「ポメビション」
「そう」
「あの顔でそれは卑怯だよね。ずるいよ。見ただけで好きになる」
和也はキャベツを刻みながら言った。足元ではミルクが彼のスリッパの端に前足をかけている。
「ねえ、ひなちゃん」
「うん」
「ひなちゃんって、ずっと誰かにもらってばっかりの人生だって思ってない?」
ひなたの手が止まった。
和也はまな板から顔を上げず、淡々と続けた。
「兄貴たちにも、犬にも、俺にも。でもそれってさ、ひなちゃんが全部ちゃんと受け取ってるからだよ。大福もミルクも、ひなちゃんのところに来たかったんだと思うよ」
「そんな言い方、ずるいよ」
「事実だから」
和也は包丁を置いて、ひなたの頭に手を乗せた。それ以上は何も言わなかった。
食卓には、ほうれん草の胡麻和えと豚の生姜焼きが並んだ。和也が焼いた生姜焼きは、いつもより少し焦げていた。ひなたは文句も言わずに食べた。
足元では大福がうとうとと瞼を落とし、ミルクが腹を出して仰向けに転がっている。ムギはその二匹の間に体を挟み込むようにして伏せ、時々目だけで食卓を見上げていた。
誰も、食卓の皿には鼻を向けない。
そのかわり、犬たちの視線の先にはひなたの手があった。ひなたが箸を置くたびに、三つの顔が少しだけ、期待に近いものを浮かべる。
「あとでね。ごはん食べ終わったら、みんなで撫でてあげるから」
ひなたの言葉に、尻尾が三本、同時に床を鳴らした。
窓の外では、夜が静かに降り始めていた。この家の灯りが、通りの向こうからでも見えるくらいあたたかくなっていることを、ひなたはまだ知らなかった。




