第2話:賑やかな朝の風景
猫たちの朝ごはんの時間は決まっていない。ひなたが起きると、猫達も起きるから、それが朝ごはんの時間だ。
ひなたが台所の戸棚を開けた途端に、頭上の気配が変わった。二階へ続く階段の上に小さな影がずらりと並んでいる。檸檬とラスクとショコラとあんず。今は五ヶ月半になった子猫たちは尻尾を立てたまま階段の手すりに前足をかけて一斉にこちらを見下ろしていた。
「はいはい、ちょっと待ってね」
猫用の器を四つ並べる。カリカリの袋を開けると、かさりと乾いた音が鳴った。その音だけで檸檬が階段を駆け下りてきた。三毛の体を弾ませて、足首にぶつかるように体をこすりつけてくる。ひなたの足にいちばん最初に触れておかないと気が済まないらしい。
次に来たのは黒猫のラスクだった。ラスクはひなたの足元を素通りして、台所の入口で立ち止まりそのまま振り返った。視線の先には廊下の奥から歩いてくる和也がいる。
「おはようラスク。お前もう腹減ったの」
和也がしゃがむと、ラスクは待ってましたとばかりに膝へ登った。その後ろから茶トラのショコラがのそのそとついてくる。ショコラはラスクほど急がない。けれど最後は必ず和也の膝の隙間に、自分の居場所を作る。
「俺はごはん係じゃないんだけど」
「いいじゃない和くんがいちばん人気で」
「ひなちゃんに懐いてるのは、檸檬だけじゃん」
「あんずもだよ」
ひなたが目をやると、階段の中ほどで白い小さな塊がじっと座っていた。あんずはいちばん体が小さい。他の子達が騒いでいる間は、必ず一段上から様子を見ている。順番を譲るのが癖になっているのだ。
ひなたはしゃがんで手を差し出した。
「あんず。おいで」
白い耳がぴくりと動いた。それから一段ずつ慎重に降りてきて、最後は小走りになってひなたの手のひらに顎を乗せた。喉がごろごろと鳴る。誰かの邪魔にならない場所をあんずは探している。その探し物の答えが、今はこの手のひらなのだと思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
猫たちの器が空になるころには、廊下のほうが騒がしくなっていた。
「大福、待て」
和也が立ち上がって声をかけたがもう遅かった。リビングの扉の隙間から白い毛玉が二つ転がり込んでくる。大福とミルクだ。大福は走りながら滑って壁にぶつかり、ミルクはその脇をすり抜けてひなたの足元へ一直線に駆けてくる。七ヶ月の雄犬二匹は、朝になると体の中に火が点くらしい。
「おはよう大福、ミルク。順番だよ順番」
ひなたが両手を広げると二匹が同時に飛びついてきた。サモエドの大福の体重は膝に乗せると痺れるほど重い。ポメビジョンのミルクは小さな体のくせに大福と同じ勢いで顔を舐めようとする。
その輪の外でムギは廊下の真ん中に座っていた。
柴犬の長男は、尻尾を床に一度だけ打ちつけた。入っていきたい気持ちはある。けれど弟分たちが先に甘えているときは待つことにしているのだ。ひなたが視線を送ると耳が少しだけ後ろに倒れた。目だけは絶対に逸らさない。
「ムギおいで。みんなで朝ごはんにしよう」
名前を呼んだ途端にムギは立ち上がって肩に額を押しつけにきた。順番を待った分だけ甘え方が深い。ひなたは首の後ろを手で包み込むように撫でた。目を閉じた顔が少し得意そうに見えた。
犬たちのごはんは専用の器に入れて並べる。ひなたが器を置いて合図を出すまで、三匹はきちんと座って待っていた。大福の口の端から涎が垂れかけているのは見なかったことにする。
「よし」
三つの顔が同時に器へ沈んだ。
それを見届けてから、ひなたはようやく自分達の朝ごはんにとりかかった。フライパンに卵を落とすと台所に甘い匂いが広がる。パンを焼きサラダを盛りつけ、コーヒーをおとす。手を動かしている間は頭が空っぽになれる。それがひなたにとって、いちばん安全な時間だった。
「ひなちゃん、コーヒーは俺がやるよ」
「ありがとう、じゃあお願い」
並んで立つと、和也の肩が自分の頭より少し高い位置にある。ひなたは百六十センチで、和也は百七十八センチ。十八センチ違う。この距離が、いつの間にか自分の定位置になっていた。
「あのさ」
「うん」
「ひなちゃんの卵焼き今日は甘い?」
「しょっぱいのと甘塩っぱいのどっちがいい」
「甘塩っぱい」
「知ってた」
笑って卵液に砂糖を足すと、和也は嬉しそうに耳まで赤くなった。年下の夫はこういう小さなことで幸せになれる人だ。ひなたはそれが好きだった。
その足元をももとゆずが通っていった。六ヶ月の兄弟猫は朝ごはんを終えると決まって台所の床で追いかけっこを始める。ももの背中のビスケット色の水玉がちらりちらりと揺れた。ゆずは白黒の尻尾を高く立てて兄の後ろを追う。二匹とも人間の足の間をすり抜ける腕前だけは立派なものだった。
「ゆず、危ない」
和也が咄嗟に足を引いた。ももがその足をかすめて壁際のカーテンへ飛びつきゆずが勢い余って食卓の脚にぶつかった。ひなたは慌てなかった。落ちた物がないか目で確かめてから笑った。
「ほら怪我してないよ」
「ひなちゃんは、ほんと動じないね」
「動じる暇がないだけだよ」
本当にそうだった。この家では毎日どこかで何かが転がっている。
食卓についたころには、窓の外の空が薄い水色に染まっていた。足元には、ムギと大福とミルクが三角形を作って寝そべり、階段には猫たちが思い思いの場所で毛づくろいを始めている。檸檬は和也の椅子の下でラスクとショコラは窓辺の日だまりへ移動していた。あんずだけが、ひなたの椅子の脚に背中を預けて丸くなっている。
人間用の食べ物はこの子たちの前には出さない。その当たり前の事は誰かが決めたことではなく、最初からこの家の約束だった。食卓の匂いがどれだけ美味しそうでも犬も猫も自分の器の中だけを見ている。そのことがひなたには少し誇らしかった。
「いただきます」
「いただきます」
和也が先に箸を取って卵焼きを掴み、口に入れた瞬間に目が細くなる。
「うまい」
「出汁巻きの練習してたでしょ昨日」
「バレてた」
「焦がしたのは私が食べたからね」
「あれ全部食べてくれたの」
「もったいないでしょ」
和也が言葉を探すように視線を泳がせた。それから観念したように笑ってテーブルの下でひなたの足を軽く蹴る。蹴るというより触れるくらいの強さだった。
家の中にはいくつもの足音と寝息と小さな鳴き声が重なっている。誰かが動くたびに別の誰かが顔を上げ、誰かが鳴けば違う誰かが近づく。そのどれもがひなたの人生で選んで手に入れたものだった。
食事を終えると和也が立ち上がって散歩用のリードをフックから外した。その音が鳴った瞬間にムギと大福が同時に飛び起きた。
「ムギ。大福。行くよ」
二匹は尻尾を振りながら玄関へ走る。ムギは走りつつもちらりとこちらを振り返った。ひなたが手を振ると安心したように前を向いた。和也が二匹にリードをつけながら靴を履く。
「いってきます。ひなちゃん」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
玄関の扉が閉まると家の中に静けさが降りた。ミルクが玄関の前で鼻先を扉に当てたまま動かない。置いていかれたと思っているのだろうか。ひなたは近づいてしゃがみ込み背中をゆっくり撫でた。
「ミルクは今日はお留守番。私と遊ぼうか」
小さな体が一度だけ尻尾を振った。それから膝の上へよじ登り丸くなって目を閉じた。体温が服越しに伝わってくる。その後ろからももとゆずが追いついてきて両側に陣取り膝の上は三匹の毛玉でいっぱいになった。
ひなたは動けなくなって小さく笑った。
洗濯物を干す時間までには、まだ少しある。まあいいかと思った。この重さは嫌いじゃない。
窓から差し込む朝の光が、毛並みの上で淡く揺れている。遠くから、和也とムギと大福の足音が少しずつ遠ざかっていくのが聞こえた。




