第1話:過去と現在
朝五時四十分。目覚ましが鳴る三分前にひなたは目を開けた。
腰に回された腕が重い。背中には夫の体温がある。首筋に落ちる寝息がくすぐったくて少しだけ身をよじると腕の力が強くなった。
「ん……ひなちゃん」
「まだ寝てていいよ。和くん今日は遅番でしょう」
「やだ。ひなちゃんが起きるなら起きる」
寝言の延長みたいな声で言うくせに腕は絶対にほどけない。五つ年下の夫はこういうところが子どもっぽい。ひなたは天井を見たまま小さく笑った。
枕元ではまだ体の小さい猫が二匹丸くなっている。白に黒の水玉を散らしたゆずの尻尾がひなたの手の甲に乗っていた。その隣でももが薄目を開けてこちらを見ている。ひなたが目を合わせてゆっくり瞬きをするともももゆっくり瞬きを返して額を手首に押しつけてきた。
廊下からは爪がフローリングを叩く音がする。ムギだ。扉の向こうで座り直す気配がして短く一度だけ鼻が鳴った。ほんとうは飛び込んできたいのにそれをしないのが一歳十ヶ月の柴犬の矜持らしい。
「はいはい今行くから」
ひなたが起き上がると和也もようやく腕をほどいた。ほどきながら指先だけは最後まで離さない。その指がするりと抜けた瞬間に朝の空気が少しだけ冷たくなった気がして自分でも可笑しくなる。
三年前の自分に、この朝を見せたらきっと信じないだろう。
ホテルの厨房は朝が早い。
ひなたがシェフとして働くこのホテルは十二歳上の兄の朝陽が経営している。コック帽を被ってしまえば妹も経営者の身内も関係がない。包丁を握る手だけが仕事の証明だ。
仕込みの最中に後ろで鼻をすする音がした。
振り向くと入って半年の見習いの女の子が調理台の端で肩を震わせていた。昨夜の盛りつけを副料理長にきつく言われたのだという。
「すみません……私やっぱり向いてないのかなって」
ひなたは手を止めた。彼女の涙を見る。震える肩を見る。
何も感じなかった。
あんなに酷く怒られて可哀想だとは思う。思うけれどそれは頭の中で文字になるだけで胸には降りてこない。かつては人の涙を見ると自分の喉まで熱くなった。今は水面に石を落としても波紋が起きないような感じがする。
「盛りつけの角度を直すだけで済む話だよ。ソースの流れ方をもう一回見せるから隣に来て」
淡々と言うと彼女は鼻をすすりながら頷いた。冷たいと思われているのかもしれない。それでも構わなかった。冷たくなければ立っていられない場所をひなたは一度知っている。
「ひなた」
厨房の入口に背の高い男が立っていた。同じ顔の兄がもう一人いるので一目で朝陽だとわかるのは声と歩き方のせいだ。
「ちゃんと食ってるか」
「毎日食べてるよ。和くんが作ってくれるから」
「あいつ料理できるのか」
「お兄ちゃんより上手かもね」
朝陽は変な顔をして笑い、厨房の隅の椅子に座ってひなたの仕込みを黙って眺めた。三十分もそうしていた。理由は聞かない。この人は妹が元気かどうかを、ただ見に来ているのだ。
獣医師だったのは、二十四歳から二十六歳までの二年間だった。
動物が好きだった。子どもの頃から犬も猫もなぜかひなたの膝に乗った。だから迷いはなかった。国家試験に受かった日は、兄たちが大騒ぎして夜中まで祝ってくれた。
けれど現場は優しさだけでは回らなかった。
救える命と救えない命の間に線を引くのは、獣医の仕事だ。手術をするか見送るか。費用と予後と飼い主の覚悟を天秤に載せて、今この場で答えを出す。ひなたの判断ひとつで一匹の体温が消えた。
ある冬の夜に運ばれてきた、老いたラブラドールを覚えている。
飼い主の老夫婦は泣いていた。ひなたは手術を勧めなかった。体力を考えればそれが最善だと思ったからだ。夫婦は頷いた。けれど翌週に夫の方が診察室に来て低い声で言った。
「あんたが殺したんだ」
その言葉自体よりも、向けられた感情の温度に耐えられなかった。病院では先輩の苛立ちや、同僚の嫉妬や、飼い主の不安がいつも空気に混ざっていて、全部が皮膚から入ってきた。ひなたはそれを全部受け取ってしまう子どもだった。親戚の間で比べられ、黙って笑っていた頃から、何も変わっていなかった。
夜中にひとりで泣き、朝には何事もない顔で白衣を着る。それを二年繰り返してある朝、ドアノブに手が伸びなくなった。
兄が迎えに来た。何も聞かずに車に乗せて、何も聞かずに食事を作った。それからホテルの厨房の鍵を渡して言った。
「ここはお前の場所だ」
調理師の免許を取って、気づけば感受性はそぎ落とされていた。涙も流れなくなった。それは防衛本能で、壊れたわけではないのだとあとから思うようになった。自分と他人の間に線が引けるようになっただけだ。そう言い聞かせて今日まで来た。
もう獣医には戻りたくない。それだけは今でもはっきりしている。
「ただいま」
玄関の扉を開けた瞬間に床が鳴った。
大福が来た。生後七ヶ月のサモエドは、体だけが先に大人になってしまって止まり方を知らない。ひなたの膝に全体重で突っ込んでくる。その後ろからミルクが小さな体で必死に追いかけてきて足元をぐるぐる回った。
「待て待て、今靴脱ぐから」
笑いながらしゃがむと、二匹は顔を舐めようとして競い合った。その輪から少し離れた廊下の端にムギが座っている。しっかり者の長男は尻尾だけをゆっくり振っていた。ひなたが目を向けると、ようやく近づいて額を肩に当ててくる。順番を待っていたのだ。待ってでも自分の場所は譲らない。
「ムギはえらいね。ありがとう」
首元を撫でると目を細めた。奥の階段には小さな影が四つ並んでいる。檸檬とラスクとショコラとあんず。拾われて半月ほどの子猫たちが手すりの間から顔を出していた。檸檬だけが一段ずつ慎重に降りてきて足首に体をこすりつけた。
「おかえり。ひなちゃん」
台所から和也が顔を出した。エプロン姿で菜箸を持ったまま立っている。
「ムギが三十分前から玄関で座ってたよ。俺が抱っこしようとしたら動かなかった」
「ごめんね、寂しかったね」
「俺は?」
「和くんも」
即答すると、和也は嬉しそうに口元を押さえた。この人は笑顔を隠すのが下手だ。
夕飯は鮭の塩焼きと味噌汁と出汁巻き卵だった。出汁巻きは少し焦げていて端が崩れていた。それが妙に愛しくてひなたは箸をつけた。
「どう」
「おいしい」
「ほんと」
「ほんと。ちょっと甘い。私の好みを覚えてくれたんだね」
和也はテーブルに突っ伏した。耳が赤い。
食事の間も、足元には犬たちが寝そべっている。人間の食べ物を欲しがる子は一匹もいない。皿が空になると、大福が名残惜しそうにテーブルの下から顔を出した。けれど、すぐに自分のご飯が入った器の方へと歩いていった。犬たちには、ちゃんと自分たちのご飯があるのだ。
食器を洗い終えてソファに座ると、和也が隣に来て肩に頭を預けた。
「今日ね」
「うん」
「営業の頃の同期に会ったんだ。まだあのまま営業やってた。辛そうだったけど、俺は何も思わなかった。めんどくさいって思っちゃった」
「うん」
「冷たいかな」
ひなたは少し考えてから、和也の髪に指を通した。
「私もね、今日職場の子が泣いてるのを見て、何も感じなかった。冷たいって言われても仕方ないと思う」
「ひなちゃんは冷たくないよ」
「どうして」
「だって、ひなちゃんが泣くのは家族のことだけでしょ」
言い当てられて返事ができなかった。
その通りだった。親しい誰かが亡くなっても寂しいと思うだけで涙までは出ない。
別にアルバムを開くたびに泣くようなタイプじゃない。でもこの前、実家で兄たちに挟まれて笑う幼い自分の写真を見つけたときだけは違った。気づけば頬を伝っていた涙に、自分でも少し驚いたくらいだ。
世界でたったひとつだけ、線が引けない場所。家族というのはそういうものなのだと思う。
「和くん」
「うん」
「ありがとう」
何に対してのありがとうか、自分でもよくわからなかった。それでも和也は何も聞かずにひなたの手を握り込んだ。指の間に彼の指が入ってくる。
膝の上ではももが丸くなっていた。足元ではムギが体を預けている。窓の外では、いつもの夜がいつも通りに更けていく。
この当たり前の温度がずっと続くと思っていた。疑う理由はどこにもなかった。




