第38話:送り出し
静けさが戻ってきた。葉の滴が落ちる音だけが続いていて、ひなたは、しばらく動かずに木々の奥を見ていた。
「行っちゃったね」
「うん」
「また来るかな」
「どうだろう」
ひなたは正直に言った。声は穏やかだった。
「来てくれたら嬉しいけど」
「俺も」
和也が深く息を吐いた。それから自分の手のひらを見下ろした。金色の光はもう残っていない。ただ指先が少しだけ温かかった。
「俺ちゃんとできたかな」
「できたよ」
ひなたは和也の手を取った。両手で包んで指の一本ずつを撫でた。
「ありがとう。和くんが治してくれた」
「ひなちゃんのご飯があったから来てくれたんだよ」
「二人でだね」
「うん。半分こ」
和也が照れたように口元を押さえた。ひなたは笑った。
扉を閉める前にもう一度だけ森を見た。霧が少しずつ晴れて木々の輪郭が戻ってくる。光の粒が朝の空気のなかでゆっくり漂っていた。
閂を下ろし鍵を回した。
皿は空にならなかった。子フェンリルは半分ほど食べて残していた。きっと治った嬉しさで食べるのを忘れたのだとひなたは思った。ひなたは皿を持ち上げて湯気の消えたご飯を見つめた。
「残しちゃったね」
「次の分にとっといたら」
「だめ。外のものは取っておかないの」
「あ。そうだった」
「森の子の皿は別洗い」
ひなたは熱湯を張った洗い桶に皿を沈めた。和也が隣で布巾を持ち洗い終えた皿を一枚ずつ受け取って拭いた。二人は黙って手を動かした。窓の外では朝の光が少しずつ白くなっていた。
手を洗い直しコック服の袖口をアルコールで拭う。母屋に森の匂いを持ち込まないための手順がもう体に馴染んでいた。
「ひなちゃん」
「うん」
「さっきひなちゃん手が動きかけてたよね」
ひなたは動きを止めた。
「見てた」
「うん。あの子のほうに」
「そっか」
「触りたかった?」
ひなたは少し考えた。それから首を横に振った。
「わからない。ただ手が勝手に」
「うん」
「でもまだ早いと思った」
「それでいいと思う」
和也は迷いなく言った。
「ひなちゃんが決めるときでいい」
ひなたは頷いた。胸の奥にまだ小さな熱が残っていた。あの子の目。尻尾の揺れ。空を掻いた前脚。ひとつずつ思い返すたびに口元が緩んだ。
看板の札を裏返す時刻になった。和也が背筋を伸ばして入口へ向かう。
「いらっしゃいませ」
朝一番の声がいつもより弾んで聞こえた。ひなたは厨房の窓の奥でそっと笑った。
扉の向こうの森で、銀色の毛並みが霧の中を駆けていく姿が頭に浮かんだ。四本の脚で、何の痛みもなく土を蹴る姿だった。それだけでこの朝は十分だと思えた。
母屋の窓の向こうでは猫たちが、キャットタワーの上から別棟の屋根を見つめていた。檸檬が前足を揃え、あんずがももとゆずのあいだで丸くなっている。犬たちは玄関の格子の前でじっと待っていた。
今日もこの家の一日が始まった。
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