第37話:和也の回復魔法
翌朝の森は霧が出ていた。
ひなたは勝手口の前で手を洗った。隣で和也も同じように洗っていた。指の間まで念入りに泡立てる横顔がいつもより真剣だった。
「今日は和くんが主役だからね」
「緊張してきた」
「大丈夫だよ、和くんなら」
「ひなちゃんに言われたら頑張れる」
和也が小さく笑った。ひなたは白い深皿を一枚棚から取り出した。昨日と同じ鶏と米のご飯が皿の上で湯気を立てている。人肌より少し温かいところまで冷ましてあった。
「あの子が来てたらまずご飯。治すのはそのあと」
「うん。食べてる間は何もしない」
鍵を回して扉を引いた。
霧が厨房に流れ込んできた。白い帯が床を這い足首に冷たく触れる。森は薄い乳色に沈み光の粒だけがぼんやり浮かんでいた。苔の石段は露で黒く濡れている。
ひなたは敷居の内側にしゃがんだ。
石段には何もいなかった。大きな木の根元にも白いものはなかった。霧の向こうで葉の滴が落ちる音だけが響いている。
「来てないね」
「まだ早いのかも」
「うん」
ひなたは皿を石段の一番上にそっと置いた。昨日と同じように音を立てずに。膝で下がって敷居の内側に戻る。
「待とう」
「うん」
二人は並んで座った。和也の肩が触れた。霧の冷たさのなかで、そこだけがあたたかかった。
しばらく何も起きなかった。湯気が細くなっていく。皿の縁に小さな水滴がついた。ひなたは冷めていくご飯を見ながら昨日の言葉を思い返した。来なかったらそれでいい。そう言ったのは本心だった。けれど胸の底のほうに小さな重りが沈んでいた。
「ひなちゃん」
「ん」
「顔」
「してないよ」
「してる。しょんぼりしてる」
「してない」
「俺は好きだけどね。しょんぼりしてるひなちゃんも」
「それは何の慰めにもなってない」
和也が肩を揺らした。そのとき霧の奥で小枝が鳴った。
ひなたは顔を上げた。
白い帯の向こうに銀色の影が浮かんでいた。昨日より輪郭がぼやけているのに、左前脚が地面に着く前に浮くのでひと目でわかった。子フェンリルは霧の中をゆっくりこちらへ歩いてきた。
石段の三段目で止まった。青い目が皿を見て二人を見た。それからまた皿を見た。
ひなたは目を伏せて顔を横へ向けた。和也も同じようにした。見ないことが今日もできる精一杯の優しさだった。
爪が石を引っ掻く音がした。ただ、昨日より早く、迷いが短くなっていた。皿の縁に鼻先が触れ舌が煮汁を舐める音が続いた。ぺちゃぺちゃと慌ただしい音が霧の中に溶けていく。
ひなたは耳だけで聞いていた。
昨日より力強い食べ方だった。昨日の分が体に残っているのだとわかった。それでも左の前脚の傷は一日で良くなるものではない。肘の熱はきっと上がっている。
しばらくして音が止まった。
皿を舐める音が一度だけ高く響いて静かになった。ひなたはそっと顔を戻した。
子フェンリルは皿の前に座っていた。口の周りを舌で舐めている。尻尾が一度揺れた。青い目はひなたをまっすぐ見ていた。昨日より警戒の色が薄かった。
「ひなちゃん」
和也が声を落とした。
「うん」
「始めてもいい?」
「ゆっくりね」
和也は立ち上がらなかった。座ったまま少しずつ体を前へずらした。敷居の縁で止まり両手を膝の上に置いて開いて見せる。子フェンリルの耳が後ろに倒れた。
「大丈夫」
和也の声は店での声に似ていた。低くてやわらかくて芯に温度がある。
「痛いところを治したいだけなんだ。何もしないよ。光が出るけど熱くないから」
子フェンリルは動かなかった。唸りは出なかった。ただ左の前脚を体の下に隠すように引き寄せた。
「隠すんだ」
「うん。痛いのを知られたくないんだと思う」
ひなたは小さく言った。
「でも本当は治してほしいと思ってる。昨日から何度も脚を見てた」
「そっか」
和也は頷いてもう少しだけ前に出た。それから右手を伸ばして、石段の縁に手のひらを上にして置いた。
指先の先に淡い光がにじんだ。白い霧の中で小さな金色の灯りが生まれた。浮き灯りに似ていたけれどもっと柔らかかった。光は指の間から滲み出し手のひらの上でゆっくり丸くなる。
子フェンリルの目がそれを追った。
首が少しだけ傾いた。鼻がひくりと動く。ひなたは息を潜めた。光の粒が風もないのにふわりと浮いて石段の上を滑っていく。三段目へ。二段目へ。子フェンリルの鼻先まで届いた。
小さな鼻が光に触れた。その瞬間に尻尾がぱたりと床を打った。
「あ」
和也が小さく声を漏らした。
「怖がってない」
「うん」
「光の匂いを嗅いでる」
「ほんとだ」
子フェンリルは光の粒を追うように前脚をほんの少し前へ出した。隠していた左脚が体の下から現れた。肘の毛が血で固まり腫れて熱を持っているのが霧の中でもわかった。
ひなたは奥歯を噛んだ。見ない。診ない。触らない。この子の脚は和也の光が治すのだと自分に言い聞かせた。胸の奥で獣医の目がきしんだ。傷の深さも炎症の広がりも勝手に見えてしまう。けれど手は膝の上で動かなかった。
「治すね」
和也が静かに言った。
「少しだけ近づく」
「うん」
和也は敷居の外へ片手を伸ばした。体は内側に残したまま腕だけを石段へ。子フェンリルまでの距離はまだ一歩分あった。光の粒がその腕を伝って手のひらに集まっていく。
「届く?」
「たぶん。でももう少し」
「無理しないで」
「うん」
子フェンリルが自分から動いた。
左脚を庇いながら一段だけ上がってきた。青い目が和也の手のひらを見つめている。鼻先が光に触れそうなところで止まった。
「いい子」
和也の声が小さく震えた。
「そのままでいいよ」
光が手のひらから溢れた。
淡い金色の帯が子フェンリルの左前脚を包み込んだ。霧が光を受けて内側から白く輝く。血で固まった毛が、光の中でほどけるように柔らかくなった。腫れた肘がゆっくり引いていく。熱を持っていた赤みが薄れていく。
子フェンリルは動かなかった。
息を止めたように光を見つめていた。尻尾の先が小さく震えていた。
ひなたは目を逸らさなかった。
傷が閉じていく。裂けていた皮膚が内側から塞がり毛並みが元に戻る。骨の歪みも筋の張りも光の中で整っていくのが見えた。獣医の目で追ってもそこに一片の無理もなかった。ただ元の状態へ静かに戻っていく。
何分かかったのかわからない。光がゆっくり薄れていった。霧のなかで金色の粒が一つずつほどけて消えた。
子フェンリルの脚は綺麗になっていた。
血の跡もなく毛並みは銀色に艶めいていた。肘のあたりの腫れも消えている。子フェンリルは自分の左脚を見下ろした。それから恐る恐る地面に足をつけた。
爪が石の上でこつんと鳴った。
体重を乗せる。もう一度乗せる。浮かない。痛みに引かない。子フェンリルはぱっと顔を上げた。氷色の目が大きく見開かれていた。
「治ったよ」
和也が言った。声が掠れていた。
子フェンリルは前脚で石段を叩いた。一歩。二歩。三歩。駆け上がるように敷居の手前まで来て止まった。そのまま和也の顔を見上げた。
尻尾が千切れそうなほど揺れていた。
「うわ」
和也が思わず声を上げた。子フェンリルが鼻先を和也の手のひらに押しつけたのだった。濡れた鼻がひんやりと触れ小さな舌が指先をなぞった。
「くすぐったい」
「懐いてる」
「ひなちゃんこれ俺の手舐めてる」
「うん。舐めてる」
「やばい」
「やばいね」
和也の声が震えていた。ひなたはその顔を見て胸が熱くなった。肩が小さく揺れている。泣いているのだと気づいた。
「泣いてる」
「泣いてない」
「泣いてるよ」
「泣いてないって」
和也は目元を拭いながら笑った。子フェンリルは気にせずその指に頭をこすりつけていた。
ひなたは動かなかった。自分が近づいたらこの子が緊張するかもしれないと思った。けれど子フェンリルの視線が和也の手を離れてひなたを見た。
青い目がじっとこちらを見ている。それから小さな体が一歩だけこちらへ向いた。
ひなたの指先がわずかに動いた。膝の上で握っていた手がほどけかけた。けれど途中で止まった。まだ触れるときではないと思った。
「ごはんありがとうって言ってる気がする」
和也が小声で言った。
「そう?」
「うん。ひなちゃんのほう見てる」
ひなたは目をゆっくり瞬いた。それから子フェンリルと同じ高さまで視線を落とした。
「どういたしまして」
子フェンリルの耳が前に傾いた。
尻尾がまたぱたりと揺れた。それから鼻をひくりと鳴らして石段の上で一度だけくるりと回った。嬉しさを持て余すようなその仕草が昨日の唸りと同じ子とは思えなかった。
「元気になったね」
「うん」
「もう大丈夫だよ」
ひなたは静かに言った。
子フェンリルは名残惜しそうに二人を見回した。それから霧の向こうへ首を向けた。森の奥で何かが呼ぶように低い風が吹いた。氷色の目が一度だけ瞬いた。
「帰るんだね」
ひなたは頷いた。
「気をつけてね」
和也が手を振った。子フェンリルはその手を見て首を傾げた。それから前脚を一度だけ上げて空を掻いた。まるで真似をするように。
和也が目を丸くしてひなたを見た。
「手振った」
「振ったね」
「ひなちゃん今の見た」
「見た」
「かわいい」
「うん」
子フェンリルは石段を駆け下りた。四本の脚が土を蹴って霧のなかへ跳ねていく。銀の毛並みが乳色の中に溶けて小さくなった。大きな木の根元で一度だけ振り返った。
氷色の目が霧の向こうで光った。それから白い影は幹の陰に消えた。
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