第36話:おいしいご飯
何を作るかは頭の中の灯りが先に教えてくれた。
冷蔵庫から鶏のもも肉を出す。皮を外して小さく切り鍋に水と昆布を入れ火にかけた。沸く前に昆布を引き上げ鶏を入れる。灰汁を丁寧に取り火を弱める。
塩は入れなかった。
あの痩せた体に濃い味は毒になる。獣医の頃に何度も見た空腹の子に急に重いものを与えて吐かせてしまった事故が頭をよぎった。出汁の香りだけで十分だった。
別の鍋で米を柔らかめに炊いた。取り寄せた国産の米が湯気を立てて膨らんでいく。炊けたご飯に煮た鶏をほぐして混ぜた。鶏の脂が薄く浮いた煮汁をほんの少しだけ回しかける。人参を細かく刻んで柔らかく煮たものを一匙添えた。
味見はいらなかった。
舌に乗せる前にわかる。やさしい味になっている。誰かを急かさずゆっくり満たす味だった。
ひなたは厨房の隅の棚から白い深皿を一枚取った。客用ではなく試作用に置いていた皿だった。団扇で扇いで、人肌より少し温かいところまで冷ます。指で皿の縁に触れて温度を確かめた。
「できた」
自分で言って少し可笑しくなった。まだ店も開けていないのに朝から森の客のご飯を作っている。
手をもう一度洗った。皿を両手で持って扉へ向かった。
和也が敷居に座ったまま振り向いた。
「いい匂い」
「でしょう。でもこれは和くんのじゃないよ」
「わかってる。お預け」
「えらい」
ひなたはしゃがんで皿を持ったまま敷居を越えた。苔の石段の一番上に膝をつく。子フェンリルまでは階段三段分の距離があった。
青い目が皿を見た。それからひなたの顔を見た。唸りが止まった。
ひなたは目を伏せた。
皿をゆっくり石の上に置いた。音を立てないように。それから両手を離し膝で後ろへ下がった。敷居の内側まで戻り和也の隣に腰を下ろした。
動かずに待った。
森の風が葉を揺らした。光の粒がひとつふたつ石段の縁に漂った。子フェンリルは皿から目を離さなかった。鼻がひくひくと動いている。けれど足は出なかった。
「食べないね」
「怖いんだよ。わかるから」
ひなたは目を逸らしたまま小さく言った。
「私たちが見てると食べられない。ちょっと外すね」
視線を床に落とし顔を横へ向けた。見ないことが優しさになる場面を知っていた。和也も黙って同じようにした。
葉擦れの音だけが続いた。
やがて小さな爪が石を引っ掻く音がした。
一段降りてくる気配ではなく一段上がってくる気配だった。ひなたは息をひそめた。足音は用心深く止まり進み止まり進んだ。それから皿の縁に鼻先が触れる微かな音がした。
くんくんと匂いを嗅ぐ音。
しばらくの静寂のあと舌が煮汁を舐める音がした。
ひなたは視線を動かさないまま、耳だけで聞いていた。ぺちゃりと最初のひと口。次に少し間があってまたひと口。それから間隔が縮まった。ぺちゃぺちゃと慌ただしい音になり皿が石に擦れる音が混ざった。
夢中になっていた。
ひなたはそっと顔を戻した。
子フェンリルが皿に顔を埋めていた。小さな体を前のめりにして尻尾が地面をぱたぱたと打っている。薄汚れた銀の毛並みが食べるたびに震えた。口の周りにご飯粒がついていた。鶏のかけらを噛みしめるたびに青い目がうっとりと細くなった。
警戒は消えていなかった。耳の片方だけはこちらへ向いたままだった。それでも体の力はほどけていた。
「ひなちゃん」
和也が小声で呼んだ。
「うん」
「笑ってる」
「え」
ひなたは自分の頬に指を当てた。確かに口の端が上がっていた。気づかないうちに微笑んでいた。
胸の奥がほろりとほどけた。
何かが溶けるような感覚だった。誰かが自分の作ったものを食べてくれる。それがこんなにも静かな喜びになるのだと思い出した。店で客が食べてくれる顔とは違った。言葉もお礼も金もない。ただ空っぽだった腹が満たされていく音がするだけだった。
それだけで十分だった。
「かわいいね」
「うん」
「ほんとに」
「うん」
和也は何も言わず、ひなたの手に自分の手を重ねた。ひなたはそれを握り返した。
子フェンリルは皿の底まで舐め尽くした。皿がからりと音を立てて石の上を少し滑った。それでも名残惜しそうに舌でなぞり続けていた。
やがて顔を上げた。
氷色の目がひなたの目を見た。今度は逸らさなかった。ひなたもそのまま見返した。逸らさないことが今は大丈夫だと思った。
小さな尻尾がゆっくり一度だけ揺れた。
「おかわりはまた今度ね」
ひなたは静かに言った。
「お腹がびっくりするから」
通じたのかどうかはわからない。けれど子フェンリルは前足を揃えて石段の上にちょこんと座った。左の前脚だけが地面から少し浮いている。傷のところに時々視線を落としてはまたひなたを見た。
和也が息を吸う音がした。
「ひなちゃん」
「うん」
「あの脚」
「わかってる」
ひなたは頷いた。見えていた。肘の腫れも血の固まり方も。
触りたいわけではなかった。治したいという気持ちとも少し違った。ただ見えているものを見えていないふりはできなかった。
「今日は触らないよ」
「うん」
「でも和くんなら治せるよね」
「治せると思う。神獣は対象に入ってるから」
「じゃあ」
ひなたは言葉を切った。この子の同意はどうやって取ればいいのだろうと思った。突然近づいて光を当てれば怖がらせる。逃げ出せばまた傷が悪化する。
「明日にしよう」
「え」
「今日はご飯だけ。この子がまた来てくれるなら明日ゆっくり」
「来てくれるかな」
「わからない」
ひなたは正直に言った。
「来なかったらそれでいいよ。ご飯が食べられたならそれで」
和也は少しだけ黙ってから笑った。
「ひなちゃんらしい」
「何が」
「全部」
ひなたはそっと立ち上がった。子フェンリルが耳を立てたが逃げなかった。扉の取っ手に手をかけゆっくり引いていく。細くなる隙間の向こうで氷色の目がじっとこちらを見ていた。
「またね」
扉が閉まるまでその目は動かなかった。
閂を下ろし鍵を回す。真鍮は今日も冷たく滑らかだった。ひなたは扉に額を軽く当てて目を閉じた。
「ひなちゃん」
「ん」
「泣いてる?」
「泣いてない」
「そっか」
「でも胸がいっぱい」
和也が後ろから腕を回した。ひなたは背中を預けた。厨房の窓から朝の光が白く差し込んでいた。
開店の時刻になる前に、ひなたは念入りに手を洗い直した。
白い深皿は専用の洗い桶で熱湯をかけて洗い乾いた布で拭いて棚の奥にしまった。森の子の使った皿は客用の食器とは別に管理すると決めた。コック服の袖口と膝のあたりもアルコールを含ませた布で拭った。母屋の子たちに森の匂いを持ち込まない決まりを一つ増やした。
「帳面に書いとく?」
「書いとく」
和也が昨夜の紙の隣にもう一行足した。
森の子の皿は別洗い。
「ひなちゃん今日は一日機嫌いいね」
「そうかな」
「そうだよ。プリンの蒸し加減鼻歌でやってた」
「やってない」
「やってた」
否定できず口を閉じた。和也が肩を揺らして笑った。
看板の札を裏返し扉を開けると、朝の風が店の中に入ってきた。いつもの老婦人の日傘が通りの向こうに見えた。和也が背筋を伸ばし「いらっしゃいませ」と声を上げた。
厨房の窓からその背中を見ながら、ひなたは思った。
森の扉は誰にも知られていない。街の仕組みにも見つからない。この店の裏側にもうひとつだけ小さな世界がある。そこで一匹の小さな狼が空っぽの腹を満たして帰っていった。
また来るかどうかはわからない。
もし来たら何を作ろうかと考えている自分に気づいた。ひなたは泡立て器を握り直して小さく笑った。
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