第35話:小さな訪問者
翌朝も犬たちは庭で走らせた。
ムギと大福とミルクを芝の上に出している間、ひなたは縁側から目を離さなかった。和也がボールを投げる。大福が転がりながら追いミルクがその脇をすり抜ける。ムギは二匹が行き過ぎるたびに少し離れた場所から見守っていた。
庭は三匹が走り回っても余るほど広い。外へ出さなくても足りることを、ひなたは最初の日から確かめていた。
「足りてるよ。ほら」
和也が指さした先で、大福がもう芝の上に腹をつけていた。ミルクも隣で舌を出している。ひなたは、三匹の足を拭いて水を飲ませ家の中へ戻した。
「お留守番お願いね。すぐ戻るから」
ムギが一度だけゆっくり瞬きをした。
二重の扉を閉めて別棟へ向かった。
開店までにはまだ二時間あった。
厨房に入ってすぐ和也が目を閉じた。
「どう」
「昨日と同じ。危ないものは何もない」
「向こうの森は」
「空白のまま。でも静か」
ひなたは頷いて手を洗ってから、勝手口の前に立った。
鍵は昨夜と同じように柔らかく光っていた。
「開けるね」
「うん」
扉を引くと深い緑の匂いが厨房に流れ込んできた。朝の森は夕暮れの森とは違っていて、木々の隙間から差す光は白っぽく、地面の苔は露を含んで濡れ光っている。光の粒は昼間のせいか数が少なかった。
ひなたは敷居の内側にしゃがんだ。
石段の苔を目で追う。昨夜と変わりはない。足跡もない。そのまま息を潜めて待った。和也がすぐ後ろに立ったまま黙っていた。
しばらくして和也が小さく言った。
「ひなちゃん」
「うん」
「右の大きな木の根元」
ひなたは視線を動かした。
太い根が地面を抱え込むように盛り上がっている。その根と根のあいだの暗がりに白いものが見えた。
最初は苔の上に積もった綿かと思った。
それが動いた。
小さな耳が一つ根の陰からのぞいた。続いて鼻先。灰色がかった銀の毛並みが朝の光を受けて淡く光った。子犬くらいの大きさだった。けれど子犬ではないとひなたにはすぐにわかった。
目が違った。
薄い氷のような青い目がまっすぐこちらを射ていた。幼いのに怯えているのに逃げずに睨んでいる。喉の奥から低い音が鳴った。唸り声というには細すぎて震えていた。
「フェンリル」
和也が呟いた。
「え」
「狼の神獣。ゲームで見たことある。本物は初めて」
「神獣」
ひなたはその言葉を口の中で転がした。ヒヅキの言っていた癒やしの魔法の対象の中にあった呼び名だった。
小さな体がゆっくり根の陰から出てきた。
左の前脚を庇っていた。
歩くたびに左前脚が地面に触れる前に浮く。体重を三本の脚に預けて頭を低くしたまま一歩ずつ近づいてくる。
肩から先の毛が血で固まっている。肘のあたりが腫れて熱を持っているのが歩き方でわかった。毛並みは薄汚れ肋骨が浮いていた。何日もまともに食べていない痩せ方だった。
胸の奥が静かにきしんだ。
けれど手は伸びなかった。
この子は自分の子ではない。触れば何かを知ってしまう。知ってしまえば見過ごせなくなる。診察室の低い声が遠くで鳴りかけた。
ひなたは動かなかった。
子フェンリルは石段の三段目で止まった。そこから先へは来ない。青い目がひなたと和也を交互に見て低い唸りがまた細く響いた。
「危険察知は」
ひなたは声を落として聞いた。
「反応してない。怯えてるだけ。敵意はないよ」
「そう」
「でも近づいたら噛むかも」
「近づかない」
ひなたは膝を揃えたまま静かに言った。
「触らない。目も合わせすぎない」
「獣医さんの顔だ」
「元ね」
小さく言い返して視線を子フェンリルの鼻先に置いた。目は見ない。それが野生の子への礼儀だった。
その鼻がひくりと動いた。
厨房の中の匂いを嗅いでいた。昨夜仕込んだ出汁の匂い。窓際の苺の甘い匂い。子フェンリルの腹がきゅうと鳴った。
その音が朝の森の静けさにやけに大きく響いた。
「お腹空いてるんだね」
ひなたは独り言のように呟いた。
和也が後ろで息を吐いた。それが笑いなのか溜め息なのかひなたにはわからなかった。
「ちょっと待っててね」
扉を閉めずに半分だけ開けたまま立ち上がった。子フェンリルの耳が後ろに倒れ体が固くなった。ひなたは両手をゆっくり開いて見せてから台所へ向かった。
「和くん扉の前にいて。入れない、出さない、そのままで」
「わかった」
和也が敷居の内側に腰を下ろした。ひなたは振り返らず厨房の奥へ歩いた。
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